page.07 神聖暦457年 春(2-3)

「すみません。」

 声をかけられ、ラインハルトは声のした方へ振り向く。其処にはエリアスがぽつんと立っていた。

「どうしたんだい。」

「……報告です。」

 ふと、イングリッドの方を見ると、イングリッドはヴェルナーを使って、また甲冑の性能試験をしていた。ヴェルナーが何やらぎゃあぎゃあと騒ぎ立てている。実に楽しそうである。

「ああ、そういうことね。」

 取り敢えずイングリッドの手が空いていないことが確認できたラインハルトは、エリアスの方を見る。よく見ると、手がぼろぼろに擦りむけていた。

「……って、君、手がぼろぼろじゃないか。」

「……そうですね。」

 そうですね、とだけ、返すエリアスの姿に唖然としてしまう。この子は、他人にだけでなく、自分にも頓着がないのか。

「いいから、そこに座りなさい。報告を聞きながら、手当をしてあげるから。」

「……。」

 暫く沈黙した後、エリアスは素直に指定された場所に腰掛ける。こうしてじっくりと見ると、イングリッドより小さいのだなと実感できる。着痩せしているのもあるだろうが、痩せ細っているように見える。よく傭兵行儀悪いよなんてできるな、と思ってしまう。軽く小突いたら、ぽっきりと折れそうだ。

「君ね、適度に休みなさい。イングリッドも根詰めて体を壊してまで、開発を進めることは望んでいないはずだよ。」

 こくり、と小さくエリアスは頷き、抑揚のない声で報告を始める。これまで苦労をしてきたのだろう、今さっきできた擦り傷以外に、その細く小さな手には、既に蛸がたくさんできていた。

「……あの。」

 報告を終えると、ぽつり、とエリアスが声を出した。

「どうしたんだい。」

「……イングリッド様はお休みを取らなくて大丈夫なのですか。」

 思わず、ぽかん、としてしまう。

「ずっと、お休みになってないですよね。睡眠もそんなに取っていないのではないでしょうか。」

 口数がかなり少ない上、業務報告しかしないと聞いていたので、少し驚いた。口調も表情も変わらないが、自分の婚約者を労ってくれていることだけは伝わった。

「大丈夫。このあと無理矢理にでも休憩時間を作るからね。彼女の好物を用意してあるんだ。」

 そうですか、と小さくエリアスは応える。

「あの子はね、ミルクティーとチョコレートの入ったスコーンが大好きなんだ。どんなに何かに熱中していても、これらが出されたらすぐに離れて、飛び付いてくるんだ。」

 ラインハルトはふふ、とその時のイングリッドの様子を思い出して笑う。そしてふと、昔のイングリッドの姿を思い出し、目を伏せる。

 小さい頃から学問に目がなく、学術書を読み漁ってはそれについて論じていた。付いてこれる者は誰もおらず、苦笑いする周囲の人間をみては何時もしょんぼりとしていた。

 一方で読書が好きなかたわら、彼女は野原を駆け回り、木を登るのも好んだ。足の遅いラインハルトに対し、遅いわよ、早く来ないと置いていってしまうわよ、とよく頬を膨らませて見せていた。しかし、それでも追いていくことは決してせず、走っては立ち止まって、声をかけて待っていてくれた。

「瞳の色以外は、インガーはお義母さまのユーディト様によく似ていてね。賢くて、快活な性格のもそっくりだ。まあ、ユーディト様はインガーと違って、お体があまり強くなくて病気がちではあったけれど。」

 手当が終わると、エリアスがラインハルトの手からゆっくりと自分の手を離し、ぐっと握ったり開いたりして具合を確認している。

「……ユーディト様が生きていたら、インガーも頼れる人が増えて、もっと肩の力を抜けると思うのだけどね……。」

 先程までヴェルナーと甲冑の試用試験をしていたはずのイングリッドが、今度はベンノに武器の作りについて相談しており、その横には評価一覧を持って兵士たちが待っている。忙しなく動き回るイングリッドの姿を見て、少しいたたまれない気持ちになる。

「……その母親は、もうお亡くなりになったんですか。」

「……うん。そうだね。確か、インガーが八つのときだった。」

 ううん、と立ち上がり、ラインハルトは伸びをする。ずっと書物とにらめっこをしていたため、背中が凝って仕方ない。ふう、と一息つき、続ける。

「インガーはユーディト様が大好きだったから、すごく落ち込んでいたな。でも、あの負けん気のせいか、葬儀の時には泣き止んでいた。」

 滅多に泣かないイングリッドが、母親の亡骸を前に、わんわんと泣いていた姿は見ていて本当に辛かった。学術書を読み、野を駆け回ることに唯一叱らなかった家族である母親を、イングリッドは本当に愛していた。

「……たしかに、イングリッド様は働きすぎですけど。」

 ぽつり、とエリアスが言葉を発する。

「ラインハルト様もきっと、心の支えになっていますよ。」

 ラインハルトはきょとん、とした。エリアスは相変わらずの表情でこちらを真っ直ぐとした眼差しで見ている。そして、

「イングリッド様はとても活き活きして見えます。」

 と付け加えた。

「……そうだといいな。」

 ラインハルトは穏やかにエリアスを見つめて、微笑む。この子はきっと、表情が乏しいだけだで、本当は優しい子なのだろう。

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