page.13 神聖暦449年 初夏〜冬(1)
それは約八年ほど前のこと。
七つになったばかりの頃。
春が終わり、初夏の季節が訪れていた。
時間は、たぶん夕方ごろ。
母が、とても調子が良いから街へ出かけよう、と言ったので、めずらしく母と街へ出かけていた。
一人の侍女と、三人の護衛を連れて。
自分は、小花柄の刺繍があしらわれた橙色のドレスを着て、栗色の靴を履いていたような気がする。
母は、質素で青いドレスを着て、黒い靴を履いていたと思う。亜麻色の髪に黄金色の瞳をしていた、母に良く似合っていた。
市場で美味しいお菓子を買って貰って、滅多に行かせてもらえない本屋に立ち寄った。
そんな幸せな時間を過ごした帰り道だった。
ぴちゃん、と水滴が落ちる音がする。
かさかさと、鼠が横を通り過ぎた。
かちゃり、と足枷の鎖が音を立てる。
イングリッドは、弱って動けない母ユーディトの傍に寄り添っていた。彼女自身も空腹で、動けないでいた。
毎日与えられるのは、水のみ。数日に一回は粗末なパンを与えてくれることもあった。そんな生活をもう何日も過ごしていた。
今が何月何日なのか、今が朝なのか昼なのか、今は雨が降っているのか、晴れているのか。何も外の詳しいことはわからない。ここからは外の光すら見ることができない。
イングリッドとユーディトは、知らない屋敷の地下牢に閉じ込められていた。ユーディトは、ここに来るときに、ホーエンツォレルン、というような言葉を呟いていたような気がする。地下は薄暗いうえ、肌寒い。布団も与えられていないため、寄り添って体を温めるしかない。両足は足枷が嵌められ、足枷には壁と繋ぐ鎖が付けられていた。
――あれ。
ふと、いつもいるはずの見張りの兵の姿がいないことに、イングリッドは気づいた。あの兵士は、誰も見ていないことをいいことに、本来は毎日出るはずのパンを、数日に一回だけ渡す、とても嫌らしい、少し小太りした男だった。
「……。」
――用をたしにでもいったのかしら。
ぼんやりと、錆色の冷たい地面を眺めながら、ぼんやりと彼がいない理由を考える。下らないことだが、何かを考えていないと発狂してしまうような気がした。
「食事です。」
ふと、聞き慣れない若い声が牢の外から聞こえてきた。顔をあげると、何時もと違う、年若い兵士がいた。
自分と七つの姉と同じ年頃のような見た目をしている。
手足が剥き出しの、兵士にしては粗末な身なりをしている。怪我しているのか、頭と右目を包帯で覆っている。両の耳には、黒い石でできたピアスをしている。彼の手元には、二人分のパンと水を乗せた盆があった。
「……おにいちゃん、だあれ。」
イングリッドはなんとか声を絞り出す。
「……見張り番です。」
兵士は、静かに、端的に答え、パンと水を牢の中に置く。
「ぱん、くれるの。」
「……命令ですから。」
この兵士は当てつけに、パンを取り上げたりしないのだとわかり、イングリッドはほっとし、母親のもとに駆け寄る。
「おかあさま、おきて、おかあさま。」
横で倒れ込んでいるユーディトを揺する。ユーディトはかなり憔悴していた。ゆっくりと目を開けて、イングリッドの方に首を傾ける。
「……インガー。どうしたの。」
「おにいちゃんがね、パンをくれるんだって。」
そう伝えると、ユーディトがよろよろと兵士の方に顔を向ける。美しかった亜麻色の髪は艶が無くなり、病で伏せっているときも明るさを忘れなかった、その黄金色の瞳は輝きを失い、生気がなくなっていた。
イングリッドは足枷の付いた足でとことこと、パンと水の置いてある方へ走り寄る。弱って動けない母親の代わりに、運んであげなければ。
「わっ。」
鎖が絡まり、イングリッドはバランスを崩してしまう。
「……。」
しかし、床に叩きつけられる衝撃はなかった。
「……おにいちゃん。」
兵士が牢の向こうから、両手を伸ばして、自分を支えてくれていた。思わず、兵士をまじまじと見てしまう。
「インガー、大丈夫なの。」
ふらふらとユーディトがイングリッドの元に駆け寄ってきた。そして
「……娘を助けてくれて、ありがとう。」
と兵士に対して礼を言った。
「…………別にそんなおおそれたことはしていません。」
そう言って、イングリッドをしっかりと立たせると、手を離した。久しぶりに、ユーディトが目を細めて笑う。
「優しい子ね。」
優しい子、と言われて気恥ずかしかったのか、兵士がそっぽを向く。
「……焼印……。」
イングリッドは思わず呟いてしまった。兵士の背中辺りに、焼印のようなものがみえた。焼印はたいてい、奴隷か、重罪人が押されるものである。
「……奴隷は珍しいですか。」
兵士が小さな声で訊ねて来た。珍しくはない。ヴォルテンブルグでも数人抱えている。街にも、重労働をさせるための奴隷は幾らでもいる。しかし、
「兵士さんで、どれいの人ははじめてみたわ。」
ユーディトが少し焦ったような顔をし、インガー、失礼よ、とイングリッドの口を塞いだ。
「……気にしていないので、問題ありません。」
そんなユーディトに対し、兵士はぼそりと呟く。
「あなた、とっても若いのね。おいくつかしら。」
ユーディトが優しい口調で兵士に訊ねる。母親の声を久しぶりに聞けて、イングリッドは嬉しくなる。なんだか、瞳が少し活力が宿ったようにも見える。
「……十四です。」
「まあ、私のもう一人の娘と同じ年頃ね。」
イングリッドはパンを頬張りながら、家を懐かしむような、そんな切ない顔をした母親を見つめる。そんな娘に気がついたのか、優しく微笑みかけて、イングリッドの頭を撫でた。
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