page.32 神聖暦457年 冬(3-1)


 翌日になり、太陽が天頂近くに届きはじめたころ。兵士たちはアルデンヌ領へと出発した。途中で雪が降り始め、足場と視界が悪い、最悪の状態での戦争の幕開けとなった。

 イングリッドとラインハルトは、ヴォルテンブルグの屋敷の中から、その様子を静かに見守った。

 ――昨晩以降、エリアスとは顔を合わせていなかった。

 ラインハルトは今回の作戦副担当補佐として(主担当はイングリッドの父親のフリードリヒ、副担当はラインハルトの父であるエーデルシュタイン家当主のグンターである。)、書斎での参謀会議に召集されてしまったため、イングリッドは一人、自室で思い悩むこととなった。

 ――彼は、一体どのような想いをしてきたのだろう。

 昨日の別れ際の、涙を浮かべたエリアスの顔が頭から離れない。まるで幼い子供のように、大粒の涙を零していた。あれ程に感情を表に出したエリアスは初めて見た。あれが、彼の本当の顔なのかもしれない。

 もしも突然、ラインハルトやツェーザル、乳母のような愛する人たちに、お前は誰だ、と言われたら、自分はどうしただろうか。生きていられるだろうか。きっと悲しくて、寂しくて、生きていくのが辛くなるに違いない。彼はずっとそのような世界に、死を選ぶこともできずに、生きているのだ。

 ――探してあげるべきなのかしら。

 ――でも、そんなの、

 そのようなことは、できない。できる自信もない。イングリッドも人の子である。人としての道徳心を持ち合わせている。人を殺めるという行為にはそれなりの抵抗感がある。勿論、人の命を奪う手助けをすることにも、である。イングリッドは黒い石のペンダントをぎゅっと握った。

 ――考えが纏まらない。私は、どうするのが正解なのかしら。

「……。」

 乳母は、イングリッドの部屋の扉から、彼女の様子を伺っていた。乳母は、イングリッドが思い詰めているような顔を見て、どうしたのだ、と気がかりでならなかった。昨夜遅くに自室に帰ってきた際、イングリッドは目を腫らし、一言も話さぬまま、寝台に潜り込んでいた。乳母が部屋から出ると、声を殺すように泣くのが聞こえた。いったい、昨夜のうちに何が起きたのであろうか。

「お嬢様、私めにお話できることでしたら、なんでもおっしゃってください。」

 と何度も話しかけたが、その度に大丈夫、問題ないと答えては、頭を横に振る。もともと、周りに迷惑をかけまいとする性分の少女だ。しかし、だからといって、全く何も愚痴を零さないかというと、そういうわけではない。適度に乳母にも打ち明け、乳母を安心させようとするのだ。

 しかし今回に限っては、なにか話せない事情があるようで、その悩みの一端すら乳母に打ち明けない。乳母や他の侍女が部屋に居ないときだけ、ひっそりと涙を流し、一人で抱え込んでいる。

 ――じっとしてはいられない。お嬢様のために、なにかしなくては。

 無礼千万であるのを承知で、乳母は参謀会議が行われている、書斎へと急いだ。

 乳母が書斎の扉を叩くと、イングリッドの父親、フリードリヒが顔を出した。

「旦那さま、失礼します。」

「……どうした。乳母。」

 怪訝な面持ちで、乳母に彼女の訪問の理由を訊ねる。乳母は自分の立場をしっかりと弁えており、参謀会議に水を差すなど、通常ならば、絶対にやらない。それもあり、フリードリヒは何事かと伺いに来たのである。

「急ぎの用件がございます。お忙しいのは重々しょうちしておりますが、ラインハルト様をお借りしてもよろしいですか。」

「……。」

 暫し考え込むような素振りをして、フリードリヒはラインハルトを呼びつけた。

「今は動きがないから構わん。なにかあれば、直接イングリッドの部屋に使いをよこす。」

 そう言って、ラインハルトを外に追い出した後、書斎の扉を閉めた。

「旦那さま……。」

 娘の問題であると気がついている上で、話を聞き届けてくれるのは初めてである。

「インガーになにかあったのかい。」

 フリードリヒに書斎から追い出されたラインハルトは、不安そうな顔で乳母を見た。

「ああ、ラインハルト様。どうか、イングリッドお嬢様のお話を聞いてやってくださいまし。昨夜から思い詰めた様子で、一人悩んでおるのです。」

「……。やっぱり、そうだよな。」

 ラインハルトには、その原因が何であるか検討が付いてた。なぜならば、自分もずっと同じことを考え、思い悩んでいるからである。

「インガー。」

 と呼びかけ、彼女の部屋の扉を何度か叩いたが返事がなかった。仕方なく無断で部屋の中に入ると、彼女はかなり憔悴した様子で、布団の中にイングリッドは籠もっていた。ラインハルトが寝台に近づくと、彼に気づいたようで、イングリッドは布団から少し顔を出した。

「ルノー、お仕事はどうしたの。」

「お義父様に許可を貰って抜け出しているんだ。僕がいなくても、僕の父上もいるしね。」

 と言って、イングリッドの頭を優しく撫でる。

「……エリスの件、だよね。」

 ぐずぐずと鼻をすすりながら、イングリッドが起き上がる。髪はボサボサで、目がすっかり赤く腫れている。

「……ねえ、ルノー。私、どうするべきなのかしら。」

「インガー……。」

「エリスはきっとずっと独りで苦しんできたのだと思うの。」

 それを開放してあげたい。助けてあげたい。泣いているあの子を、見て見ない振りなどできない。

 しかし、どうしても、誰かを害するという行為に手を出すことが、恐ろしくて、堪らない。

「うん。わかるよ、インガー。」

 エリアスにとって、イングリッドたちもまた、春には他人になってしまう人間だ。忘れられてもいい、それでもいいから、死ぬ方法を探してほしい。そう切実に願うほど、彼は疲れ切っているのだろう。

 エリアス自身を忘れても、課題として、メモを残しておけば、たしかに研究することは可能であろう。そしてきっと、エリアスはそのメモには、迷い人として現れる精霊を殺す方法を探すこと、とでも書かせるつもりなのだろう。人間、と書けば記憶を失ったとしても道徳心による抵抗感は消えないのだから。

「きっと、エリスにとって、死ぬことが唯一の願いなんだとは、私もわかっているの。」

 あの儚げな少年を、どうすれば救えるのか。

「ねえ、インガー。僕は君がどんな選択をしても責めないし、必ず君の味方になる。だから、冬が終わるまで、一緒に考えよう。」

「…………っ。うん。」

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