第4話
世の中、人の不幸ほど面白い物はないかもしれない。
あいつが俺と連絡を取り続けていたのも、俺が彼と同じ有名大学を出た割にはぱっとしなくて、不幸に見えたからだろう。俺は不幸ではない。ただ、幸せじゃないだけだ。
確かに大企業に勤めて、結婚して、子どもがいて、家を買ったような同級生に会うのはつらい。俺はもう、そういう人たちとは交流がなくなっている。あいつは実家が金持ちで、親に家を建ててもらって、家賃もローンもなしで大きな家に住んでいる。奥さんは美人らしいが、会ったことはない。俺は家に呼ばれたこともない。そう言えば、結婚式にも呼ばれてなかった。
俺は家に帰って、もう一度考えてみた。俺は芽衣ちゃんと同棲していたのか?確かに平日はいつも一緒だったから、そう言えるかもしれない。
彼女は俺との結婚を考えていたのか?
そうは思えない。
俺に遊びまくっていた時期なんかあっただろうか?
芽衣ちゃんは何度も妊娠したのか?
やってないのに?
自分のことなのに、不思議なくらいまったく覚えていない。
俺は家に帰ってすぐ、風呂に直行した。本を読みたかったけど眠くてたまらなかった。もともと酒に弱いから十二時前には眠くなってしまった。
気絶するようにすぐに眠りに落ちた。
朝起きた時、俺は不思議な感覚に陥っていた。その時もまだ夢から覚めていないみたいだった。すっきりしたような、まだ眠いような。よくわからない状態だった。
ああ、そう言えば…と思い出した。
芽衣が出て行った後、俺が何をしたかも。
俺は夢を見たんだ。
そう言えば、あの頃、よく神楽岡が家に来ていたっけ。
俺と芽衣と両方と友達だった。
違う…。
神楽岡に紹介されたんだ。
俺は芽衣のことを彼に愚痴り、芽衣も俺のことを彼に話していた。
芽衣が彼とやっていることに俺は知っていた。彼は二十代半ばで、お見合いで出会った女性とすでに結婚して子どもがいたんだ。所謂、政略結婚で親の取引先の会社の社長令嬢だったらしい。周囲からは羨ましがられていたけど、彼はそれほど相手が好きじゃなかったのかもしれない。
親の後を継ぐ。これはすごいストレスだと思う。
結婚も親が決める。
ずっと同じような地域に住んで、一生出られない。
いくら金があっても、将来を保証されていても、俺にはできない。
神楽岡は芽衣の相談に乗るふりをして彼女の心の隙に付け込んで、セフレにしていた。
俺たちはそれで仲が悪くなって、狭い六畳の部屋で大げんかするようになっていた。俺は、隣から苦情が来るんじゃないか、不動産屋から何か言われるんじゃないかと毎日ハラハラしていた。もともと、一人で住むと言って契約しているから、二人で住んでいるだけで契約違反だ。それに、隣には同世代の若い男が住んでいて、俺たちの痴話げんかをすべて聞いている気がしていた。
俺は家に帰りたくないから、頻繁に外に泊まりに行くようになり、芽衣に「出て行け」と怒鳴っていた。やがて彼女は合コンで結婚相手を探すようになっていた。
あの日。俺が家にいると、神楽岡が遊びに来た。俺たちが別れて他の男と結婚することを彼はすでに知っていた。多分、芽衣から聞いたんだろうと思う。
そうじゃない。俺はなぜ芽衣が出ていったのかを、まだ、知らなかったんだ…。
俺ははっとした。
「芽衣ちゃんの荷物。入れといたけど、いる?」
俺は神楽岡に尋ねる。
「どうしようかな…」
やつは箱を開けながら笑った。
軽蔑したような表情をしていた。
彼の態度は、風俗に行くくせに、働いている人を軽蔑している客みたいだった。
その後、俺と神楽岡はふざけて、婚約者に電話を架けた。そして、俺がアドリブで荷物を送ると言ったのだが、結局、俺は出さなかった。送料がもったいないし、途中で面倒臭くなったからだ。
神楽岡が箱を見ながら「貰っていい?」と、俺に尋ねた。
多分、セックスのテクニックや体位の本なんかを見たいんだと思った。
「やってみる?奥さんと?」
「うん」
今思うと小さい子どもがいて、色んな体位を試すなんて無理じゃないかと思う。
「いいよ。俺、あんまりそういうのやらないタイプだから」
「工夫がないな」
「いいよ。面倒だから。相手もいないし」
「じゃあ、他のも捨てとくわ」彼はそう言って箱ごと持って帰って行った。
今思うと、何で平日に彼が家にいたのか不思議だ。俺は、あの時、仮病を使って会社を休んでしまったんだったっけ。ショックというより、すべてが面倒になっていた。
神楽岡は税理士で割と自由が利く仕事をしていたから、俺の家に来たんだろうか。落ち込んでいる俺を励ます体で、彼はうちに来ていた。
「さっきの芽衣の相手ってさ…結構すごい人なんだよね」
彼から切り出したが、その表情は言いたくて仕方がないようだった。その時、初めて俺は相手がどんな人かを知ったのだ。俺は電話を掛けた時点ではちゃんと聞かされていなかった。
俺は思い出した。
あ…。
そうだったんだ。
芽衣は神楽岡の彼女だったんだ。
二人の逢引のために、俺は部屋を貸していた。
なぜ、そんなことを引き受けたかと言うと、俺がお人好しで、その人とどうにかなれるのではという期待があったからだ。昔、「蒲田行進曲」という映画があった。何度もテレビで放送されていた。スターの銀ちゃんという人がいて、その人のお下がりを押し付けられる、売れない俳優の話だったと記憶している。
彼女のいた二年間。
俺が彼女のことが好きになり、付き合ったり、別れたり。
彼女をかわいそうだと思ったり、だらしないと軽蔑したり、
好きだったり、嫌いだったりした。
そして、彼女は結局神楽岡と別れられなかった。
虚しくなる。
もう、五十になってしまった。
彼女がなくした無為な時間を思って言葉を失う。
今、彼女は、神楽岡に捨てられそうになっている。この瞬間、飯を食ったり、何も知らないまま会社に行って仕事をしてるんだろうか?
俺は残された本を読みながら、彼女はあの頃、何を考えていたのかと思う。
フローリングの床に寝ころびながら、真顔で本を読んでいた様子が浮かんでくる。
現実を忘れるために、次々と本を読んで時間を潰していたのだろうか。
漠然とした不安を先へ先へと送り続けるために。
そうせずにはいられなかったのかもしれない。
きっと、今もそうしているに違いない。
そして、俺も。
本 連喜 @toushikibu
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