第3話
どうやら彼女は、毎月俺に三万五千円を振り込んでいたらしい。俺は当時、家賃の安い荒川区の町屋に住んでいた。家賃は五万八千円くらいだった気がする。大学を卒業して、就職する時にそこに引っ越したのだ。それから、三十くらいまではそこに住んでいた。1DKで独身の人が住むような普通のマンションだった。外廊下だが、一応、オートロックでエレベーターがついていた。そういう物件にしたのは、女性を呼んだ時に恥ずかしくないようにだったと思う。その前は和室の古いアパートに住んでいたからだ。
俺は全然覚えていないのだが、芽衣ちゃんは毎月俺に振り込みをしていたようだ。しかも、家賃を二で割った金額よりも少し多い。恐らく、電気代などを含めて多めに出していたのかもしれない。
俺はもやもやした気持ちになった。家賃を払ってもらっていたことで、芽衣ちゃんに借りを作ってしまったような気がした。俺は正社員で働いていたのに、何故家賃を折半してたんだろうか。思い出せなかった。それ以上考える必要もないと俺は思って、また本を読み始めた。
それから、さらに別の本を読んでいると、また別の物が出て来た。白黒でほとんどかすれてしまったエコー写真のような物だった。もしかしたら、胎児のエコーかもしれない。気持ち悪いな、と言うのが感想だった。男と遊んでできた子どもなのに、エコ-をもらって取っておいてるなんて、阿保らしいとしか言いようがない。最終的に産んでもいないのに、どの面下げて、子どもがかわいいと言えるんだろうか。
すぐに捨てようかと思ったが、亡くなった子どもに気の毒でその写真は取っておくことにした。あの女のせいで、この世に生まれて来なかった子どもがいたということが、何とも言えず俺を陰惨な気持ちにさせた。
芽衣ちゃんというのはちょっとおかしかった。頭がおかしくても、女なら男は寄って来るし、子どもはできる。美人だったとは思う。…いや。美人と言うより、ものすごくスタイルが良くて、顔はかわいい感じだった。一緒に外を歩いていると、男の視線が気になるようなタイプの子だ。
***
先ほど書いた芽衣ちゃんとの共通の友人と言うのは、俺の大学時代の同級生だ。その人とは今も交流がある。理由は仕事を通じたつながりもあるからだった。
この春、コロナが五類になって、前にも増して世の中が平常に戻りつつあるから、久しぶりに飲みに行くことになった。それでも、一応、マスクはしているし、喋る時に唾液が飛んでないか常に気にはしていた。
二人で近況報告をし、コロナに罹った時の様子や、彼の家族の話を聞いた。会わないうちに、お母さんが亡くなっていたことや、お父さんが介護施設に入ったことも知った。彼の両親に会ったことはないが、そういう年齢になったのだと改めて思った。共通の知人のことを話していて、俺はふと芽衣ちゃんのことを聞いてみようと思った。
「原口芽衣って覚えてる?」
「ああ、君の元カノだろ?」
「違うよ。付き合ってないし」
「何言ってんだよ。同棲してたじゃんか」
「いやぁ…あっちがうちにしょっちゅう来てただけで」
「あれは同棲っていうんじゃないか。確か、芽衣ちゃんがおばさんの家に居候してて、家を出たくて君のところに住むようになったって聞いたと思うけど」
「よく覚えてるね」
俺はそのくだりを覚えていなかった。
「結婚すると思ってたのに」
「しないよ。あんな女。あっちはいつも男探してたし」
「なんか。君に結婚願望がなくて、同棲までしてたのに結婚してくれないから合コン行きまくってたって記憶があるけど」
「だから、そうなんだって」
「君が浮気ばっかりしてて、しょっちゅう喧嘩してたみたいじゃん」
「まさか。え、俺そんなにモテてたっけ?」
「モテてるかは知らないけど、軽かったよな。毎週土日はどっか行ってるって。芽衣ちゃんが嘆いてた」
「でも、あっちも別の男と結婚するからって出て行ったけど」
「ああ、それも破談になっちゃってさ…聞いた話だと怪文書送ったやつがいたんだっって。ほんとに覚えてない?」
