向こうの山の麓まで④
それから、ラビはこれまで以上にがむしゃらに勉強に打ち込むようになった。
しかし、結果は惨憺たるものだった。それまでは順調にこなしていた課題も進度が送れるようになり、一つの問題を習得するのにかかる時間も増える一方。
元々、自分の勉強方法がこれ以上にないほど効率的なシステムだったことはラビにもわかっていた。それを、無理矢理根性でねじ伏せるような真似をしても、いい結果を招かないということも。
まだ、兄に追い抜かれたわけではない。
焦る必要はない。
自分は自分のペースで最大限の成果を上げるのが重要なのではないか。
理屈ではわかっていた。
学習管理アプリに従って勉強を進め、体調管理アプリの進めに応じて眠る。それ以上に成果を出せる方法などこの世には存在しない。
理屈ではわかっている。
それでも、
眠らない亀が、兄の名が書かれたプレートが、あの日見た無眠者の姿が、
脳裏に蘇るたびにラビは焦燥感に駆られて勉強をせずにはいられなかった。
そして、その日もラビは、机に突っ伏したまま朝を迎えた。
トントン、とドアを叩く音がして、跳ね起きる。
母だろうか?
「ちょっと待って」
顔についただらしない跡を見られるのが嫌で、ラビは鏡をみて確認をし、結局、ちょっとやそっとの時間では消えそうにないということに諦めてドアを開けた。
兄だった。
「何の用だよ」
険悪な言葉が口をついて出る。
兄は、いつものようにゆっくりと、
「ラビさ、昔一緒に遊んだプリシア、って覚えてる?」
プリシア、という言葉に心臓を投げつけられたような思いがする。
いつぞや再会をしてから、ラビは何度かプリシアに連絡を取ろうとしたことがあったが、白昼夢を立ち上げるたびに、連絡しても一体何を話したらいいのかわからずに二の足を踏んでいた。
「覚えてるに決まってるだろ。託児室で一緒だったし、エレメンタリースクールのときだって三人で遊んだじゃないか」
タトルは「ああ、よかった」と喜ぶが、ラビは「それがどうしたんだよ」と苛立つ。
「いやさ、最近プリシアから連絡が来たんだけど、今年からこの辺りで働き出したみたいで、久しぶりに三人で会わないかって。ほら、ラビだって、勉強続きで疲れてるだろ?」
一瞬、思考が停止してしまった。
急速に腹底が冷え込んでいくかのようだった。
プリシアの中では、やはり自分と兄の間柄はエレメンタリースクールの2年生から更新されてはいないようだった。
――大体、なんだってタトルに。
心の中でラビはそう呟く。
もちろん、理屈ではわかっている。
プリシアにとって、ラビはあくまでタトルの弟なのだ。
自分にだって、仲の良い同級生に妹がいたとしたら、あいつの妹、という認識になるに決まっている。
そんなことはわかっている、
わかっている……、のだが。
「俺は、いいよ。今はそんなことしてる暇はないから」
プリシアに撫でられた頭の感触が蘇る。
それでも、タトルと一緒プリシアと会うのは、絶対に嫌だった。
自分は「タトルの弟」ではない。そうした思いは、腹底に重く澱のように沈殿していた。
その夜、プリシアからラビに白昼夢を介した音声通話が入ったが、ラビはその通話に答えることはしなかった。
そうして、再び机に向かう。
しかし、どれほどの時間を費やしても、どれほどの気持ちを込めても、ラビの成績は一向に向上する気配を見せなかった。
そして、次の試験。首位の座に就いたのは、タトルだった。
破滅の瞬間は、もうすぐそこまで来ていた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
そこは、昔よく三人で遊んだ人工の里山だった。
タトルが首席を取った日の夜。
ラビは一人、小高い丘の上に座り込んでいた。
家では、おそらく、兄の首席祝いが行われているに違いなかった。
ケーキのプレートには、今回は兄の名前しかないのではないか、とラビは思う。
そして、一度追い抜かされた自分は、もう二度と兄には追いつけないのではないか。
「やっぱり、ここにいたのね」
背中から聞こえたのはプリシアの声だった。
どうしてここに、などというのは、問うまでもなかった。
「どうせ、タトルに頼まれたんだろ?」
プリシアは、答えなかった。
タトルは、どんな風にプリシアに話したのだろう。
眠っている間に鈍間な亀に追い抜かされた自分の惨めさを、どんな風に話したのだろうか。
「慰めてやってくれ、とでも言われたの? それとも話を聞いてやってくれ、とでも。それで、こんなとこまで俺を探しに来たの? バカだなあ」
バカなのは自分だ、と思いながらも、言葉は止まらなかった。
そして、そんな言葉を浴びせている自分に対して、プリシアが反論もせずに、ただ、優しげな眼差しを向け続けている。
どうしてか、それが無性に許せなかった。
「俺たち、もうここ10年近く、まともに口もきいてないだぜ?
仲の良かった兄弟なんて、昔の話なんだよ。プリシアはずっといなかったから、全然知らなかっただろ」
もはやラビは意地になっていた。
優しげで慈愛に満ちた顔をしているプリシアの顔色を変えさせたい。
どうしてか、ラビはそんなことを思っていた。
「プリシアはさ、昔からタトルのことばっかりみてたよな。託児室でも、エレメンタリースクールでも。だってそのヘアピン、もうタトルにもらってから何年になるんだ?」
しかし、その気持ちが決して成就しないこともラビにはわかっている。
タトルは無眠者なのだ。
誰かと生活を共にすることなどできない。
プリシアがどんなに兄のことを想っても、いつかは突き放される時が来る。
それがどうにもやるせなく、思わずラビはこう口にしていた。
「どうして、あんな夢なしなんかに……」
それは、確かに風に紛れるくらいの、ほんのかすかな声だった。
しかし、それがどれほどかすかでも、現実世界で音声となって再生されたことは紛れもない事実。
そしてそれは、決して発されてはならない言葉だった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
次回『向こうの山の麓まで』最終回になります。
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