page.27 神聖暦457年 冬(2-1)


 見張り塔を登りきると、少し離れた、手すりのある場所にエリアスはいた。その手すりの前で、夕日で紅く染まる白銀の髪をなびかせ、彼は見張り塔の下に広がる景色を眺めていた。

 どこで怪我をしたのかはわからないが、頭と右腕に、軽く包帯を巻いている。しかし相変わらず、長い銀色の睫毛を伏せ、遠くを眺める透き通った銀色の瞳は硝子のように透き通っていて儚く美しい。イングリッドとラインハルトはふらふらと彼の方に足をすすめながら、暫し、夕陽を浴びる美しい少年の姿に見惚れてしまった。

 びゅうっと冷たく、強い風が塔の中を吹き抜けた。手に持っていた手紙が、風を受け、音を立ててイングリッドの手を離れそうになる。そのことに気が付き、イングリッドとラインハルトは、現実に引き戻された。

 ――そうだ、エリスに話があるのよ。

 ふう、と一息つき、イングリッドは彼を呼びかけるべく、声を絞り出す。

「エリ……。」

「エリスっ。」

 すると背後から、同じようにエリアスを呼ぶ男の声がイングリッドの声を掻き消した。聞き覚えのあるその声に驚き、イングリッドとその横にいたラインハルトは、後ろを振り向いた。のっぽで屈強な男が、階段を上がってすぐのところに立っていた。

「え、ヴェルナーっ。」

 驚いて、イングリッドは素っ頓狂な声を出す。

「あれ、お嬢さんたちも来てたんですね。奇遇ですね。」

 ヴェルナーも先に来ていた二人の姿に対し、驚きの声を漏らした。ここに来るまでの間、ずっと走り回っていたため、まだ呼吸がぜえぜえと乱れており、少し声が掠れてしまう。

「なんでこんなところにいるんだい。それにそんなに息を切らせて。」

 と言い、ラインハルトはハンカチでヴェルナーの汗を拭ってやる。

「いや、ええと……。」

 ヴェルナーは答えるのに困った顔をする。

「……僕に会いに来たんですよね。」

 とエリアスは、静かにイングリッド達に声をかけた。イングリッドたちの方に視線を送ることもせず、相変わらず景色の方を眺めている。その声は、秋のときと変わらず、中性的な声音で、抑揚がなく、感情が感じられない。

「……エリス……。」

 と小さくラインハルトは声を漏らす。

「アルデンヌに行く前に、ここの景色を眺めたくて、夜まで見張りを代わってもらったんです。ただ、僕も睡眠を取らないといけないので、途中で交代しますけどね。」

「え、そうなの。」

 と裏返った声をイングリッドは出してしまう。めずらしく世間話のような話を始めるエリアスにイングリッドは面食らっていた。

「皆さん、今日は飲みたいらしくて、快く代わってくれました。」

「まあ、そうだろうな。」

 頭を掻きながら、エリアスの言葉にヴェルナーが同意する。イングリッド部隊の面子はどうかはわからないが、昔の同僚たちはきっと、今頃飲みに行っているだろう。またヴェルナー自身も、かつてであったら、今頃、遊郭にでも繰り出しているだろう。

「ヴェルナーは行かなくてよかったんですか。」

「へ。」

 ヴェルナーが突然のエリアスの問いかけに、きょとんとする。

「イングリッド部隊の皆さんといたじゃあないですか。」

 ――練武場から出るとき、見ていたのか。

 やっぱりあのとき、見ていたのかよ、とヴェルナーは声を荒らげ、

「なんで話しかけてくれなかったんだ。俺たちに用事があって来ていたんじゃないのか。」

 とエリアスに食い入るように訊ねる。捲し立ててくるヴェルナーに対して、

「たまたま通りかかっただけですよ。」

 とエリアスは答えた。胡散臭さしかない。

「本当かあ、それ。」

 怪しむ表情で、ヴェルナーがエリアスの横顔を覗き込むように見るが、エリアスはヴェルナーの方を向きもしなければ、ヴェルナーの問いに答えようともしてくれない。ふと、エリアスは空の方に目を見やる。月が少し、東の空から顔を出し始めていた。徐々に紅い夕空が、夜のそれへと色を変貌させている。