「うん」
なぜだろう。ほとんど記憶がない。
「怪文書に大学時代から援助交際してたとか、政治家の愛人だったとか、根も葉もないことが書いてあったみたいで」
「へぇ。そんなに恨まれてたのかね」
「やっぱり、相手がすごい金持ちだったみたいだから、やっかみがあったのかもな」
「ふ~ん」
俺は段ボールを送りつけたけど、怪文書は送ってない。
「怪文書ねえ。何で知ってるんだよ。そのこと」
「君から聞いたんだよ」
「俺知らないよ」
「君が送ったんじゃないの?」
「まさか。あの女に幸せになって欲しくはないけど、怪文書送るまではしないと思う。どうせ遊んでるのだってバレてただろ?」
「芽衣ちゃんはそんなチャラチャラした子じゃないよ」
「どこがだよ」
「内面は真面目な子だったと思うよ」
「はっ。色んな男とやりまくってたのに?」
「まあ、それは否定できないけど。でも、君のせいで精神的に参ってたと思うしさ。君の子どもを何度も堕したって泣きながら言ってたし…」
「俺の子じゃない。絶対違う」
俺は全力で否定した。
「芽衣ちゃんが黙ってただけじゃないの?」
「そんなことないって。俺は子ども出来たことない」
そうだ。俺の子じゃない。もし、子どもができたりなんかしたら速攻追い出したと思う。
「今、あの女どうしてるか知ってる?」
「なんかさ、子どもが出来ない体になって、会社で不倫したりしてて、今もOLで働いてるみたいだよ」
「詳しいね」
「まあ、今も知ってるから。今もまあまあかわいいよ。ちょっと年取っちゃったけど」
「今も仲いいの?」
「うん。先週会ったばっかり」
「えっ?」
俺は口ごもった。二人で俺のことをどんな風に話しているんだろうか。
「奥さんいるのに、何でそんな年増の女と会うんだよ」
「腐れ縁ってやつかな…かわいそうでさ」
五十の女をかわいいと言うなんて、俺には納得がいかなかった。
「わかった。怪文書送ったの君だろ?」
そいつは苦笑いしていた。否定もしなかった。
「何で付き合ってんの?」
「…俺じゃないよ」
「もっと若い子の方がよくない?」
「でも、面白くない?ああいう、どん底の人見るのって」
こいつは金持ちのボンボンだ。そういう人にとっては底辺の人々なんて、刺激をもたらしてくれる娯楽のようなものかもしれない。何とかポルノというやつだろうか。
「俺は人が転落してくの見たくないな…さすがに。この後どうすんの、芽衣ちゃん?独身なんだろ?ずっと面倒見れんの?まあ、正社員だから貯金はあるだろうけど」
「ないない。あの子全部使っちゃうタイプだから」
「ずいぶん知ってるね」
「家賃も払えないって、時々、俺に泣きついて来るよ」
「何で?そんなに金がないんだろうね」
「金の計算ができないんだよね。精神やられちゃってるから余計」
「芽衣ちゃんを…愛人にしてるんだ?」
「うん」
「えー。金もったいないなー。何で五十のおばさんに金使うんだよ」
「はっ。そろそろ別れようと思ってるんだよね」
「そりゃ、修羅場だろうね」
「君のこと紹介しようかな…まだ独身だって」
「え!やめろよ。巻き込むなよ!」
「今も時々君の話をするんだけど、今も好きだって」
彼は笑いながら小刻みに震えていた。
「君が情報操作してたんだろ?」
「してないよ」
「ずっとそうだったんだ…俺の家、どこか言うなよ。頼むから」
「どうしようかなぁ…。俺、人の不幸を見るのが面白くてね」
彼はさも愉快そうに笑っていた。
俺が芽衣と会わなくなって、もう、二十年も経っていた。その間、この男はずっと芽衣と連絡を取り続けていたんだ。二人で高みの見物をしてたんだろうか。
俺のことをどれくらい話していたんだろう。家に来たらどうしようか。
俺はすっかり暗い気持ちになった。俺にも責任があるかもしれない。俺はあの段ボールをフィアンセに送ってしまった!
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