page.01 神聖暦457年 春(1-1)


 いいかい。これはお守りだよ。

 嫌なことや、恐ろしいことから君を守ってくれる、魔除けのお守り。

 これをあげるから、泣くのはおやめ。

 お母さんが安心して天国に行けるよう、笑顔で見送ってあげようね。


 懐かしい、優しい夢を見たような気がする。

 薄っすらと目を開くと、春の麗らかな朝日が、窓から射し込んでいるが見えた。庭木に咲いた花の花びらが、ひらひらと手元に落ちてくる。窓越しに留まっていた小鳥が囀るような音を立て、羽根を広げて空高く飛び立った。

 ぼんやりと胸元に手をやると、常日頃身に着けている、黒い石のペンダントがあることが確認できる。

「起きてくださいまし、お嬢様。」

 体を揺すられ、イングリッドは声がした方にゆっくりと首を傾けた。まだ目蓋が重たい。イングリットの向けた眼差しの先には、自分を覗き込む見慣れた乳母の姿があった。優しい母親のような笑顔をたたえている。まだ眠いと答え、寝返りをうち枕に顔を埋めると、乳母は容赦なく布団を捲り上げ、

「イングリッドお嬢様、朝でございますよ。」

 と声を張り上げてイングリッドを叩き起こし、夢の世界から引きずり出した。

「ふわああ……。おはよう、乳母。」

「ええ、遅ようございます、お嬢様。」

「……。」

 皮肉を効かせた乳母の朝の挨拶に、イングリッドは、ぷう、と可愛らしく頬を膨らませる。窓の外をよく見ると、既に太陽は天頂近く登っていた。

「悪かったわよ。昨日もつい遅くまで起きてしまって……。」

 ううん、と大きく伸びをしながら、イングリッドは寝台から降り、寝台横の水瓶で顔を洗う。寝衣から伸びたしなやかで少し日焼けした手脚は、貴族の令嬢にしては細く、程よく筋肉がついている。

 すると、乳母が横から声を差し込んだ。

「そういえば今朝方、旦那様がお戻りになりましたよ。」

 水気をタオルで拭きとっていた顔を思わず、勢い良く上げ、乳母の方に振り返る。

「えっ。お父さま、もう帰ってきたの。」

「ええ。変わらずお元気そうでしたよ。」

 乳母は有無を言わさず、イングリッドに服を被せる。勢いで乱れ、顔に張り付いた髪を払うべく、イングリッドは頭を左右に勢いよく振った。そのかたわら、手を止めることなく、乳母は手際よく背中の留め具を留めていく。

「……予定だと、あと一月は戻らないはずだったじゃない。」

「詳しいことは存じ上げませんが、予定を繰り上げたそうですよ。」

 はあ、と深い溜息をつき、イングリットは鏡台の前に腰掛ける。鏡には、亜麻色の髪に翡翠色の髪をした、十代半ば程の少女が映っている。その少しつり上がった眼尻から、気の強さが伺える。乳母はイングリッドの癖のない、艷やかで豊かな髪に丁寧に櫛を通す。

「どうせ、また決着が付かず、どうにもならないから帰ってきたのでしょう。お金と人材の無駄遣いよ。」

「まあ、お嬢様、お父上になんという口の利き方をなさるのですか。」

 父親を小馬鹿にするようなイングリッドの発言に乳母は顔を真っ青にする。しかし、イングリッドは気にすることなく続けた。

「だってそうでしょう。私が五つか六つのころから戦争をやっているというのに、未だに状況が全く変わらないだなんて。」

「まあ、お嬢様、旦那さまはいつも善戦なさっておいでですよ。」

 必死に父親に助け船を出そうとする乳母。イングリッドは再び大きく溜息を付く。

「ただ無計画にお金を溝に捨てているだけよ。泥沼までの散歩に付き合わされる兵士たちが気の毒だわ。」


 神聖歴四五七年。この国は現在、王家の後継者争いの真っ只中である。まだ幼い第一王子を擁立する一派と、王弟を擁立する一派が覇権を競い合っているのである。そしてイングリッドは、前者の筆頭であるヴォルテンブルグ家の二番目の娘であった。


「……こうはしていられないわ。今日という今日こそは納得させないと。」

 鏡台の前から勢い良く立ち上がり、ずんずんと窓際にある机の方に歩く。机に置いておいた、束ねた大量の紙をぐいっと掴んだ。

「お嬢様。またそのようなことをなさって。」

「本当は戦地まで誰かに送ってもらうか、自分で赴くつもりだったけれど、丁度良いわ。直接お父さまに渡してくる。」

 お待ちくださいと言い、扉のまえで両手を広げ、乳母は必死にイングリッドを食い止める。そこをどいて頂戴、と懇願するも、頑としてその場から離れない。

「お嬢様、女が戦に口を出すなんて、端のうございますよ。」

「ちょっと武具の開発に関する提案をしに行くだけじゃない。」

 乳母は同じことでございます、と声をかけ、必死にイングリッドの説得を試みている。乳母を突き飛ばすわけにも行かず、イングリッドは手をこまねいた。そして紙の束、即ち提案書類で塞がっていない方の手で、胸元にあるペンダントにそっと触れる。

 彼女は幼少の頃より、うんと年上の令嬢たちはおろか、令息たちよりずっと賢かった。十も年の離れた長兄の勉学に付いて行くだけでなく、書庫に置かれている難しい学術書を一人で読み、理解することができた。既に書庫の本は半分以上を読み終え、頭の中に叩き込んでいる。学者や家庭教師たちが舌を巻くほどである。

 しかし学問を女のイングリッドが身につけることに関して、彼女の父、フリードリヒは常に苦言を呈していた。イングリッドは気に留めないようにしていた。

 そして、何年もの間、変化のないこの政権争いに対し、イングリッドは問題があると感じた。この膠着状態を打開する方法を自分なりに検討してみては、父親に提案を試みた。しかし父親は娘の話に聞く耳を持つことなく、女が出る幕ではない、と一蹴した。

「このまま、ただ、湯水のように税金を戦費にあてるだなんて、どうかしてるわ。領民たちや兵士たちを無駄死にさせてしまうだけよ。」

「お嬢様……。」

 哀れに感じた乳母は、扉のまえで開いていた両の腕を下ろす。乳母は赤子の頃からイングリッドの世話をしてきた。同じ年頃の令嬢たちと茶を嗜み、美味しい菓子や綺麗な装飾品の話題で花を咲かせるよりも、学術書を読み、学問に関して論じ、外を駆け回るのを好むイングリッドに対して何度も、男に生まれていればどんなに良かったでしょうか、と考えたものだ。

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