赤い靴をもう一度③

 その時、オーレが襲った二人は、売れ残った大量のジャンクパーツを積んだ荷車を押していた。


 二人が人気のない路地裏に入った瞬間を狙ってオーレは幻覚ガスを浴びせようとし、

 そこで、相手が想像よりもはるかに若いことに気がついた。

 特に、黒髪を後ろに束ねた妹の方。娘の顔が脳裏に過ぎる。


 一瞬、どころではない戸惑いだった。


 その戸惑いが兄妹の運命を分けた。

 異変を察知した兄妹は、荷車をオーレにぶつけて逃げ出した。

 当初の混乱から立ち直ったオーレは逡巡を振り払ってその後を追ったが、ガスを収めたボンベは重く、兄妹との距離は離されるばかりだった。それでも、目撃者を捨て置くことなどできるはずもなく、結局オーレはボンベを捨ててでも兄妹を追跡せざるを得なかった。

 

 ◇◇◇◇◇◇◇◇


 やがて、二人を追って辿り着いたのはスラムの一角にある廃墟だった……、はずだ。

 はず、というのは、その時の出来事は後のオーレの記憶からはほとんど失われてしまったからである。

 覚えているのは、真っ赤に染まった視界の中に、前世紀の遺物のような年代物の工作機械がいくつも置かれていたこと。

 金属を削って整形する機械や熱で接合する機械、金属の板や棒を切断する機械。

 それらの物陰から別々の方向に飛び出してきた兄妹を、あまり考えもせずに追いかけたこと。

 逃げたはずのパーカー姿の男の影が、いつの間にか地面に倒れ伏していたこと。


 視界は真っ赤に染まっていた。

 思考はまとまらず、無数の映像の断片だけが走馬灯のように脳裏を駆け巡り続けており、それでもなお心の奥底に存在する憎悪と怒りだけが、かろうじて意識の一体性を保たせていた。

 殺す。

 無眠者を一人でも多く。

 それ以外に、自分の生きている意味など……

 右手に構えたナイフを、男物のパーカーを羽織った影に突き刺そうとして、

 気づいた。

 うずくまったパーカーのフードから覗いた顔は、妹の方だった。

 一瞬のためらいが生じる。

 それは、予想が外れたことも大きいが、少女が見るからに苦しんでいたからだった。

 ただ、その一瞬の躊躇いがオーレにとっては命取りだった。

 後ろから飛び込んできた兄の方に思いっきり突き飛ばされ、オーレは気がつけばベルトコンベアの上にいた。そして、兄が押したスイッチで高速で動き始めたベルトコンベアに足を取られ、オーレは後ろに倒れこむ。


 その先には、裁断のための巨大な刃が


 首斬り役人の持つ斧のように冷酷に構えていた。

 その斧は、足に……

 

      @

 

 どこかで、ブラームスの子守唄が流れている。

 オーレは夢を見た。

 

Guten Abend, gut' Nacht

(おやすみなさい お眠りなさい)

Mit Rosen bedacht

(バラと撫子に囲まれ)

Mit Naglein besteckt

(布団の中へお入り)


 娘は、夜、あまり寝つきの良い子ではなかった。

 1歳にもならない頃、ほんの少しの明かりや音を嫌がり、自分の眠気に自分で癇癪を起こし、いつまでもいつまでも泣き続けた。身体を揺さぶったり、オルゴールを鳴らして気をそらしてから、布団に横にならせ、寝付くまでの間、腕を回して抱きしめ、ずっと手を握る。

 体重を預けるわけにもいかない無理な体勢を10分、20分と続け、ようやく呼吸が静けさを増してくると、オーレは、仕事の残りを片付けようとむっくりと身体を起こし、人差し指を握る小さな手を引き剥がそうとする。

一本ずつ指を離そうとすれば、その手は意外なほど強い力で握り返してくる。

 小さな、小さな手。

 けれど、この世で一番確かなものを離すまいとする、しっかりした手。

 オーレは、その手を優しく引き剥がし、仕事に戻る。


Morgen fruh, wenn Gott will

(朝が来て 神の意志により)

Wirst du wieder geweckt

(貴方はまた目覚める)


 妻も娘もいたずらが好きで、夜、遅くに疲れて帰ると、急に明かりがつけられて物陰から二人の姿が現れて「わぁ!」と驚かそうとしてくる。深夜に近い時間に二人が起きているはずはなく、油断しきっていたオーレは、尻餅をつくくらいに驚き「心臓が止まるかと思った」と月並みな言葉を告げる。

