page.08 神聖暦457年 春(2-4)
「インガー、少し休憩しよう。」
声を張って、イングリッドに話しかける。後でいいわ、と予想通りの答えが返ってきたので、ミルクティーとチョコレートのスコーン食べちゃうよ、と伝えると、抱えていた書類をおろしてこちらに駆け寄ってきた。
「ルノー、用意がいいわね。」
きらきらと翡翠色の瞳を輝かせてイングリッドが飛びついてきた。鍛冶場を行き来していたためか、煤のようなものが服や顔についている。
「ほら、まずは顔を拭いて。」
ごしごしと、ハンカチでイングリッドの顔を拭う。その様子を見て、エリアス以外の五人の兵たち、工房の職員たちが近寄ってくる。
「あれ、お嬢さん、何やってるんですか。」
「はは。顔が汚れてたから拭ってるのさ。」
代わりにラインハルトが答える。子供扱いしないでよ、とイングリッドがぷうっと頬をふくらませる。その様子を見て、ヴェルナーが
「……お嬢さん、本当に貴族なんですか。」
と呆れた声を漏らす。
「貴族の娘が皆お淑やかだなんて幻想、抱くのは止めて頂戴。」
「お嬢さんが変わっているだけだと思うんですが……。」
賑やかに歓談を始めたイングリッド達を見て、ラインハルトはほっとした顔をする。よかった。兵士たちにも馴染んでもらえたみたいで。初めて顔を合わせてたときは、迷惑な貴族の娘だとあしらわれていたので、心配したものだ。
「……お手伝い、しましょうか。」
工房に持ち込んでいたバスケットの中からカップや皿を取り出していると、エリアスが話しかけてきた。
「ありがとう。じゃあ、お皿を机に置いてくれるかな。」
「はい。」
こくりと頷くと、エリアスは静かに人数分の皿を机に並べ始める。
「なになに、もう二人とも仲良くなったの。」
「うわ、インガー。行儀悪いよ。」
イングリッドがラインハルトの後ろから抱きつき、覗き込んできた。その手には、バスケットからくすねたチョコレートのスコーン。
「いいじゃない。どうせ椅子も足りないのだから。」
そう言って幸せそうに頬張る。
「ううん、美味しい。ルノーの作ったスコーンは世界一ね。」
「え、坊っちゃん、料理できるんですか。」
驚いたヴェルナーが思わず振り返る。皿を置いて回っているエリアスに絡んでいたようで、エリアスに伸し掛かっている。ヴェルナーはそこらの男たちよりも背が高いので、重くないのかな、と思わず思ってしまう。
「料理と言っても、簡単なものだけだよ。」
「いやいや、貴族の坊っちゃんが料理できる、というだけで吃驚ですよ。そもそも、普通は厨房に入らないですよ。」
「僕の家はヴォルテンブルグと比べると、自由な気風だからね。」
ラインハルトの生家であるエーデルシュタイン家は、ヴォルテンブルグ家の家臣の家系で、どちらかというと参謀の立場ではあるものの、自由気ままな質の者が多い。それもあり、イングリッドの性格にそこまで振り回されることはなかった。
「へえ、それじゃあ、お嬢さんのお嫁先にはぴったりじゃあないですか。」
ヴェルナーがにやりと笑って見せる。他の兵士や鍛冶場の職人たちも同じ意見のようで、頷いている。何故かイングリッドも頷いていて、嬉しいような気恥ずかしいような気分になる。
「俺、任期終えたら、坊っちゃんの家に就職しようかな。」
ヴェルナーがそういうと、イングリッドが、なんでよ、と聞き返す。
「どうせ、そのうちお嬢さん、結婚してエーデルシュタインの方に移っちまうでしょう。そしたらヴォルテンブルグなんて堅苦しさしか残らないじゃないですか。」
「ふふ、たしかにヴェルナーには向いていない家風ね。」
ヴェルナーの言葉に納得があったようで、イングリッドがくすりと笑って答える。
「それに、お嬢さん見ていると飽きないんですよね。さっきなんて、気がついたら壁によじ登って、鎧の耐久テスト始めたんですよ。」
あ、それは言わないで、とヴェルナーの言葉を慌てて止めようと、彼の口を手で塞ぐイングリッドの姿を見て、唖然としてしまう。なんて危なっかしいことを。少し目を離した隙に、なにをやっているんだ。
