赤い靴をもう一度②
「本当に、いいのか?」
違法の無眠薬を売る売人の男は、その商売には似つかわしくない躊躇いの言葉を吐いた。
「一度この薬に手を出したら、二度と普通の生活には戻れないぞ?」
それは、キラキラと光る真っ赤な砂つぶのような粉の結晶だった。
厳かであるべき教会に派手な赤い靴を履いていった少女が、死ぬまで踊り続ける呪いを受けたように。
「どうして、売人のお前がそんなことを気にする? 金さえ儲かればそれでいいんだろ?」
「なんで、だろうな。自分でも笑っちまうよ。ただ、この薬だけは、本当にただの破滅しかない。俺が扱ってるのはどれだってハンパなヤクじゃないが、他のはそれでも可愛げがある。ただ、一度こいつを打ったら、禁断症状は最悪だ。ひたすらに眠いのに眠れない状態が続く。理性も吹っ飛んじまって、自分が何をしているのかもわからなくなるんだよ」
その禁断症状は、まさしく睡眠不足による譫妄状態と酷似していた。
思考がまとまらず、猛烈な体調不良に幻覚、平衡感覚の喪失。
それでいて、決して眠ることはできない。
「それでも、もう一度打てばまた三日は不眠不休で活動ができるんだろう?」
「それだって、耐性がつけば量を増やさざるを得ないぜ。それに、こいつは攻撃性だって半端じゃない。聞いたぜ、あんた、夢なしに家族を殺られたんだってな。そんな状態でこいつを打っちまったら、どうなるかはわかってるよな」
死ぬまで踊り続ける薬、と恐れられるその薬は、元々、軍用に開発された短眠薬をベースに粗悪な改造を施したものだったらしい。
根底には死と眠りを克服した優秀な兵士を生み出すという考え方があり、恐怖を司る扁桃体に働きかけ、恐怖心を打ち消すと同時に、憎しみを増幅し、敵を殲滅することへの躊躇いを捨てさせる作用も併せ持っていた。
軍では、中和剤とセットでの使用が本来だったが、改造の最中でそうした安全装置は失われていた。
「返って好都合だよ。廃人になる前に、一人でも多くのやつらを道連れにする。それだけのことだ」
「……それでいいのか?」
「いいんだ。私はもう、眠るのはごめんなんだ」
被害者の家族を眠らせて犯行に及ぶというのは、無眠者によくある手口なのだという。虐げられている自分たちの憂さを晴らし、自分たちの優位性を誇示するための子どもじみた犯行。
もう、二度と眠りたくはなかった。
水に溶かした結晶を、注射器に入れて静脈に打ち込む。キラキラと光る、真っ赤な液体が、血管に吸い込まれていく。
心臓が跳ね、全身が高揚感に包まれる。
一人でも多くの夢なしを道連れにする。
それ以外に、生きている理由などなかった。
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それから、オーレはスラムと睡眠都市の狭間にある歓楽街ルビコンを徘徊して、無眠者を殺して回った。
薬の作用で意識は途切れずにいるはずが、オーレには、自分が今どこにいて、何をしているのかもよくわからなくなっていた。
無眠者を探してナイフを突き立てる。
それがただ一連の作業としてオーレの中にあり、それに付随する感情も目的も全てが置き去りになって、ただオーレは踊り続けた。
断片的な記憶の中で殺した相手には、ゴミ漁りの帰りだった初老の男、薄暗い路地裏で客を取っていた売春婦、『有眠者になれる薬』を売って歩く男、盲目のフリをして物を乞う者、様々な者たちがいた。
睡眠都市の
だから、オーレは、その無眠者の兄妹と出会った時のことをあまりよく覚えてはいない。
兄は14歳、妹は12歳だった。
とはいえ、その事実にしたところで後から知った知識に過ぎない。
ゴミ漁りを生計の足しにしていた二人は、ジャンクパーツをルビコンの路地で一山いくらで売りさばいていたのだという。その二人を襲った時、オーレは特に酷い禁断症状に苦しんでいた。
そもそも、まともな判断力があれば、二人を同時に襲うなどということはしなかったはずでもあり、ようやく成長期に入りかけたくらいの少女を手にかけようとしたのも初めてのことだった。
結果として、幻覚ガスを浴びせようとしたオーレは、決定的な瞬間に隙を作る羽目になってしまった。
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