向こうの山の麓まで①

 それが、急速に変化したのはエレメンタリースクールの3年生になる頃だった。

 

 大人たちは巧妙に隠してはいるものの、子どもたちの好奇心に蓋をすることなどできない。

 

 睡眠都市の外に無秩序に広がるスラム。

 そこで物乞いのように暮らす無眠者――夢なしたちの存在を知ってから、それまで兄として慕っていたタトルの存在が急に恥ずべきものに感じられ、避けるようになっていった。


 一緒に遊ぼうと、言われても、

 トイレに付き添ってあげるよ、と言われても、ラビは子ども扱いするなと反発し、そのたびに兄は、寂しいような悲しいような顔をしてその場に突っ立っているばかりだった。


 そして、ラビは子どもの頃から知的能力に優れ、学校での勉強もスポーツもクラスの誰よりも良くできた。

 ミドルスクールになる頃には、飛び級の試験をパスして兄の学年にまで追いついていたのだ。


 ひとつ上の学年でさえトップの成績を収めるラビにとって、底辺を彷徨い続ける兄はもはや愚鈍なカメのようだった。


 夜中にラビがトイレに目を覚ませば、兄の部屋にはいつだって明かりがついており、机にかじりついて何かを必死に勉強している。

 その様子を見て、ラビは、苛ついた気持ちが湧き上がってくるのを止めることができなかった。

 白昼夢の使用が禁止されている学校ならばいざ知らず、今時、学習システムのアシストもなしに机に向かう有眠者などいない。


 白昼夢を使えば、自分に適した問題の選別から解答の正誤判断、わからない場合のヒントの設定まであらゆる補助が受けられ、正答時には光のエフェクトが表示され、誤答時には、誤答の挫折感を和らげるためにバラエティ番組のようなコミカルなサウンドが再生されるなどのモチベーション管理機能もある。この睡眠都市ヒュプノボリスでは、ゲームをしている感覚で楽しく勉強をするのが常識なのだ。


 それなのに兄は、一切の補助を使うことなしにただ、分厚い本とノートを前に机に向かい続けている。


 モチベーションの管理といえば、机に飾られている昔の懐かしい写真が数枚だけ。

 家族の写真と、そして、昔よく遊んだ幼馴染の女の子。


 もちろん、無眠者である兄には白昼夢は見ることができない。

 それでも、父が買い与えたメガネ型の受信装置やイヤホンを使えば、視覚的なアシスタントや音声補助は受けることもできるはずなのだ。


 だから、


「なんでそんな効率悪い勉強してるんだよタトル」


 思わず、口に出してしまってから、ラビは慌てた。

 兄と口をきいたのはもう何ヶ月前になるのかもわからないほど昔のことだったからだ。

 しかも、兄から返事はない。机に向かってブツブツ呟いたまま、ペンを動かし続け、ラビが諦めて立ち去ろうとした時にようやく兄は顔を上げ、


「あ、ラビ? おはよう? もうそんな時間? 今、何か言った?」


 終始疑問形で呼びかけられ、まともな状況把握もできない兄の愚鈍さにイライラが募る。


「いや何でもない。俺のことなんか気にしないで好きなだけ勉強してればいいだろ。

どうせやったって無駄だろうけどさ」


 無駄、と言われたタトルは、しかし、キョトン、としてから


「まあ、僕はラビみたいに優秀じゃないからね。きっと、どれだけ勉強しても追いつけやしないと思うし、父さんの病院だってラビが継げばいい。

 ……うん。でも、いいんだよ。それでも。

 ゆっくりでも、何かがわかるようになるって楽しいから」


 そう言って、人の良さそうな阿呆面を晒して笑う。


 ――この夢なしめ。


 兄の呑気な表情を見るたびに、ラビは、心の中で兄に嘲りの言葉を投げつけ、それを無表情の中に隠し続ける。

 

 最適化の行き届いたこの睡眠都市で、遅々として歩みの進まない不器用な人間を見ることほどイライラすることはなかなかない。


 しかもそれが誰よりも距離の近い血縁者であれば、なおさらだった。


               @


ハイスクールに入った頃には、もはやラビはタトルと口をきくこともなくなっていた。


 ラビは睡眠都市ヒュプノポリスで最難関のセントラル校にすら飛び級で入学を果たした。

 タトルもなんとか補欠からの繰り上げで合格できたものの、その差は歴然だった。

 その後も変わらずラビは成績上位を独占し続け、タトルは底辺をさまよう。


 ただ、そんな構図も、入学から半年が過ぎた頃から、少しだけ様子が変わっていった。

 底辺をさまよいながら、タトルの成績は徐々に向上の様子を見せはじめていたのだ。



 定期テストが行われるたびに、タトルの成績はほんの数パーセントずつ向上を続け、そのたびに両親はちょっとしたお祝いをしてタトルの労をねぎらった。


 もちろん、それは、常にトップの成績を取り続けているラビのお祝いに付け足しのように入り込んだだけなのだけれど、

 お祝いのケーキのプレートに、自分の名と並ぶようにしてタトルの文字が入るのを見てラビは穏やかではいられなかった。

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