page.36 神聖暦457年 冬(4-1)


 冬の晴れた日。

 ホーエンツォレルンとの戦争に勝利したという吉報が、日の出と共に訪れた。

「お嬢様、お待ち下さい、お嬢様っ。」

「インガー、ちょっと待って、インガーっ。」

 ラインハルトと乳母が必死にイングリッドを止めようとする声が、ヴォルテンブルグの屋敷内に鳴り響く。ばたばたと、イングリッドは書斎へと駆けて行く。亜麻色の髪を高く結い上げ、揺らし、無我夢中で廊下を走り抜ける。その感涙を浮かべた翡翠色の瞳はきらきらと輝き、ただひたすらに、喜びに溢れていた。

「お父様っ。」

 ばたん、と勢い良く扉からが開けられ、貴族たちと喜びを分かち合っていたフリードリヒは度肝を抜かれた。驚きのあまり、手に持っていた葉巻を落としてしまうほどであった。

「イ、イングリッド。」

「お父様、本当なのっ。」

 イングリッドは、他の貴族の男たちが居ることも構わず、顔をぐしゃぐしゃにし、ぼろぼろと大粒の涙を流していた。

「イングリッド、取り敢えず、鼻水を拭きなさい。」

 ぽかんとした面持ちで、貴族たちが娘に注目していることに焦り、ハンカチで彼女の鼻を拭く。もうすぐ十六の娘がみっともない。

 すると、イングリッドに遅れて、遠くからばたばたと足音がまた聞こえてきた。 

「インガー、まってよっ。」

 今度はラインハルトが書斎に飛び込んできた。顔を真っ赤にし、息を切らせている。全身が汗だくで、息も絶え絶えになっている。そんなラインハルトの方をイングリッドは振り向き、

「……ぐす。遅いわよ、ルノー。」

 と一言返す。相変わらず、イングリッドの方が足が速いようである。周囲の視線を感じとったのか、視界に円卓にいる男たちが映ったのか、ラインハルトは慌てて姿勢を正す。

「すみません、お義父様。戦勝の話を聞いて、インガーが喜んでしまって。」

「……構わんが、身なりはきちんとしなさい。」

「……はい。」

 と父の叱責に対し、イングリッドは反省したような、しょんぼりとした声音で返事をした。

 やはりそうか、とフリードリヒは考えた。直近の出来事で、イングリッドが泣いて喜ぶほどのことなど、戦場からの吉報以外に考えられない。しかし、それはそれ、これはこれである。貴族の娘が鼻水を垂らしながら人前に出るなど、言語道断である。

「そういえば、先発部隊が馬を飛ばしていて、昼までにヴォルテンブルグまで戻ってくると伺っているのですが。」

 とラインハルトはハンカチで自身の汗を拭きながら、フリードリヒに訊ねる。先程、たまたまラインハルトとイングリッドが一緒に居たところを、ラインハルトの父、グンターが吉報を知らせてきたのだ。その中には、既に先に出発して、ヴォルテンブルグ領に向かっている部隊が一つのあるという情報があったのだ。(知らせは伝書鳩を何羽も経由するため、時差がある。恐らく、戦争が終わったのは数日も前のことだ。)

「……ああ、それか……。イングリッド部隊だそうだ。」

 とフリードリヒは深く溜息を付き、答えると、きゃああ、とイングリッドが嬉しそうな悲鳴をあげ、ラインハルトに抱きついている。

「いやあ、本当に厚い信頼関係で結ばれていますなあ。」

「女がてら、素晴らしい。さすが、ヴォルテンブルグの娘ですなあ。」

 歓喜でラインハルトと抱き合うイングリッドを見て、貴族の男たちが微笑ましいと言わんばかり表情で、称賛の言葉を掛け合う。当初、イングリッドに対して否定的であった一部の者たちも、今回の勝利に大きく寄与している彼女を蔑ろにはできなかった。

 今回イングリッドは、この国では人気のない弓兵に目をつけ、遠距離からの攻撃に特化させた。更に、その弓に魔鉱石を組み合わせ、魔鉱石の特性を活かし、より飛距離があり、より威力のあるものへと変えた。

 結果、ヴォルテンブルグ一派の兵士たちは、ホーエンツォレルン領の攻撃範囲からかなり離れた位置から、彼らに致命傷を負わせることができた。その戦果に大いに貢献したのは、勿論、イングリッド部隊である。

 なんと驚いたことに、イングリッド部隊の兵士たちは、勝利の金を上げるやいなや、休むこともなく、すぐに引き返してヴォルテンブルグ領に向かっているという。早くイングリッドに無事を報告したい、という思いが彼らにあったようである。ここまで慕われている主人も珍しい。

「いやあ、イングリッド嬢は貴族の鏡ですなあ。」

 と言いながら、グンターが書斎に入ってきた。少し伸びた髭を手で撫でつけながら、実に満足そうな笑みを浮かべている。息子の未来の妻が優秀で、嬉しいのであろう。

「父上、今来たのですか。」

「黙りなさい、ラインハルト。はあ、イングリッド嬢の垢を煎じて息子に飲ませたいものだ。」

 グンターの指で強く弾かれ、ラインハルトは手で額を抑える。ひりひりと弾かれた額が痛む。グンターは、フリードリヒに、今日も良い天気で、と呑気に挨拶をしている。このマイペースさは、さすがのエーデルシュタイン家である。

「お義父さま、ルノーは私にとって良きパートナーですわ。」

 とイングリッドは、ラインハルトに助け舟を出すべく、声をかけた。

「ほうほう、そう言って頂けるとは嬉しい限りですな。なんせ、うちの倅は将来の妻よりも足が遅く、実に器量も悪くて……。」

「父上っ。」

 しかし、ああ言えばこう言う、という飄々とした男であるため、出した舟を軽く蹴飛ばしてみせてしまう。イングリッドは、ラインハルトやグンターの、自由気ままな気風が本当に気に入っていた。堅苦しい父親は、エーデルシュタインとは腐れ縁であると度々言ってたが、どこか愛嬌も感じる自由さが、つい憎めなくなるのであろう。

「そうだ、グンター。昼には王城へ向かうぞ。」

「ははは。そうだな、国王様と王妃様に勝利のご挨拶をせねばならんな。フリードリヒ、その堅苦しい顔はやめろよ。王子様が泣いてしまわれるぞ。」

 めずらしく、フリードリヒも少し頬を緩めている。神聖歴四四八年から始まった覇権争いもやっと幕を閉じたのだ。約十年、気の遠くなるような、途方もない政争であった。気の毒ではあるが、敗戦したホーエンツォレルン派の多くの関係者や王弟は死罪となるであろう。

「旦那さま、先発部隊がお戻りになりました。」

 書斎に駆け込んできた侍女が先発部隊の到着を知らせた。予定より早い到着だ。三日三晩、馬を走らせ続けたのであろう。

 

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