赤い靴をもう一度①

 目を開ければ、幸せが待っているはずだった。

 そう、いつもの朝は、こんな風だった。

 徹夜明けの寝不足状態。

 ベッドから離れられない自分に、4歳になる娘が容赦なくのしかかり

 

 「パパおきて、おーきーてー、おーーきーーてー!」

 

 耳元に大音量がねじ込まれて脳みそがかき混ぜられ、無防備な腹の上で何度も跳ね回る。髪の毛はぐちゃぐちゃに引っ張られるし、寝不足で思いまぶたは、それでもなかなか開こうとはしない。


 右を向いているのか左を向いているのかまるでわからないほどにめちゃくちゃにされて、こっちは眠いんだ、と何度怒鳴りたくなったことかわからないが、それでも娘の愛情表現を無下に怒鳴りつける訳にもいかず、ぐっと我慢して堪えていると、階下のキッチンから登ってきた妻が、「ほーら、起きなさい!」と叫んでフライパンをカンカンカンと打ち鳴らす。


 そんな光景が微笑ましいのは夢の中だけで、

 打ち鳴らされる金属音は徹夜明けの脳髄にひどく響き、

 娘は耳を押さえてそこら中を走り回り、

 しっちゃかめっちゃかの有様の中で、妻と娘が今度は自分の上にのしかかって、ふたりで「起きなさい攻撃」を開始する。


 どうということはない、徹夜明けの朦朧とした思い出の光景。

 いつもの朝の風景。


 目を開ければ、幸せが待っているはずだった。


 ◇◇◇◇◇◇

 

 その日の明け方、オーレ・ルージェはリビングのソファに寝そべりながら、夢を見ていた。


 羊たちの夢。

 か細い悲鳴が響く、物悲しい夕暮れの夢。


 平和なはずの牧場で、狼たちに追われて逃げ惑う羊たちを、オーレは武器の一つも持たずに身を呈して守っていた。身体を張って両者の間に入り、突き立てられる狼の牙をその身に受け、反撃もせずにひたすら説得の声を上げ続けた。


 暴力を続けることの無意味さ。

 崇高な魂を持つことの大切さ。


 それは、オーレの無意識が見せただったのかもしれない。


 目を覚ませば、オーレは、リビングのソファで横になっていた。


 自己犠牲の精神を体現したような夢に密かな満足感を味わいながら目を覚ましたオーレは、リビングの隣の寝室に戻ろうとしてドアを開けた。


 そこには、妻と子どもが眠っているはずだった。

 幸せが、待っているはずだった。


 しかし、寝室のドアを開けたオーレが見たのは、

 血まみれで横たわった妻と娘の姿だった。

 

 衣服は乱暴に剥ぎ取られ、手足は壊れた人形のように奇妙な角度に曲がり、身体中に無数の刺し傷が浮かぶ。

 そして、この世のものとは思えない二人の形相は、オーレが眠るであろうリビングを凝視し、何かを叫び続けていた。


 その瞬間に自分が何をしたのか、オーレは覚えていない。


 真っ先に二人に駆け寄ったような気もするし、信じられない思いで血が滲むほど頭をかきむしったような気もするし、激情に駆られて床や壁を殴りつけ、咆哮をあげたような気もする。


 一つだけ確実なのは、病院への連絡も、応急処置の手順も、二人を助けようという考えは、何も頭に浮かばなかったということだ。


 それほど、二人の様子は絶望的だった。


 自分がどれほどの間眠っていたのか、オーレにはわからなかった。

 仕事で疲れていたなどという言い訳は、何の慰めにも免罪にも諦めにもならなかった。


 どれほどの時間、ふたりは自分の名を呼び続けていたのか。

 どれほどの絶望を感じ、どれほどの希望をもって自分の名を呼び続けていたのか。

 ようやく物心がついたばかりの娘は、一体何度自分のことを呼んだのか。

その短い生涯で得た、父親への絶対の信頼をもって。


 全てが手遅れに終わった後、オーレを何よりも苦しめたのは、

 

だった。


 目を覚ましさえすれば、妻と子どもを救えたかもしれない。

 妻と子どもが暴行を受け続けている間、オーレは、何の拘束も受けずにただ深い睡魔に身を委ね、夢の中で羊たちを守って空疎な理想論を語り続けていた。


 犯人が何らかの薬を使ったのかもしれない、という捜査官の言葉は、何の慰めにもならなかった。

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