ミモザ
菜月
💐
仕事帰り、最寄駅近くの図書館に立ち寄るのが最近の習慣だ。昨年建て替えたという館内は綺麗で落ち着くし、有難いことに20時まで開館しているから、仕事帰りでも十分時間が取れる。何より一冊の値段が馬鹿にならないビジネス書や仕事の資料が無料で読み放題。これは活用しなければ損だと気づいたからだ。
その日ももはや定位置となった、窓際にずらりと並ぶ閲覧スペースの一番奥に陣取った。閉館時間が近づいているからか、勉強をしている受験生もあらかた帰ったらしく、ほぼ貸切状態だった。
目については片っ端から抜き出した本をまわりに積み上げてひと息ついたけれど、どうもページを開く気にならない。
退勤間際、上司から突き返された企画書を思い浮かべて、机に突っ伏した。昨年から取り組んでいる、自分がメインで関わっているプロジェクト。
何度も見返して完璧だと思ったそれは、山のような修正点とともに戻ってきた。何より、「本質を全く突いていない」というひと言がきつかった。
こんな時、誰かに愚痴ったり、泣きついたり、飲み明かしてもらえたら気が晴れるのな。
そう考えて、無いものねだりをしても意味がないのだとまた落ち込んだ。
半年前に別れてから彼氏はできないままだし、私の親友は、もういない。何年も前に彼女を失ってから、当たり障りのない付き合いばかりだ。
どれだけそうしていただろうか。ふわりと漂った甘い香りに誘われて顔を上げると、触れそうなほど近くにセーラー服姿の女子高生が立っていた。最近の子は大人びているから中学生なのかもしれないけれど、直感的に女子高生、と判断したのは彼女のセーラー服が私が当時着ていた制服とそっくりだったからだ。
−−ガラガラの閲覧スペースで、なんでここ?
疑問に思っている間に、彼女は椅子を引くことなく、カウンターのテーブルに腰掛けた。さすがに注意しようと意気込んだところで、整った顔をこちらに向けた彼女と目が合う。
その途端くすりと笑われ、思わず息を呑んだ。
彼女は退屈そうに胸元のチーフを撫でている。その仕草が、なぜだか引っかかった。
「面白いの、その本」
「え?」
「いっぱい持ってるから」
「わからない、まだ読んでないから」
「ふうん。なんか難しそう」
「まあ、仕事ですから」
−−子どもは早く帰ったら?
そう続けようとして、じっとこちらを見つめる目に思わずたじろいでしまった。
「せっかく来たなら読めばいいじゃん」
「読むよ、これから」
「へえ。寝に来たのかと思った」
−−そんなわけないでしょ、仕事帰りにわざわざ来てるんだから。
カチンと来て言い返そうとしたけれど、相手は子どもだと思い直す。こんなところで八当たりしたら、ますます自己嫌悪で落ち込んでしまいそうだ。
「怒られるよ、おりないと」
「大丈夫」
親切心で言ってあげたつもりだったけれど、彼女は自信満々にそう言い放った。
「お姉さん、暗いよ」
「ほっといて」
「なんで?」
「なんでも」
「楽しくやりなよ。せっかくなんだから」
「せっかく、なによ」
「んー、生きてるんだから?」
はい?と聞き返した私を無視して、彼女はどこから持ってきたのか、一冊の本を差し出した。
鮮やかな黄色い装丁のその本。目を瞬かせながら彼女とその本を見比べていると、無理やり押し付けられた。手にした表紙をよく見ると、目についた黄色は、ミモザの花だった。
「こーんな人生とか、楽しそうじゃない」
そう言われて裏表紙のあらすじを読んでみると−−、高校時代の親友同士が成長し、社会人になってから再会するようだ。主婦になった一人と、その旦那の不倫相手として。
……黄色いミモザの花言葉は、秘密の恋。
「友情ってタイトルなんだって、その本」
「友情は壊滅しそうな内容だけど」
素直に感想を言えば、彼女はふふっと笑う。そう言って笑う横顔に、何かが重なった気がした。
「楽しくやりなよ、生きてるんだから」
「それ、読んだら感想聞かせて」
そう言われて、改めて黄色の表紙を見下ろす。たまには小説を読むのもいいかも。「わかった。じゃあ次に読みなよ」
感想を交わし合うのも、たまには楽しいかもしれないしね、そう続けようとして−−、
「え……?」
思わず息を呑む。
今まで隣に座っていた彼女の姿が、忽然と消えていた。
きょろきょろとあたりを見回しても、閲覧スペースには誰もいない。だけど、私の手の中には、確かに黄色い表紙の本がある。
−−楽しみなよ、生きてるんだから。
耳の奥でこだまする声。
私のまわりを、ふわりと優しい風が通った気がした。
ミモザ 菜月 @natsuki_novel
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