page.26 年月日不明 冬(2)
――また新しい書物を見つけてきたのだろうな。
イルヴァは、奇人変人の多い精霊使いの中では比較的まともな方ではあるのだが、知識には貪欲で、新しい書物を見つけると、周りの音が聞こえなくなるほど熱中してしまう。
仕方がないので、机を何度も強く叩いてみせると、流石のイルヴァも気がついたようで、怪訝な面持ちでこちらを見てきた。
「……イルヴァ、すりこぎを取ってください。急いで。」
「あいよ。」
と面倒そうに言ってイルヴァはすりこぎを取り、机の上に置いた。僕は急いで、鍋が熱いうちに石をかき混ぜながら、
「イルヴァ、物をぽんぽん、あちらこちらに置くのは止めてください、ていつも言ってますよね。」
とイルヴァにいつも通りの注意をした。彼女は何回言っても物を元の場所に戻さない。大雑把な質なので仕方がないが、精霊使いとしての仕事道具くらいはせめて元の場所に置いておいてほしい。
「うっさいね。餓鬼は黙って仕事しな。」
「……。」
――呆れて物が言えない。
ふと、棚の中の橙色の精霊石が視界に入った。
「……橙の精霊石を鍋の中に入れますよ。」
「んなっ。おおい、止めろ。」
「マルヤさんはぐっすり気持ちよく眠れると思いますよ。但し、お金を騙し取られたマルヤさんが棍棒を持ってイルヴァを訪ねて来るかもしれないですね。」
橙色の精霊石を鍋の近くで振ってみせると、イルヴァが真っ青な顔になるのが見えた。それはそうだろう。このあいだやらかしたミスの一つだ。
「わ、わかった、わかったから、手をおろしなさい。」
「じゃあ、仕事道具は今度から元の位置に置いてくれますか。」
「する、いえ、させてくださいっ。」
イルヴァはマルヤさんに怒られるのが大の苦手だ。マルヤさんは一見穏やかな老婆だが、怒ると、静かに、ねちねちと追い立てる。――慌てるイルヴァが可愛らしくて笑いたくなるが、ここは、我慢だ。
「なら、よろしいです。あと、もう完成しましたよ。」
ぶつくさと小言を言いながら、イルヴァは鍋の中の薬の出来前を見に来る。
「……悔しいぐらいに完璧だね。」
「ありがとうございます。」
「器に移しな。」
と言って、イルヴァが暖炉横の棚の中から調合薬用の、白銅色の器をとりだして僕に手渡した。僕は鍋をそうっと、傾け、器に移していく。この作業はいつも請け負っているので、慣れている。
「……なんですか。イルヴァ。」
器に移しているだけだというのに、イルヴァがじっとこちらを凝視している。――やりづらい。
「いんや。出来た弟子を持つと楽でいいやと思っただけだよ。あんたが来て、何月経ったっけ。」
――今は冬の頭だ。そして出会ったのは今年の初夏。
今年に、イルヴァに出会ってから約半年だ。僕は弟子としてここに住まわせてもらっている。出て行けと言われたら、出て行かなければならないが、今のところ彼女に出ていけと言われたことがない。
「初夏くらいからお世話になっているので、そろそろ半年ですよ。」
「そういやそうだな。あのときは吃驚した。精霊使いになりたいから弟子にしてください、なんて言われるもんだからさ。」
「あはは。そうでしたね。」
「いやあ、今どき珍しいもんだと思ったよ。」
懐かしそうに微笑みを浮かべる目元に少し皺ができる。イルヴァは今年で齢四十二になるが、年齢を感じさせない、活き活きとした雰囲気がある。
「でも、雑用を押し付けられて良かったでしょう。」
「おだまりよ。……まあ、いたいだけいればいいさ。」
イルヴァの素直じゃない優しさに、胸がギュッと締め付けられたような感覚を感じる。
根はこの寛大でおおらかな、だけど捻くれていて、どこか子供っぽいところも、ぼさぼさで少し癖のある亜麻色の癖っ毛も少し眼尻がつり上がった黄金色の瞳も。イルヴァのすべてを僕はずっと愛している。
「……………はい。ありがとうございます。出ていけと言われるまでは、小言を言わせてもらいますよ、先生。」
初めてイルヴァに出会ったのは、寒い冬の、森の中だった。気がついたらそこにいて、ここは何処だろうとうろうろと彷徨っているところを、彼女に見つけられたのだ。当時のイルヴァは二十くらいの若い娘の見た目をしていた。そして、彼女が僕に話し掛けた言葉は全く理解ができなかった。
聞いたことのない言葉に戸惑い、寧ろこちらから話し掛けると、何かを察したようで、少しずつ、言葉を教えてくれるようになった。一月が経つと、彼女の言う事が少しずつわかるようになった。彼女の名前はイルヴァといい、精霊使いという仕事をしていること、今は冬の頭で、これからどんどん寒さが厳しくなること、そして、僕が話していた言葉は、極北の古語で、今は使われていないこと。
何処の馬の骨かもわからない僕を、彼女は小言を言うことなく、家に留めてくれた。食事の作り方や薪の割り方、村への行き方や精霊使いとしての仕事などを教えてくれた。彼女は大らかで美しい女人だった。僕は、次第に彼女を慕うようになっていた。僕は永い時を彷徨って、初めて恋というものをした。彼女のそばに、ずっと居たいとおもうようになった。
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