page.11 神聖暦457年 夏(3)

「むうう……。」

 イングリッドは目の前に広げた紙を前に、小さく唸った。

「大丈夫かい、インガー。」

 机の上で這いつくばるように紙を覗き込んでいるイングリッドに対し、優しくラインハルトが話しかける。既に工房を訪れていた四人の兵士、ヴィム、エッポ、フランク、マルクは何事だとイングリッドの様子を伺いに来る。

 すると、力尽きたかとおもうと、突然がばっと身を起こし、

「あっ。この手があったわ。」

 と言い、ぶつぶつと何かをつぶやきながら紙に何やら変な暗号のようなものを書き出し始めた。

「いつものやつっすね。」

 兵士の一人、フランクがぼそりと呟く。

「……だね。」

 イングリッドの横でラインハルトが頭を抱える。このイングリッドの奇行は今に始まったわけではなく、幼少の頃からある現象である。

 初め、その事実を知らなかった兵士たちは、何かの病気なのでは、と心配そうにしたものだが、三月も経ったので、なんだ、いつものやつね、という反応をするようになった。

 イングリッド曰く、はじめは良い案が浮かばず、不服で唸っているそうなのだが、突然、天啓のように良い案が浮かび上がってきて、それを必死に書いているという。ちなみに、謎の暗号は彼女が作ったもので、時短して案を書き出すためのものらしい。

「ふう……。」

 手を止めたイングリッドは、満足げに汗を拭う。

「……インガー。額にインクが付いているよ。」

「え、嘘。」

 ごしごしと額を服の袖で拭き出すと、慌ててラインハルトが彼女の手を制し、ハンカチでイングリッドの額を拭う。この光景も兵士たちは慣れてしまい、ああ、仲睦まじいことで、と微笑ましく見守っている。こんなのが貴族の令嬢なのか云々と誰一人つっこむ者は誰一人いなくなっていた。

「そういえば、新規追加分、読み終わったかしら。」

 強くこすられた額を抑えながら、イングリッドがラインハルトに進捗具合を訊ねる。

「うん。昨日ね。」

 そう言って、意訳した紙の束をどさ、と机の上に置く。イングリッドはさすがルノーだわ、と嬉嬉としてラインハルトに抱きついている。

「……というか、ヴェルナーとエリス、遅くない。」

 むっと眉間にしわを寄せてイングリッドがヴェルナーとエリアスの不在を指摘する。ラインハルトも窓の外を見る。太陽が天頂から少し西に傾き始めていた。

「……たしかにそうだね。もう昼過ぎなのに。」

「どこかの熊と違って、エリスは無断欠勤したことないのに。」

 因みに熊とはヴェルナーのことである。兵士のエッポが、そう言えば、乗馬の訓練に出ていましたよ、と伝えると、イングリッドが怪訝な顔をする。

「……そもそも、エリスは槍兵よ。本来なら、騎兵の訓練なんかに付き合う必要ないじゃない。」

「う……。」

 ヴェルナーとともに開発に招集されていた兵士が目を泳がせる。一重に彼の能力不足が原因である。

「お父さまも、ヴェルナーみたいな熊を選ばないでほしいところだわ。」

 イングリッドにとって、最強の戦士が一人いても嬉しくないのである。(そういう意味では、エリアスも特殊な兵士になってしまうが。)軍隊は結局数であり、それは点でなく面である。そこそこ平均で良いので、足並みが揃い、面として脅威となれば良い。

「……熊だなんて悲しいこと言わんでくださいよ、お嬢さん。」

 汗だくのヴェルナーが何時の間にか目の前に立っていた。

「うわ。吃驚させないで頂戴。」

「すみません。」

 ヴェルナーが答える前にエリアスが答える。エリアスも汗だくである。

「あら、エリスも来ていたのね。」

「遅くなり、申し訳ありません。」

 慌ててヴェルナーも、すいません、と謝辞を述べる。

「……二人とも、しっかり遅刻してきたわね。」

 イングリッドがにっこりと鬼のような笑みを浮かべる。あまりの恐ろしさに、何人かの兵士が身震いし、後ずさる。

「インガー、お説教はあとにしよう。」

 ラインハルトがぽん、とイングリッドの肩を叩き、今にも拳を下ろしそうなイングリッドを止める。

「……そうね。」

 こほん、と咳払いをして、イングリッドは気持ちを切り替える。

 ――お説教はなくならないんですね。

 思わず兵士たちの頭に同じ考えが浮かび上がる。

「エリス。ヴェルナー。とりあえず、試用品の全体評価を共有してくれるかい。」

 ラインハルトが穏やかな声で二人に話しかけると、エリアスが前に出た。その手には、試作品である槍のひとつと、弓矢がある。

 試作品は今や弓や防具だけでなく、槍と剣も一部出来上がっていた。試用対象が一気に増えたため、さすがに一つ一つの評価に目を通す余裕がなくなった。そこで、毎日すべての兵士が昼に工房に出勤し、状況を共有しているというわけである。

「ヴェルナーにも書き留めてもらってはいますが、槍の方は全体的にどれも穂先が重たいです。おかげで重心が取りづらいです。あと、穂先の重さに耐えられなくて柄の消耗が激しいです。」

 実際に少し振って、穂先の様子を見せながら、槍の評価報告し、続けて矢を持ち上げ、

「矢も同様ですが、矢じりと弓本体が重く、手に負担がかかります。矢の飛行距離や精度自体は、魔鉱石による補正機能が効いて、比較的真っ直ぐ遠くに飛ぶので、問題ありません。飛距離は通常の倍程度でしょう。弦の張りと強度は問題ないです。」

 と弓の評価報告をした。

「むうう……。難しいわね。」

 エリアスの報告に、イングリッドは唸る。

「あれお嬢さん、またいつもの唸りですかい。」

 からかうためにヴェルナに対し、失礼ね、違うわよとイングリッドは語気を強めて返し、ぷうっと頬をふくらませる。

「ヴェルナー、あまりイングリッド様をからかわないであげてください。」

「ほいほい。お嬢さんの頬が伸びきっちゃいますもんね。」

「くくく……。インガー、エリスにまで哀れまれてるよ。」

 ヴェルナーとエリアスの会話に思わず、ラインハルトは笑いをこらえる。

「ルノーまで。失礼しちゃうわ。で、熊の方の感想はどうなの。」

 怒りと恥ずかしさで顔を真っ赤にしていたイングリッドはきっとヴェルナーの方を睨む。

「んん――。俺には丁度良いですがね。重さがあって威力もある。」

 ヴェルナーは自分個人としての意見を正直に答える。横からエリアスが、

「しかし矢張り、他の兵士が使うとなると、重さが気になります。威力は充分かと。」

 と、補足を添えた。

「矢っ張り重さかあ。」

 イングリッドは頭を抱える。かなりいい線まで開発は進んでいるのだが、問題の軽量化の課題がなかなか解消してくれない。

 ふと、ヴェルナーがラインハルトが読んでいる書物に目を留める。見たこともない文字が羅列されている。一部の文字は掠れていて、読みづらくなっていた。

「これ、なんすか。」

「北方地方の古文書だよ。」

 ラインハルトの答えに対し、ヴェルナーは不思議そうな顔をする。

「ずっと気になってたんですが、武具の開発とその書物の類の解析ってなんの関係があるんですか。」

 

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