向こうの山の麓まで プロローグ

 兄を殺さなければならなかった。


 降りしきる雨から身を守るように身を屈めさせ、ひたすらに足を動かしながら、ラビ・メーストルは握った仮想コントローラの感触を確かめた。

 

 身勝手だということはよく分かっている。

 

 そもそも、罰を受けるのは自分であるべきだということも。

 それでも、家族を救うためには他に方法がない、とラビは思う。


 暗号秘匿化ネットワークからダウンロードした非合法の殺害用プログラムを脳裏に走らせる。

 五感に作用して幻影を見せる睡眠都市ヒュプノポリス特有の表示装置『白昼夢』がMR(複合現実)モードで作動し、自分にしか見えない光のエフェクトが現実世界に重なる形で表示される。

 

 『白昼夢』とは、まさしく、起きながら見ている夢に等しかった。


 白昼夢を用いて起動したのは、『明るく楽しく健全な殺人』をコンセプトに作られた、正真正銘のシリアルキラー養成アプリケーション。


 このプログラムのVR(仮想現実)モードでは、五感情報をすべて投入したフルダイブ状態となり、あるときはエイリアンを殺す軍人になり、あるときは戦場で無双を続ける中世の騎士となる。


 当初は人間離れした容姿をしていた敵は、経験を積むとともに徐々に人間と近い姿形へと変換されていき、集大成となるMR(複合現実)モードでは、道行く人間すべてがゾンビや、エイリアンなどの非日常の存在に見え、それを指差すだけで紫色の血飛沫が飛ぶようになる。



 そして、このアプリケーションの最大のキモは、仮想のコントローラによって自身の生身の身体を操作する点だ。


 仮想の肉体ではない。


 本物の肉体、自分自身の肉体を、まるで、幽体離脱したかのような視点から、ゲームのように操作する。


 一体それに何の意味があるのか、と問う者は多いだろう。


 しかし、感情によって行動を妨げられ続ける人間にとって、ある種の解離を人工的に作り出し、現実からの距離を離してしまうこの種のアプリケーションの効果は絶大だった。


 ソーシャルカメラと接続した白昼夢を用いれば、肉体上の両目の位置とは関係なく、幽体離脱したような視点で自らの肉体を眺めることができる。


 その視点の中で、仮想のコントローラを握って身体を操る。

 

 Aボタンを押して右手を振り、後ろボタンでガードをする。ジョイスティックとボタンの組み合わせで特殊な技能を発揮し、状況に合わせた細かい調整はシステム任せ。


 ――他ならぬ自分の肉体を操るのに、どうしてわざわざ数種類しかボタンのないコントローラを用いるのか。

 

 レビューサイトにはそんなアンチの意見が書き込まれることはあるが、自身の身体を外から眺め、制限の大きいジョイスティックを用いることで非現実的な感覚が助長され、責任を感じる気持ちも小さくなる。


 同種(というのはあまりに可愛らしいが)のアプリに、緊張で意中の相手とうまく話せないギークのためのアプリケーションもある。

 その中では、気の利いたセリフが選択肢として現れ、プレイヤーはただ仮想のジョイスティックを握って話したいセリフを選ぶだけだ。


 あとはシステムが自動的に口を動かしてくれる。


 同じように、ゲームのボタンを押すたびに、本物の人間が死んでいる、と聞かされても、人は現実味を感じることはできない。


 人は、鉈で他人を殺すことはできなくても、フェザータッチの拳銃なら簡単に引き金を引くことはできる。

 あたかもゲームをしているかのように、明るく、楽しく、何の重みも感じずに健全な精神を保ったまま。

 

 今のラビには、それが、どうしても必要だった。


 殺さなければならない。

 眠らない怪物の兄を。


 雨は、振り続いていた。


 

◇◇◇◇◇◇◇◇



第1節 向こうの山の麓まで


 ――ねえ、お兄ちゃんはどうして夜の間ずっと起きてるの?

 

 6歳の頃、ラビが何気なく発した疑問で食卓が凍りついた。


 幼い妹は母によって隔離され、1歳年上の兄と父とラビの三人だけが食卓に残った。普段は温厚な父が、見たこともないほど険しい顔をして、「このことは、絶対に誰にも言ってはいけないよ」と前置きをして話を切り出した。


 ラビの兄、タトルが睡眠を必要としない無眠者であるということ。

 

 都市のインフラを支える中枢システムに接続できず、社会に計算リソースを提供できない無眠者は、睡眠都市ヒュプノポリスの中で差別を受ける存在だということ。

 

 外科医として総合病院を経営する父は、莫大な税『睡眠負債スリープデット』を払うことで睡眠の義務を免れているが、タトルが無眠者であることが知られれば、両親は犯罪者として拘束され、ラビや妹も同じ因子を持っていると見なされて睡眠都市ヒュプノポリスを追われるだろうということ。


 差別、という言葉の意味がいまいち分からないラビにとっても、犯罪者、という言葉の強さは衝撃だった。

 

 しかし、誰もが負けてしまう睡魔を跳ね除け、夜の怖い暗闇をものともしない無眠者という存在は、幼いラビにとってまるで超人のように感じられ、自分が怖くてひとりではいけない夜中のトイレに、嫌な顔ひとつせずに付き添ってくれる兄は、紛れもないヒーローだった。

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