「古代文字の件ですよね。」

「……そうだね。」

 確認するようなエリアスの言葉に、ラインハルトが同意の意を伝える。エリアスは少し離れた場所にいるイングリッドたちに見えるように、指を三本立ててみせた。

「聞きたいことは、ざっくり三つですかね。」

 ――なぜ、古代文字の読み書きできて、現代文字のそれはできないのか。

 ――なぜ、精霊石の知識は何処で身に着けたのか。

 ――なぜ、古代文字と精霊石について知っているにも関わらず、誰にも教えなかったのか。

 エリアスはイングリッドたちが何を聞きたいのか的確に認識していたらしい。イングリッドたちはただ、エリアスの言葉に対して、肯定の意を表すしかなかった。

「……不平不満もかなりあると思いますから、最後の疑問からお答えしますね。」

 そう言って、エリアスはをゆっくりとイングリッドたちの方へ振り向く。逆光で表情が見えない。

「率直に言うと、あえて黙っていた、というのが答えになります。」

 エリアスの言葉に、三人は一瞬、思考が停止する。

「んな……。」

「わざ……と……。」

 理解が追いつかず、ヴェルナーとイングリッドは声がうまく出せない。ラインハルトだけはきっとエリアスを睨みつけ、

「君、悪巫山戯も体外がすぎるよ。」

 と彼に向かって怒鳴りつけた。ラインハルトにしては珍しく語気が荒い。

 ――インガーは、ずっと思い悩んでいた。

 ――兵士たちを想定より早く戦場へ送り出すことを憂いていた。

 ――もっと早く武器を完成させていたら、と泣いていた。

 ついこの間までのイングリッドの憔悴した姿を思い出すと、ラインハルトは遣る瀬ない気持ちで一杯になる。

「……悪巫山戯のつもりはないのですが……。」

 と小さく呟き、エリアスは手すりに腕を置いて寄りかかる。はあっと白くなった息を自分の手に吹き掛けて、温めている。

「青い精霊石で躓くだろうことは、春の頭に出会ったときから気がついていました。」

「うそ、はじめから……。」

 と呟くイングリッドの声は震えている。

「はい。工房に置いてある精霊石を見たときから、なんとなく。」

 でも気にすることはありませんよ、と良い、空を見上げる。イングリッドはただ、エリアスから目を離さず、黙って彼の言葉に耳を傾ける。

「ベテランの精霊使いでもよく間違えるんです。」

 少し懐かしむように、その銀色の瞳を細める。 

「僕の先生もよく、間違えて失敗していました。依頼人によく怒られていましたよ。」

 ラインハルトはぽかんとして、

「……先生。」

 と呟く。

「はい。これは二番目の問いの答えにもなりますね。」

「精霊使いの知り合いが……いた……。」

 と驚きの隠せない声で、ラインハルトは小さな声で訊ねる。

「はい。」

 エリアスは肯定する。

「精霊使い、て今でもいるの。」

 と言ってイングリッドはエリアスに少し詰め寄る。

「いいえ。」

 と今度は否定した。真っ直ぐと表情のない瞳でイングリッドを見据えている。

「え。」

「たぶん、いないと思いますよ。」

 と抑揚のない声で、静かに告げ、そして、少し寂しそうな眼差しをした。

「もうずっと会っていないですから。」

 エリアスは俯き、屈託なく笑う、一人の女を思い浮かべた。

 ――亜麻色の髪に黄金色の瞳の精霊使い。

 ――僕を置いて、先に逝ってしまった、愛した人。

 ――あれから長い、長い時を彷徨ったが、ここ何百年は、精霊使いという者はめっきりと見かけなくなった。

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