 もちろん二人の姿は白昼夢のモーションレコーディングなのだけど、自分の間抜けな姿はしっかりと録画されていて、次の日の夕食で妻や娘にけらけらと笑いわれながら鑑賞する羽目になる。


Morgen fruh, wenn Gott will

(朝が来て 神の意志により)

Wirst du wieder geweckt

(貴方はまた目覚める)


 幼稚園キンダーガーデンでの生活が始まると、娘の表情に陰がさすことが多くなった。

 集団行動に馴染めず、人の多い場所や賑やかな場所で癇癪を起こしたり、塞ぎ込んでしまう時間も増えた。

 お祈りの時間に参加できない、自由遊びでお友達を噛んでしまう。

 そんな風に先生たちから報告を受け、妻と一緒に悩むこともあった。


 仕事の合間を見て幼稚園を訪れ、泣き喚く娘の話を聞き、できないお遊戯に寄り添いながら、少しでも集団生活のストレスが和らぐよう願った。


 年少組も終わりに近づく頃には、ようやく笑顔で登園する回数も増え、幼稚園キンダーガーデンで作った空き箱のおもちゃを嬉しそうに誇らしげに見せるようになった。


Guten Abend, gute Nacht,

(おやすみなさい お眠りなさい)

von Eng'lein bewacht,

(天使達に見守られ)


 夢の中で時は流れ、娘は健やかに成長していった。

 ありえたかもしれない幼稚園キンダーガーデンの卒園式。6歳になった娘には、入園当初に泣き叫んでいた面影はなく、名前を呼ばれると、幼いながらに背筋をぴっと伸ばして歩き、しっかりと修了証を受け取る。

 ママ、パパ、いつもありがとう。大好きだよ!

 証書を受け取った後、娘は自分たちの方に駆け寄って抱きついてくる。

 

 die zeigen im Traum 

 (夢を見ん)

dir Christkindleins Baum;

(キリストの子の木の)


 月日は流れる。

 エレメンタリースクールでは、友達とうまくいかずに悩むこともあるだろうし、父親の存在が疎ましく感じ始める時期もある。休日も、両親とともに出かけるよりは友達と遊ぶ時間が増えていく。

 寂しさを感じながらも、その距離が娘の成長の証なのだと実感ができるようになっていく。

 そして娘はエレメンタリーを卒業する年齢になる。

 子守唄は、なおも優しげな音色を響かせていた。


 schkaf'nun selig und suess,

(安らかに眠れ)

 schau' im Traum's Paradies.

(夢の楽園の中で)

 schkaf'nun selig und suess,

(安らかに眠れ)

 schau' im Traum's Paradies.

(夢の楽園の中で)


 その夢の中で、娘は、ルビコンの路地裏で自分が襲った少女の姿をしていた。

 肩よりわずかに長い黒髪を一本に束ねた簡素な髪型。

 娘がルビコンの路地裏を走り回るたびに、束ねた黒髪が左右に揺れる。

 娘は、何者かに追われているようだった。

 

 待て、やめろ!


 オーレは力の限り声を振り絞るが、まるで金縛りにあったかのように声が音として出てこない。逃げる娘を追いかけ、一つ曲がり角を曲がるたびに確実に追い詰めていく。ここには、助けに来るはずの兄はいない。

 視界は真っ赤に染まっていた。

 無眠者は全て殺す。神経ガスを吸入させ、身体の自由を奪い、

 胸にナイフを突き立てて……、

 やめろ! やめろ! やめてくれ!

 いつの間にか、娘を追っているのは、自分自身になっていた。

 オーレの右手は、左右に揺れる髪の毛を掴み、ぐいっと力ずくで後ろに引っ張る。左胸にナイフを突き刺す。自分が今まで殺してきた無眠者たちの姿が重なる。

 やめろ! やめろ! やめろー!

 何度叫ぼうとも、自分の身体は止まらなかった。

 無眠者たちに、娘に、ルビコンで会った少女に、ガスを浴びせ、髪の毛を引き、ナイフを突き立て続ける。

 その姿に、妻と娘の血塗れの姿が重なる。

 乱暴に剥ぎとられた衣服。壊れた人形のようになった手足。無数の刺し傷。この世のものとは思えない形相。


 ――お前は、死ぬまで踊り続けるがいい。

 ――お前は、死ぬまで踊り続けるがいい。


 やがて目の前に、

 首斬り役人の持つ斧が現れる。

 その斧は、オーレの足に……

 ――ああ、ようやくこれで楽になれる。

 朦朧とした意識の端で、オーレは、そんなことを考えていた。

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