それはまるで夢のような①
「手間取らせやがって」
黒服のひとりは、脇腹を打たれて蹲るケイジの側に悠然と歩み寄ると、傷口を踏みつけ、嘲るように言った。
「スラムの夢なしが」
夢なし、というのはスラムに住む者にとって最大級の侮辱の言葉だった。
正式には『無眠者』と呼ばれる夢なしたちは、その名の通り、生まれてから一度も眠ったことがない。
その原因は数世代前に流行った伝染病にあるとも短眠者を作るための実験にあるとも言われるが、当の夢なしたちにとっては何が真相だろうと大した違いはなかった。
はっきりしているのは、祖父母の世代は誰もが有眠者だったが、
強盗に襲われて死んだ両親は無眠者だったこと。
そして、一般に、無眠者は有眠者に比べて知的能力が劣るとされ、就ける職業が単純作業を中心とした不認可産業に限定されていることだ。
ケイジもまた孤児となった後は、妹のサヤとともにゴミ漁りや解体作業の下請けを掛け持ちして生計を立てるしかなかった。
十八時間を超える労働と貧しい食事、不衛生な住居、そして、どんなに疲れていようとも意識を失うことのない長い夜。
そんな生活の果てに倒れたサヤに、ケイジはせめて安らかな夢を見せてやりたいと願った。
そうして盗み出したのは、大富豪のラウ・チェンが睡眠薬代わりに戯れに使う『マッチ』だったのだ。
「さあ、こす狡く掠め取ったものを出して貰おうか。それとも、このまま傷口をえぐられ続ける……、」
か? と言い捨てて男は踏みつけていた足に力を込める。
激痛が脇腹を燃え立たせた。
「あ、が……、く」
自分はどうしてこんな馬鹿なことをしてしまったのか、と思う。
しかし、頭の片隅に残った冷静な部分は、必死に病床の妹の名を叫んでいた
――サヤ。
今も病床で自分の帰りを待つサヤ。
身体は一刻を争うような容態である。
それでも今日も家の仕事を済ませて待っているに決まっていた。
横になっていなければダメだ、とケイジがいくら強く言っても聞いたためしなどない。
それがサヤの戦いなのだと、ケイジにはよく分かっていた。
過酷な労働から帰ったケイジが、少しでも疲れを癒せるように、
たった一人の大切な家族を守るために、いつもそうやって戦っている強い妹。
そう。こんなところで、負けてなどいられないのだ。
――出せと言うなら、出してやるよ。
ケイジは素早く目を瞑ると、
皮ジャケットの内ポケットからむき身のマッチを一本取り出し、地面に擦りつけた。
黒服たちの動揺する気配が伝わってくるが、もう遅い、とケイジは思う。
指先に炎の熱さ。
視界の端の仄かな明るさ。
右手に感じる熱を、ケイジはそのまま黒服たちの気配に向かって突き出した。
目を閉じていても分かる、暖かな灯火。
その炎の優しさにケイジは目を開きたい衝動に駆られる。
しかし、ケイジはその誘惑を振り払って顔を背け、ただ黒服に向かって必死に右手を突き出し続けた。
「なんてことしやがるこのガキ!」
そう叫ぶ声がして、ケイジはもう一度脇腹を踏みつけられたが、その足からは早くも力が失われ始めていた。
やがて、傷口を踏みつけていた足がふっと重さをなくしたかと思うと、その重さは地面に倒れこんで鈍い音を立てた。
ケイジはマッチの炎を地面に押しつけて慎重に消し、ゆっくりと辺りの気配を伺いながら目を開く。
黒服は四人ともが地面に倒れ伏し、寝息を立てていた。
――『マッチ』の炎を見たものは心地よい眠りに落ち、本当に幸せな夢を見る。
この都市には、無眠者の他にも眠らない人種が存在している。
ラウ・チェンのように、この世の栄華を極め、分秒を惜しんで酒池肉林を繰り広げる富裕層。
俗に『高等遊眠』と呼ばれるこの階層の人間は、金に物を言わせた脳手術によって、知的能力を強化しながらも不眠不休で活動することのできる身体を獲得していた。
その高等遊眠が酔狂で眠るために作られた高価な玩具。
この世の栄耀栄華にすら飽きた連中が天上界の楽しみを得るための虹の架け橋。
それがケイジの盗み出した『マッチ』だった。
その威力は凄まじく、無眠者のケイジはともかく、有眠者であれば、咄嗟に目を瞑ろうが何しようが、その効力からは逃れようがないはずだった。
自分たちの貧しい生活なら、売れば一年は楽に暮らせるかもしれない。
そんな考えが一瞬頭を過ぎったが、
ケイジは苦しげに息を吐きながら、頭を左右振って笑う。
血の滴る脇腹。
病床のサヤ。
自分たちには、もう明日の生活を心配する必要などないのかもしれなかった。
けれど、だからこそ、とケイジは思う。
この狂った世の中で苦しんできた妹に、
せめて本当に幸せな夢を、と。
震える手で、ぼろぼろの上着をまさぐってマッチの本数を確認する。
残りは七本。
サヤに夢を見せてやるには十分な本数だった。
「いま、行くからな……」
脇腹からこぼれ出る血を左手で押さえ、霞む景色の中をよろよろと歩み出そうとして……
「待て」
後頭部に感じる冷たい銃の感触。聞き覚えのある声。
間違いなく、自分の脇腹を踏みつけていたあの黒服だった。
なんでだ、とケイジは思う。
確かに『マッチ』の炎を誰よりも至近距離で覗き込んだはずなのに。
「知りたいか?」
まるで思考を読み取ったかのように尋ねる黒服に、ケイジは何の返答も返すことができなかった。
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