page.14 神聖暦449年 初夏〜冬(2)

 イングリッドはふと気になったので、

「おにいちゃんは何ていうおなまえなの。わたしはイングリッドよ。」

 と兵士に話しかけた。

「……。」

 兵士は少し困惑した顔をしている。見張り番の名前を聞くとは思っていなかったのだろう。イングリッドはきょとん、と小首をかしげてみせた。

「私はユーディトよ。」

 すると、ユーディトも自分の名前を名乗った。兵士は困ったように頭を掻き、しばらく考えた後、答えたが、

「――ユ、ユ、」

 うまく発音ができない。聞いたこともない発音だ。ユーディトも同様のようで、舌を噛んでいる。

 ――外国の人かしら。

 何度も発音する練習をしたが、なかなかできず、結局、

「ユオ」

 と一部の音を無理矢理、発音した略称で呼ぶことになった。兵士もさほど気にしていないようで、好きにしろ、とだけ伝えた。すると、同じく発音で苦戦していたユーディトも、ユオ、と呼ぶようになった。

 その日から、ユオが見張り番の役割をするようになった。前の兵士が辞めてしまったのか、ユオに押し付けたのかはわからないが、イングリッドはただ、ただ嬉しかった。

「ユオおにいちゃん、おはよう。」

「おはよう、ユオ。」

 イングリッドとユーディトは、(おそらく)朝に起きると、必ずユオに挨拶をした。ユオは返してはくれなかったが、嫌そうな顔はしなかった。

「あれ、スープだ。」

 何時もは付いてこないスープに気が付き、思わず声を上げる。

「これ、どうしたの。」

 心配そうな声でユーディトがユオに訊ねる。ユオは黙っていたが、恐らくくすねて来たのだろう。ユオの安全を考えると、止めさせるべきだったのだろうが、空腹に耐えかねて、二人ともありがたく頂戴することにした。

「ユオは本当に良い子ね。」

 ユーディトが微笑んでユオを褒めると、彼はいつも照れくさそうに、嬉しそうにした。

 ユオは、次第に、イングリッドやユーディトといると、少し穏やかな顔をするようになった。言葉数は少ないが、時折少し微笑んだような顔をすることもあった。

 彼が自分たちを好いていること、ユーディトに子供扱いされることを嫌がっていないことなど、子供ながらに感じ取っていた。

 ――考えてみれば、ユオおにいちゃんのおかあさまも生きていれば、私のおかあさまと同じくらいよね。

 ふと、そんなことを思い、もしかして、彼はイングリッドの母親に、自分の母親を重ねて、親切にしてくれているのではないかな、と考えた。

 かくいう、自分も、ユオを本当の兄のように慕い、甘えていた。ユオは時々、菓子をくすねてきたり、外から野良猫を連れてきたりした。その度にイングリッドを喜ばせた。

 表情に乏しいが、ユオは優しく、今日が何月何日なのか、今は何時頃なのか、今日はどのような天気なのか、外の様子はどのようであるのか、などを丁寧に教えてくれた。

 ――但し、ヴォルテンブルグとの交渉状況だけは教えてくれなかった。



「ん……。」

 イングリッドは薄っすらと目を開いた。相変わらず、日光の入らない、鉄格子の中である。ユオに聞いたとおりならば、もうそろそろ秋の季節だ。

 ゆっくりと身を起こし、目を擦りながら、横で眠っている母親を起こす。ユーディトも目を覚まし、おはよう、インガー、と言う。

「あれ。」

 牢の外を見ると、いるはずのユオの姿が見当たらない。

 ――え、まさか、交代かしら。

 ユオがそばからいなくなるかもしれないと思うと、焦燥感と、寂しさで、胸がいっぱいになる。

「あの子、いないわね……。」

 すると、ユオがいないことに、ユーディトも気がついたようで、小さく呟く。もしかして、色々とくすねていたことがばれて叱られたのではないか、と心配もしていた。

 すると、かんかんかん、と階段を急ぎ足で降りるような音が聞こえた。

「あ、ユオおにいちゃん。」

 汗をかき、息をきらせているユオが牢の前に来た。何故か、牢の錠を触っている。影になっていてよく見えないが、何かを抱えているようにも見えた。

「どうしたの、ユオ。」

 いつもと違う様子のユオを不思議に思い、ユーディトがユオの方を覗き込もうとする。

 がしゃん。

 という音がして、牢の扉があいた。

「へ。」

 イングリッドもユーディトも、驚きのあまりぽかんとする。しかし、有無を言わさず、ユオが牢の中に入ってくる。手に持っていた、二本の小刀と小さな布袋を地面に放る。

「これ、どうしたの。」 

 イングリッドの質問には答えず、ユオが二人の足元の方に膝をつく。

「え、え、なにしてるの、ユオおにいちゃん。」

 よく見ると、イングリッドの足についている足枷を握っている。がちゃがちゃという音がすると、

「え。」

 足枷が外れた。同じように、ユーディトの方の足枷も外す。そして、

「……ここを、出ます。」

 と一言だけ言い放つ。

「……っ。」

 ユオの一言に、頭が追いつかないでいた。

 ――出る。なんで。

 混乱しているイングリッドに対し、ユーディトは何か悟ったような顔をした。そして、

「……夫が、私達を見捨てたのですね。」

 と言った。ユオは少し複雑そうな顔をして、答えづらそうにしている。

 ――おとうさまが、わたしたちを捨てた……。

 唖然とした。確かに、なんとなく、自分は父親に嫌われている、という自覚はあった。父親の望むような、淑やかで大人しい娘ではない。しかし、母親まで見捨てるとは思っていなかった。

「……っ。はやく、気づかれる前に。」

 急かすように、ユオがユーディトの腕を掴む。しかし、ユーディトはその手を払った。

「……おかあさま。」

 何事かと茫然としてしまう。ユーディトは、諭すように、

「私は、足手まといです。」

 と厳しい口調で言い、

「もしお願いできるのであれば、、インガーだけを連れて行って頂戴。」

 と穏やかな笑顔でユオに告げる。

「……っ。おかあさまっ。」

 母親の突然の発言に、イングリッドは悲痛の声を上げる。ユオも、困惑した顔をしていた。

「……インガー。あなたは幼いのです。生きなさい。」

 ぶんぶんと横に頭を振り、イングリッドは拒否する。

「いや、いやよ。」

 ――そんなのはいやだ。おかあさまを置いていくなんて、できない。

 ユオも、ユーディトを置いていくのは反対のようで、何故、と珍しく声を荒らげて問うている。

「インガー、ユオ。私は走ることができません。もともと、体が強くないのです。」

「……っ。」

 涙が溢れ、嗚咽が漏れそうになる。ユオも悔しいのか、俯いている。そんな二人にユーディトは、

「だから、ね。」

 と優しく宥める。

 ユーディトの言いたいことは、頭では理解できていた。彼女は快活な質をしているが、病弱で、走り回ることができない。ユオはユーディトよりうんと小さくて、担ぐこともままならないであろう。

 ふと気がつくと、ユーディトがユオに何か耳打ちをしている。何を伝えているのかわからないが、ユオがやるせない、というような表情をしていた。そして、ユーディトがこちらを見て、

「どうか、健やかに生きて頂戴」

 と静かに告げた。

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