向こうの山の麓まで⑤
「夢な、 し……?」
大きく見開かれたプリシアの目。
プリシアは、呆然とそう呟いていた。
後悔が身を貫く。
全力でごまかさなければならなかった。何がなんでも、絶対に、
「あ、いや違うんだよ。そ、そう、あいつ、勉強ばっかりしてるけど本当はやりたいことなんてなくて、目標もなくて夢もない、そういう……」
それ以上は続けられなかった。
プリシアの強い視線にそれ以上の言葉が出て来ない。
ごまかせるはずはない、とラビは思う。
恋人同士でもなければ、普通は他人の眠る姿など見ることはない。
しかし、自分たちは同じ託児室で育った仲、なのだ。
タトルは、異様にお昼寝が嫌いな子どもとして託児室でも有名だった。
普段は温厚な性格のタトルが、無理矢理寝かしつけようとされれば身体を仰け反らせて抵抗を示し、拳を振り上げ足をバタバタさせる。
年長になる頃には狸寝入りを覚えたため、周囲からは決して昼寝嫌いの域を出るようには思われていなかったのだろうが、子ども同士の間では、それが狸寝入りだということは公然の秘密だった。
鼻をつまんで反応を見たり、額に落書きをして反応を見たり、という遊びに参加したことがない幼児は託児室にはほとんどいなかったのだから。
しかし、プリシアは、予想に反して
「あ、目標が、ね、……そう、よね。タトルが無眠者なんて、そんなこと、あるわけないものね」
あははは、とプリシアは笑うが、その表情は言葉とは裏腹に硬かった。
何かの感情を抑えながら、必死で考え続けているような、そんな表情。
そして、プリシアがおもむろにラビの手を握る。
ラビは慌てた。
「え、ちょ、何?」
急に手を握られラビは戸惑うが、直後にプリシラの頭上に「黙って」という吹き出しが白昼夢で表示された。
身体接触による白昼夢の共有だった。
そして、直後に電話のコールが鳴る。
白昼夢を介した超高速の圧縮音声通信だった。
思考 が 加 速す る
まるで時間が引き伸ばされたかのように、周囲の世界が急速に緩慢さを増していった。飛び跳ねた子どもはいつまでも地面に着地せず、風に吹かれた女性の髪の毛はいつまでも真横になびき続ける。そして、世界を取り巻くすべての音が、まるで間延びした象の鳴き声のように低いうなりとなって耳に届いていた。
白昼夢を介した圧縮音声通信は、通常の意識では処理しきれない多量の情報を無理やり詰め込む形で相手の意識にねじ込む。実際に発声することはもちろん、通常の思考速度では扱いきれないその音声情報は、一時的に思考アクセラレータを使用して高速処理するのが通例だった。そして、思考を加速させた結果として起こるのが、
時間の減速、である。
『こちらは自動通報システム応答センターです/0.2秒後に有人通話に切り替わります/なお/この音声は録音されています/ご了承ください』
無眠者の血統因子による都市の汚染の排除を目的とした組織である。
おそらくは,無登録の無眠者を発見するための自動通報システムだった。
それでも、先ほど程度の会話で自動通報がされるというのは、本人の了承と協力の意志がなければあり得ないことだった。
『協力者ID094255、プリシア・ブリセイス。白昼夢による思念通話は可能ですね』
それに対してプリシアは冷静な思念通話で答える。
『はい』
そうか、とラビは思う。
プリシアの父親は、無眠者によって殺された。
彼女が
『現在、会話内容を分析しています。今回の会話で無眠者として推定された相手は、タトル・メーストル、で間違いはありませんか?』
何気ない一言一言に秘められた強烈な事実にラビは戦慄を覚えた。
それまでの会話内容から相手の推測ができる、と、このオペレータは言ったのだ。
一体プリシアはこの免疫機構にどれほどのプライバシーを晒しているのだろうか。
それは、ほぼ24時間、全ての会話内容、のはずなのだ。
『はい、間違いはありません』
プリシアにはそう答えるしかなかったのだろう。
変に隠し立てをしては返って怪しまれてしまう。
そして、落ち着いた様子でこう付け加えた。
『……ですが、会話相手のニュアンスからすると、誤報の可能性も高いかと』
『それはこちらで判断をいたします。システムからの優先度はCと割り当てられました。48時間以内に確認対象への接触を試みます。接触に際してのサポートが必要な場合には追って連絡をします』
必要最低限の連絡内容だけを残して、からの通話は途絶えた。
ガチャ、という古めかしい電子音をあえて鳴らして通話が途切れ、それと同時に引き伸ばされていた時間も元の速度を取り戻す。
ここまで時間にしておよそ0.7秒ほどの間だった。
呆然とするラビに、プリシアは何でもなかったような明るい声を出して、一体何の話なのかわからないような話を続ける。
「ねえラビくん。こんなことまで追ってきてごめんね。別にタトルに頼まれたとかじゃなくて、純粋に心配だったからなのよ。信じてね」
一体何の話なのかとラビは思うが、平然と笑うプリシアの白昼夢は必死な書体で『ごめんなさい』と謝り続けていた。
タトルを助けて、とも、逃がして、とも言わない。
この
優先度の高さによって計算力の割り当ては変わってくるが、逃げればそれだけ優先度が高まり、疑惑は増していく。
そして、兄が無眠者であることが確定すれば、自分の家族もまた同一の因子を持つというレッテルを貼られ、
無眠者を匿った父と母は犯罪者として処罰を受けるだろうし、まだ10歳になったばかりの妹もスラムでの生活を余儀なくされる。
例外があるとすれば、それは……。