「ちょっと。インガー。怪我でもしたらどうするんですか。」
「大丈夫よ。ちゃんと命綱付けていたし。どうしても鈍器に加速度を付けたくて……。」
「命綱どうこうの問題じゃないよ。」
ラインハルトは言い訳を開始しようとするイングリッドを遮って詰め寄る。観念したのか、イングリッドがごめんなさい、と素直に手を合わせた。
「もう、ヴェルナー。内緒にして頂戴って言ったじゃない。」
むっとヴェルナーの方を向いて苦言を言うイングリッド。反省しているのかしていないのか謎なところである。
「ヴェルナー、それと他のみんなも、今後インガーが危険な真似をしようとしたら直ぐに僕を呼ぶんだよ。」
にこにことした笑顔でイングリッドの声を遮る。その語調は、ラインハルトとは思えない刺々しさがある。イングリッドはしゅん、と借りてきた猫のように大人しくなった。兵士たちはそれが面白かったのか、了解です、と言いながらくすくすと笑っていた。
「もう、ルノーったら過保護なんだから……。」
イングリッドはぶつぶつと文句を言いながらも、内心は、ラインハルトが真に自分を心配してくれることが嬉しくて堪らなかった。
母親を失ったあと、次兄以外の味方はいなくなった。しかし、その次兄も母親の空席を埋めるべく、家の切り盛りをするようになり、疎遠となってしまった。
そんなイングリッドにとって、彼女を一心に支えてくれるラインハルトは良きパートナーであった。学術書について論じているときも、頑張って理解をしようと努めてくれたうえ、自分が苦手な言語を頑張って身につけてくれた。
父親としては、型破りな娘を持て余してしまい、友人の家に嫁がせて厄介払いをしてしまうことにしたのだろうが、彼女にとっては幸運以外のなにものでもなかった。
「イングリッド様。紅茶のおかわり、しますか。」
ティーポットを持って、エリアスが訊ねて来た。自分の手元を見ると、カップの中が空になっていた。いつの間にか飲み干していたようだ。
――思っていたよりも気も回る良い子じゃない。
思わず顔をほころばせ、
「ええ。ありがとう。」
と答える。
エリアスは黙ってイングリッドのカップに紅茶を注いだ。
「……イングリッド様。」
「なにかしら。」
ティーポットを机に置き、真っ直ぐとイングリッドの顔をじっと見つめてきた。その銀色の瞳は透き通っており、イングリッドの姿が映し出されているのが見える。何なのだろうと思わずどぎまぎとしてしまう。
「……ちゃんと寝てくださいね。」
「へ。」
予想外の言葉に、イングリッドは目を白黒させる。
「目の下の隈、段々濃くなってますよ。」
エリアスの指摘に、はっと自分の目元を触る。
――先程は、目元を見ていたのね。分かりづらい……。
「ええと、何時から気がついていたのかしら。」
恐る恐る、エリアスの方を見て、確認する。エリアスは変わらない表情で、
「初日からです。」
とさらっと即答した。
「……。」
初日から部下に心配されていた事実を知り、穴があったら入りたい気持ちが押し寄せてくる。イングリッドは思わず手で顔を覆う。
「初対面の僕でも気が付きます。」
淡々と指摘され、むしろ悲しくなってきた。歳下にも呆れられているような気がしてきて、イングリッドは自分の不甲斐なさを痛感する。
「……つい、調べ物をすると眠るのが遅くなってしまうのよ。納期以内に成果を出さないといけないし。それに……。」
「それでも、寝てください。」
エリアスが静かな声でイングリッドの言葉を遮る。語調は何時もと何も変わらないのに、有無を言わさないその言葉からはどこか強制力を感じた。
「う……。」
「ラインハルト様をお呼びしましょうか。」
ここに来てラインハルトの名前を出され、それだけは止めて頂戴、とイングリッドはエリアスの手を握る。しかし、ヨルンはただ、感情を感じられないその眼差しでじっと見つめているだけだ。
「……はい。」
根負けしたイングリッドは素直に敗北を認めることにした。
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