手のひらの星

菜月

「いいな、初恋の人と結婚なんて」

 その言葉が耳に飛び込んで来たのは、颯斗が二杯目のジョッキに口をつけた瞬間だった。小学校時代のクラスメイトが結婚するというので、地元の友人が集まった居酒屋は、さながら雑多な同窓会のようだった。かくいう深山颯斗も途中合流組で、お祝いの言葉を伝えた後は、気の置けない友人たちとの近況報告を交わしていた。

 喧騒のなかで飛び込んできた「初恋」という言葉。

 慌ててビールを流し込んだけれど、キンとした冷たい喉越しに、逆にほろ苦い記憶が思い起こされたのだった。


 郊外にある颯斗の地元は、良い意味で長閑だ。広い校庭のある小学校。休み時間になれば男子も女子も、一目散に教室を飛び出していくのが常だった。

 だが、5年生で初めて同じクラスになった風間美夏、彼女だけは違った。全く日焼けしていない肌に、短く切り揃えられた前髪が印象的で、今までなぜ気づかなかったんだろうと不思議になるくらい、彼女はクラスのなかで浮いていた。ただ楽しそうに笑い合っていることもあるから、仲が悪いわけでもいじめられているわけでもなさそうだ。

 大人になった今では、彼女の方から一線引いていたのだということが理解できるけれど、当時はまわりに馴染もうとしない美夏のことが、颯斗は不思議で仕方なく、気づけばその姿を目で追うようになっていた。


 ある昼休み、図書室で借りた本を手に戻ると、美夏は誰もいない教室で窓から空を見上げていた。雲ひとつない快晴。あと二週間もすれば夏休みだ。

 気配に気づいたのか、美夏はくるりと振り向くと、颯斗の手の中の本をみつめた。自由研究の題材にしようと思っていた、星座図鑑。音もなく颯斗の前までやってきた美夏は、にっこりと笑った。


「来て、月が見えるの」

「えっ昼なのに?」

「早く」

 まるで飛び跳ねるように踵を返した美夏は、ぐいっと窓から身を乗り出した。

「危ないよ」

 思わず手を伸ばして細い腕を掴んでしまったのは、目の前の彼女がそのまま空に吸い込まれてしまいそうだったからだ。びくりと肩を震わせた美夏が、おずおずと颯斗を見上げた。


「見て」

 一瞬見つめ合ったのち、気づいたように指差された方角を、颯斗は同じように身を乗り出して見上げた。そんな颯斗の腕を、今度は美夏がぎゅっと握ってくれた。

 確かに、空には細長い三日月が浮かんでいた。

「月は昼も昇ってるの。月だけじゃなくて、星もね。でも太陽の光が眩しいから見えないだけ」

「今も?」

「そう。星は、昼も夜も私たちを見守ってくれてるんだって、お母さんが言ってた。姿がなくても、ちゃんと見ているから安心してって」

 そうして美夏は、再び窓から身を乗り出して空を見上げた。


 それから二人は一緒に過ごすようになった。図書室に行ったり、昼間に星を見つけようと悪戦苦闘したり、休み時間にこっそり宿題を済ませてしまったり。

 美夏はクラスの誰より多くのことを知っていた。そんな美夏と対等でいたかった颯斗の成績はぐんぐん上がって、二学期の終わりには、受け取った通知表を早く母親に見せたくて仕方ないくらいになった。

 しかもその日はめずらしく美夏が一緒に帰るというので、さらに心が躍った。

「冬休み、会えないと寂しいな」

 一世一代の告白のつもりで呟いた颯斗の言葉に、美夏はぴたりと足を止めた。

 いつかのように、じっと見つめ合う。


「私ね、引っ越すことになったの」

 同じ気持ちだと信じていた颯斗の耳に飛び込んできたのは、信じられない言葉だった。

「……どこに?」

「沖縄」

 やっとの思いで口にした問いへの答えに眩暈がした。

 遠い。あまりにも。

「今までありがとう、颯斗くん。元気でね」

 言葉を見つけられずにいた颯斗に掛けられた声は、どこか遠くで響いているようだった。

「……星の砂、送ってよ。沖縄で取れるんでしょ」

「うん、そうだね。……探してみる」

 それは、昼間の星を捕まえられなかった二人が、懸命に調べたなかで出会った砂だった。

 じゃあね、と小さく手を振って美夏は駆け出した。初めて見た、走る姿だった。冬休みの間じゅう、引っ越してしまうなんて夢であってほしいと毎日願ったけれど、迎えた3学期やはり美夏はいなかった。

 せめて星の砂が送られてくるのを待ったけれど、未だ届かぬままだ。



「おーい、どうした?」

 見知った顔が近付いてきて颯斗は思わずのけぞった。隣で彼女の惚気話をしていた親友の渡辺だ。

「やけに黄昏てたぞ?」

「ちょっとな」

「風間のこと?」

 いきなりのクリーンヒットに、颯斗は飲みかけのビールを盛大に咽せた。

「なんで?」

「いやお前、初恋ってワードで物思いに耽ってたじゃん。好きだったのってあれだろ、途中で入院した風間美夏」

 がつんと頭を殴られたような気がして、ほろ酔い気分が一気に醒めた。

「いや引っ越したんだろ?沖縄に」

「何言ってんの、お前」

 呆然とする颯斗に渡辺は続ける。

「確かに引っ越しってことになってたけどさ、風間心臓弱かったじゃん。それで入院になったんだよ。え、これみんな知らないの?俺んち親がPTAだったから知ってるだけ?」

「知らない……」

「あ、おーい、みどり!お前、風間と仲良かったよな?」

 渡辺が大きく手を振ると、離れたテーブルで飲んでいた元クラスメイトがスマホ片手にやってくる。

「っていうか今でも仲良いから。ほら、そろそろ着くって」

 みどりの言葉にどくんと胸が高鳴った途端、ちゃりん、とドアベルの音がした。

 この喧騒の中でもやけにはっきりと聞こえたその音を追って入口を見遣れば−−。

 白い肌、短く切り揃えた前髪は記憶のまま。

 ゆっくりと目の前まで美夏がやってくるまで、颯斗は動くこともできず、その姿をみつめていた。


「遅くなってごめんね」


 そう言って差し出された白い指から、颯斗の手のひらに転がってきたものは。ボトルに詰められたキラキラと輝く星の砂だった。

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手のひらの星 菜月 @natsuki_novel

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