確認対象が死亡したときのみだった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
降りしきる雨の中、ラビは自らの身体の制御を仮想のコントローラーに委ね、限りなく現実味を失わせることで精神を保っていた。
幸い、自分には動機があった。
首席を奪われた逆恨みで兄を殺した少年。
それができれば、家族は救われるはずだった。
確認対象が死亡するという事態は疑惑を深める可能性もあるが、
つまり、生きている中で脳の活動を追跡する以外に無眠者であることを確認する手段はなかった。どれほど疑惑が深まろうとも、確定がなされなければ、無闇に都市を追われることは考えにくい。
だから、殺す。兄を。
眠らない怪物の兄を。
これまでタトルに感じた苛立ちを、眠っている間に自分を追い抜いていくカメの姿を、タトル&ラビのプレートを、ありとあらゆる兄に対する憎悪をかき集める。
そして、憎悪を燃料に、もはや身体感覚を失ってコントローラーによる半自動制御状態となった己が身体を見下ろす。
殺す、殺さなければならない。
殺さなければ……、家族は……。
雨は降り続けていた。
その中を、十字キー操作で動く自分の身体が身を屈めて歩き続けている。
兄に感じた苛立ちを思い返そうとする。
兄が自分に迫ってくる焦燥感を思い出そうとする。
ケーキのプレートに感じた自らの満たされない感情を、眠らぬ亀が自分を追い抜いていく焦燥感を、
ダメだった。
どうして、自分はあれほど兄に対して苛立っていたのだろうと思う。
どうして、自分はあれほど兄に追い越されることを恐れていたのだろうと思う。
かつては、自分こそが兄の背中を追っていたというのに。
いつだって、自分は兄に認めてもらいたくて、兄に褒めてもらいたくて、そうして走り続けていたのに。
けれど、もう、止まるわけにはいかなかった。
自分や両親はまだ良い。
しかし、幼い妹までがを追われることは絶対に承服できなかった。
萎えそうな気持ちを鼓舞するように、身体操縦の深度をさらに上げる。
もはや、ラビの身体は目的地に向かって半ば自動で動いていた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
総合病院のすぐ脇の敷地に建てられた自宅の周囲には、黒山の人だかりができていた。
おびただしい数の警察車両と、救急車両もいくつかが見える。
まさか、もう
早すぎる、とラビは思うが、そもそも、考えてみれば48時間以内という予告はプリシアに対して期限を示すための通告であって、48時間かかりますという意味ではまさかない。
プリシアと分かれてから6時間が経過していた。
たったの6時間という気もするし、6時間も経っていたという気もする。
自分が逡巡を打ち消すために殺害アプリに没頭している間に、
遅すぎた、という後悔が身を包む。
しかし、心のどこかで、ほんの少しだけ安堵も感じていた。
兄を殺さずに済んだこと。
それは、自らの意志で運命を決めずに済んだことに対する無責任な安堵に過ぎないが、未来に対する絶望に覆われた自分の心の中にで、確かに存在していた。
人だかりの脇に、家族の姿を発見する。
しかし、そこで起こっていたのは、ラビには全く予想もつかない出来事だった。
そこから先を、ラビはあまりよく覚えてはいない。
覚えているのは、人だかりの中に、母と母に抱きつくようにして顔を埋めている妹を見たこと。
タオルケットで隠れた二人の手が、血に濡れていたこと。
人だかりを押し分けるようにして、父の寄り添うストレッチャーが走ってきたこと。
ストレッチャーに乗った人物には、やはり、白い布が被せてあり、その様子をうかがい知ることはできなかった。
しかし、それが兄であることだけは、誰に言われずともわかっていた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
病院についたラビは、兄が自ら命を絶ったのだと知った。
どうやって
プリシアが無駄と知りながらも逃げろと伝えたのかもしれないし、何かしらの情報網があったのかもしれない。
いつだって兄はマイペースだった、とラビは思う。
結局、急かしても、罵っても、蔑んでも、慕っても、追いかけても、追い求めても。
いつでも兄は、ずっと自分のペースで走り続けていたのだ。
いっときも休むことなく。
いっときも眠ることなく。
ずっと、自分は兄と何かを争っているように思っていたが、それは錯覚だったのかもしれない、とラビは思う。
兄はただ、自分のペースで歩き続けていた。
自分は兄に追いついた、追い越したと思う。
しかし、自分がどこにいても、兄はいつもほんの少しだけ違う場所にいたのだ。
そして今ではもう、兄は絶対に触れられないどこかへ行ってしまった。
――向こうの山の麓まで
ウサギと亀はそう約束をして競走を始めた。
自分も、兄と話せばよかったのだ、とラビは思う。
亀を目指したアキレスは、決して亀には到達できなかったのだから。
それから、ラビは、あまりうまく眠ることができなくなった。
毎晩、眠ろうとするたびにタトルのことを夢に見て跳ね起きる。
いつか、本当に眠らなくなる日が来るのだろうか。
しかし、それに答えられるものは誰もいない。
(了)
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
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