page.18 神聖暦457年 晩夏〜秋(2)

 イングリッド含め、ラインハルトもヴェルナーも驚いて、持っていた書類を落としてしまう。

「……落ちましたよ。」

「エリス、久しぶりだね。」

 一生懸命、落ちた書類を集めながら、ラインハルトが挨拶をする。

「はい。」

「おお、エリス、工房に来るなんて珍しいじゃないか。」

 ヴェルナーがエリアスの方に絡みに行く。エリアスは軽くあしらいながら、

「兵士たちが、ヴェルナーとイングリッド様が暴走してないか、見てきてほしいと言うもので。」

「……。」

 エリアスは何時の間にか、可愛がられる存在から、頼られる存在になっていた。一番年下であるにも関わらず、しっかり者で、ヴェルナーはもちろん、貴族であるイングリッドにも、ラインハルトにもはっきりとものを言うところが、つい頼りたくなってしまうところなのだろう。

「……ヴェルナー、あまりイングリッド様たちをからかわないでくださいね。」

「……へい。」

 背伸びをして、エリアスがヴェルナーの耳を引っ張る。表情が変わらないところが、寧ろ恐ろしさを増幅させている。ふと、エリアスがイングリッドの方を見た。

「……なにかしら。」

 何を指摘されるのかと、イングリッドが身構える。

「チョコレート、口元についてますよ。」

「え、嘘っ。」

 ごしごしと袖でイングリッドが口元を拭いている。ラインハルトが、袖で拭かないで、と言いながらそんな彼女を止めにかかっている。先に気がついてやれなかった自分に、ラインハルトは理由不明の悔しさを感じていた。

「イングリッド様もですが、ラインハルト様も、最近眠っていないですよね。」

「……そうだね。最近は工房で寝泊まりすることもあるね。」

 気まずそうに、ラインハルトは目をそらす。泊まると、ソファで寝るから、背中が痛くなるのよね、と言いながら、イングリッドが肩を回している。

「……あまり、無理をしないでくださいよ。兵士や職人たちが心配してます。」

 イングリッドとラインハルトは周囲に心配をかけていることには自覚があったため、しゅん、と申し訳無さそうに俯く。 

「いざとなれば、ヴェルナーが数百人分の兵士の働きをしてくれます。」

 珍しいエリアスの冗談に、えっ、とヴェルナーが振り返るが、エリアスは軽くあしらう。はは、とラインハルトは乾いた笑い声をだす。

「それは心強いね。」

 イングリッドはぷうっと頬を膨らませ、びし、とヴェルナーを指差す。

「……いやよ。そこの熊には負けたくないわ。」

「……。」

 負けたくない、という表現で誤魔化しているが、兵士の負担を増やしたくない、というのが正直な答えであろう。なんだかんだ、イングリッドは、人材優先でものを考える。

 ――だから、兵士がついて行く気になったのかもしれないね。

 とぼんやりとラインハルトは考える。

「……そういえば、軽量化の件は何処まで進んでいるのでしょうか。」

 エリアスの発言がイングリッドとラインハルトの心にぐさりと刺さった。恐る恐る、イングリッドが口を開く。

「……素直に言うと、全く……。」

「……そうだね……。」

 ラインハルトも、イングリッドの言葉に同意を示す。イングリッドは紙に突伏した。

「むう……。あとちょっとなのに……。」

 若干、イングリッドの中では焦りの気持ちも出始めていた。納期まで、もうさほど時間がないからだ。少なくとも秋の中頃までには、完成した試作品を作らねばならない。

 このままでは、課題はあるけど納品するパターンか、諦めて手を引くパターンかの、どちらかの選択肢を選ばなければならなくなる。それらは、イングリッドの信念としては選びたくない選択肢たちだ。

「……。」

 焦りに関しては、ラインハルトも同様であった。愛するイングリッドが、満足の行く結果をだしてやりたい。しかし、このままでは寧ろ、悲しませてしまう結果になってしまう。折角ツェーザルと一緒に、あのヴォルテンブルグの当主から開発の許可を勝ち取ったのだから、結果も出してやりたい。

「はあ……。」

 ほぼ同時に、イングリッドとラインハルトは深い溜息をつく。

「……。この文献、文字、掠れてるんですね。」

 現在ラインハルトが解読している文献を見て、エリアスが呟く。

「うん……これだけ特に酷くてね。前後関係から、この単語かな、というのは予測できるのだけど。」

「……。」

 エリアスはじいっとその文献を眺めている。どうしたのだろう、とラインハルトは不思議そうにエリアスの様子を伺う。

「……少し、良いですか。」

「……。どうしたんだい。」

 何事かと、イングリッドとヴェルナーもエリアスに、注目する。きょろきょろと、エリアスを見渡して、何かを探している。

「……あの、ペンと紙を貸していただけますか。」

「え、お前さん、読み書きできないじゃないか。」

 エリアスの言葉に、ヴェルナーが指摘する。少しだけエリアスは顔をしかめる。めずらしい。今でも、エリアスは滅多に表情を変えないのに。

「……いいですから、貸してください。もう、期限まで、時間がないんですよね。」

 少し強めの彼の口調に突き動かされて、イングリッドは、自分が使っていたペンとインクを渡す。紙は、ラインハルトがまだ使っていないものを渡した。ヴェルナーは怪訝そうな面持ちでエリアスを見つめいる。

 エリアスは、独特な持ち方でペンを握り、インクを付ける。そして、ラインハルトが読んでいた文献を一番初めのページに戻す。

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