page.35 神聖暦457年 冬(3-4)
「現状だと、あと数日で帰ることができるんじゃあないかな。」
ラインハルトの言葉に、イングリッドはぱっと花のような笑顔を咲かせる。
「本当っ?みんな無事かしら。」
「イングリッド部隊はかなり活躍していて、今のところ、大きな怪我を負った者は一人もいないらしいよ。」
ラインハルトにとっても、イングリッドの業績が、誇らしかった。参謀会議で、イングリッドを称賛する貴族たちが増えるのをみて、本当に嬉しくて堪らない。
「そうだ。今日は久しぶりにスコーンを作って持って来たんだ。」
「嬉しいっ。ルノーのチョコレートスコーン。」
「召し上がれ。」
イングリッドは幸せそうに、スコーンを頬張る。美味しい、懐かしい味だ、と頻りにラインハルトを褒め称える。そんな彼女の言葉を聞くだけで、ラインハルトも幸せな気分になる。
「……でも、ここの厨房、入りづらくなかったかしら。」
ここは自由な気風のあるエーデルシュタインではなく、厳格な気風のヴォルテンブルグだ。厨房に貴族が入ることは、全く無いと言っても過言ではない。
「ううん。乳母もいてくれたし。それに、君は今、屋敷の中でも大人気なんだよ。」
「……へ。」
ここ数日、ずっと寝込んでいたため、イングリッドは寝室の外の状況を知らない。アルデンヌ領の奪還の成功と、イングリッド部隊の華々しい活躍で、今や彼女は英雄視されている。領民の間でも、ヴォルテンブルグの次女は勝利の女神だ、と噂されるほどである。
「ちょっとっ。何よその変な状況っ。」
「はははは。」
「恥ずかしいっ。ヴェルナーのなんたらベアーのほうが数十倍ましよ。」
気恥ずかしくて堪らなくなり、布団の中に顔を隠す。人が病に伏せっている間に、一つの黒歴史ができてしまった。
「それほど、状況がいい、ということさ。喜ばしいことじゃあないか。」
「むうう……。」
布団からちらりと顔を出したイングリッドの愛らしさとどこか間の抜けたところが面白くて、ラインハルトは腹を抱えて笑ってしまう。
「もう、他人事だと思って。こんなのじゃあ、部屋から出られないじゃない。」
「大丈夫ですよ。お嬢様。この乳母めが布団から叩きだしてさしあげます。」
「え、乳母、いつの間にっ。」
いつの間にか寝室の扉をあけて、乳母が立っていた。乳母の後ろには若い侍女と主医者も控えており、笑いをこらえたような表情をしていた。
「きゃあああ。もうお嫁に行けないっ。」
混乱しすぎて、元気よく、わけの分からないことを口走るイングリッドを見て、乳母も安心したようで、ふふ、と笑っている。主治医も、もうこれなら大丈夫ですね、と言葉をかけている。
「インガー。大丈夫だよ。君は僕のお嫁さんになることが決まっているのだから。」
「……そういう意味じゃないわよっ。」
「……まあ、旦那さま。」
と乳母が驚いた声を上げる。なんと、扉の外に、フリードリヒが立っていたのだ。
「……っえ。」
イングリッドはあわてて、乱れた髪を手ぐしで直し、姿勢を正す。
「ご、ごきげんよう、お父様。」
「……息災で何よりだ。」
と低く小さな声で、フリードリヒが娘に声をかける。賑やかな娘の部屋の前を通りがかり、イングリッドの楽しそうな声を聞いて、つい覗いてしまったようだ。
「……っ。」
父親と、会話らしい会話をしたことがないので、なんと言えばよいのかわからず、イングリッドは言葉に詰まらせてしまう。
「……よくやった。イングリッド。私は書斎に戻る。何かあれば、何時でも来なさい。」
と、きまりが悪そうに顔を背けて、フリードリヒがイングリッドに声をかける。イングリッドのきょとんとした視線に耐えかねたのか、そのまま足早にその場を立ち去ってしまった。
……え、なに。
思考が停止してしまい、声も出ない。父親の、あのような姿は初めて見た。会えばいつも、顔をしかめて、叱りつけていた。叩かれたこともある。
「よかったね。お義父さまも、インガーを認めてくださったんだよ。」
「……。」
ラインハルトの言葉に目を白黒させる。
――あの、お父様が、私を……。
イングリッドは、なんだか照れくさく、素直に喜べず、布団に顔を埋める。ラインハルトが横で、くすくすと笑っている。
「……乳母、私ね、ルノーと二人でお話があるの。」
顔を布団で覆ったまま、乳母に話し掛けると、乳母は何かを察したように、侍女たちを連れて、部屋の外に出る。
「……どうしたんだい、インガー。」
「あのね、ルノー。きっと彼は、こんな、なんてことのない日常も過ごせないのでしょうね。」
「……。」
――思い浮かぶのは、死にたい、と切に願い、涙をぼろぼろと溢す少年。
彼は誰もが羨む美しい髪と瞳を持ち、誰もが聞き惚れる美しい声をしている。その顔貌はまるで、人のものと思えないほど眩く、その手脚は作り物のように端正である。そしてそれらは永遠に枯れることを知らない。
しかしきっと彼は、そのような特別は望んでいないであろう。
きっと彼は普通におはよう、と言い、ありがとう、と言うことができる。そのような日常に恋い焦がれたに違いない。
共に生き、共に老いる。
昨日の友人が、今日も友人である。
ときには、病で先立たれるかもしれない。
ときには、自分が置いて行く立場になるかもしれない。
ときには、諍いをして、友人と言葉を交わさなくなるかもしれない。
ときには、友情が愛情に変わって、その人は恋人に変わるかもしれない。
私たちには当たり前で、なんてことのない、ありふれた出来事。
平凡で代わり映えのない、つまらない人生。
きっと彼は、それらを羨望の眼差しで見つめていたに違いない。
仲間に入れてほしい。どうか、蚊帳の外に出さないでほしい。
そう、切に願ってきたに違いない。
イングリッドは暫し目を伏せ、瞑る。
――ならば。自分にできることはなにか。
――自分も、彼も、満足できる結果とはなにか。
「ルノー、お願いがあるの。」
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