page.37 神聖暦457年 冬(4-2)


 イングリッドは顔を輝かせ、書斎を飛び出した。ラインハルトも慌てて追いかけた。

 兵士を労うために駆け足で出て行ったイングリッドを見て、グンターは感心し、

「はあ、しかし、フリードリヒ、お前さんは良い娘さんを持ったもんだ。うちの倅に貰えるなんて嬉しいことだ。あ、返せと言っても返さんからな。」

 と意地悪くフリードリヒに告げる。

「黙れ。五月蝿くて敵わんぞ。あのじゃじゃ馬娘は。」

「ははは。扱いづらい女ほど燃えるもんはないだろう。」

「……。」

 フリードリヒの妻ユーディトも、若い頃はイングリッドに似て(正確には、イングリッドが似たのだが)、快活で、馬に乗り、野を駆けるのを好む女であった。遠方の北方地域の国の生まれで、珍しい黄金色の瞳をしていた。

 第一子のベネディクトをもうけた以来、体調を崩し、末娘のイングリッドが生まれる頃には、一日の多くを寝台で過ごすほど衰弱してしまった。

 ……あの子は、瞳の色以外は本当に、日に日にあれに似ていくな……。

 ユーディトは、これまで会ってきた女達と異なり、下世話な噂話や衣服や装飾品に興味を示さず、フリードリヒとともに、馬で遠出することを好む女であった。

 風変わりな女だったユーディトは、友が少なく、社交の場では常に浮いていた。それもあり、娘は普通に育てるつもりで、厳しくしてしまった。しかし、もっと自由にさせてあげればよかった、と今は後悔ばかりが募る。

 ユーディトとイングリッドがホーエンツォレルン家の者に捕まった、という事件が発覚した際は、家の者達と大いに揉めた。女二人のために、ヴォルテンブルグ派を陥れるわけにもいかないと、隠居していた実の父親に、何度も諭された。一派を纏める身として、愛する妻と、その妻に最も似た娘を見捨てるしかなかった。ユーディトの最期に立ち会うことすら出来なかった。

 何か込み上げてくるものを感じ、フリードリヒは片手で自身の目を覆う。

 どうやって帰ってきたのかはわからないが、ぼろぼろになって帰ってきた娘に、なんと声をかけてやればいいのか、わからなかった。一度は見捨ててしまったのだ。気がつけば、何時ものように強く当たってしまった。そんなつもりはないのに。本当は優しく声をかけてやりたかったのに。

 気がつけば、娘との溝は広がるばかりで、溝が深くなればなるほど、話すのが恐ろしくなり、何かと言い訳をつけて突き放してしまった。

 グンターの息子に嫁にやろう、と考えたのは、他の貴族の男たちや、自分の手元に置いておくよりもきっとあの娘のだめになるだろうと考えたからだ。若い頃のユーディトのように、伸び伸びと生きてほしい。きっとユーディトもそう考えたはずだ。

 結果、それは功を奏したようだった。イングリッドとラインハルトは大変愛称が良く、互いに支え合う、良きパートナーであった。将来はきっと良き夫婦となり、助け合い、健やかに幸せな人生を送っていくにちがいない。

「……ユーディー……。」

 ――あの娘はあんなにも立派に育った。自慢の娘だ。お前に似て、賢く、快活な娘だ。

「……フリードリヒ、お前さん、本当に素直じゃあないな。」

 グンターが、優しく、静かに涙を流すフリードリヒの肩を叩いた。




「お嬢様っ。」

「みんなっ。」

 春が近づいていると言えども、まだまだ肌寒い冬の青空の下。

 雪に覆われた屋敷前の庭園で、イングリッドは兵士たちと抱き合った。当然、多少の傷を負った彼らだが、皆無事であった。

「おかえりなさい。よかった、本当によかった。」

 兵士たちの前でも、みっともなく大粒の涙をぼろぼろとこぼし、鼻水を垂らして大泣きをするイングリッドを見て、数人の兵士たちは早く帰って来てよかった、と感極まって一緒に泣き出した。

 寄り道していたのもあり、イングリッドからかなり遅れて庭園にたどり着いだラインハルトは、イングリッド達の、抱き合い、喜び合う姿を見て、口元を緩めた。

 ……よかった。

「ただいま戻りましたよ、坊っちゃん。」

 ラインハルトは、声のした方向へ振り向いた。庭園の端にある、大きな木の下に、のっぽのヴェルナーが立っているのが見えた。相変わらず大きな体躯で、一人で端っこにいるのに、一際目立った。大きな怪我もなさそうだ。

「ヴェ……。」

 ヴェルナーを呼びかけたとき、彼の後ろに身を隠すように、気まずそうな面持ちのエリアスが立っていた。偵察隊にも参加したため、他の兵士よりも怪我が多いが、その美しさは変わらない。

「……エリス。」

「ぼっちゃん、あとでお嬢さんを含めて話をさせてくれないか。」

 とヴェルナーが真面目な口調でラインハルトに願い出る。

 ――エリアスの件の話だろう。

「もちろん。こちらもエリスに話があったんだ。」

 と言って、ラインハルトは、手元に抱えている封筒を見せる。これは先程、この庭園に向かう途中で、イングリッドの部屋に立ち寄って取ってきたものだ。

「なんですか、それ。」

 少し分厚いその封筒をみて、ヴェルナーはラインハルトに訊ねる。

「この後、エリスが来たら説明するね。」

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