page.31 年月日不明 冬(3)


 ――何十年もの間、僕はイルヴァと初対面の挨拶を交わしていた。

 ――どんなに忘れられても、彼女のそばに居られるだけで幸せだった。

 ――どんなに彼女が老いても、彼女のそばに居られるだけでだけで十分だった。


 冬の終わりの夜更け。

 僕はイルヴァの家を何時も通りにこっそり抜け出して、近くの村の宿屋に移った。明日には、イルヴァが僕を忘れるからだ。ここで一晩過ごして、そして春を迎えたらまた、彼女のもとに行こう。また忘れられてしまうのだな、という遣る瀬ない気持ちを隠しながら、僕は眠りについた。

 朝になって目が覚めると、僕は宿屋を出た。

 外は初夏の気持ちのいい風が吹いていた。

 ――早く彼女のもとに行きたい。

 ――今年はどんな一年になるのだろう。

 そう期待に胸を膨らませながら、また、彼女のもとに訪れた。

 彼女の家の扉を叩くと、七十くらいの女が顔を出した。白髪交じりの亜麻色の髪に、黄金色の瞳をした、腰の折れた背の高い女だ。

「はじめまして、あなたの弟子になりたくて、来ました。」

「……珍しい若者もいるものだね。」

 歳をとって弱々しくなったイルヴァは、断ることなく、再び家に招き入れてくれた。僕はまた、彼女の新しい弟子になった。僕は満たされていた。

 

 ――しかし春の終わりの、大雨の日。

 イルヴァが突然、病に倒れた。

 歳のせいだろう、と他の精霊使いが言った。そして、持ってあと少しだろう、と続けた。

 僕は不安に襲われた。

 また、置いていかれてしまう。

 いつも、悲しかった。

 昨日まで楽しく語らっていた友人が、次の日になると、目も合わせなくなってしまうことを。

 見知った人がどんどん老いて行くのに、自分だけはずっと、変わらない姿であることを。

「イルヴァ、逝かないでください。置いて行かないで。」

「……変わった子だねぇ。このあいだ出会ったばかりだというのに。」

 イルヴァは、優しく、僕の頭を撫で、

「人間なのだから、当たり前さね。私はあんたよりうんと歳が上なんだから、先に逝くのは自然の摂理さ。」

 と穏やかに、諭すように、僕にそう言った。

 ……ちがう。

 僕はあなたなんかよりずっと生きている。

 何故僕だけがずっと残されるのだろう。

 何故僕は、普通になれないのだろう。


 僕の願いも虚しく、彼女は夏を迎えることなく、この世を旅立った。


 独り残された僕は、ただ、ただ虚ろだった。

 愛していた人は、自分よりもどんどんと歳老い、そして逝ってしまった。

 僕は、いつになれば、いつまで待てば、終わることができるのだろう。


 何度か、自分で死んでみよう、と試みたことがあった。

 あるときは首を吊り、あるときは手首を切った。

 あるときは崖を飛び降り、あるときは湖に身を投じた。

 あるときは崩れ落ちる建物から逃げず、あるときは燃え盛る森から逃げなかった。



 それでも、目が覚めると、また知らない時間の、知らない場所の何処かに自分は立っていた。

 知らない言葉を話し、知らない顔立ちの人間を見た。

 使い方の分からない道具を見かけ、どうやって造っているのかわからない建物を見かけた。

 傷つけた場所の傷はすっかりと治ってしまっていた。


 そして僕は悟った。

 僕は死ねないのだと。

 永遠に、この地獄で生きていかねばならないのだと。


 きっと僕は、この世から見放されたのだ。

 ――僕は死ぬことだけを夢見ながら、死ねない永い時を独り彷徨った。 

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