page.02 神聖暦457年 春(1-2)

 イングリッドも頭では理解していた。おそらく今回もいつもの通り、娘が書いた提案書に目を通すことなく返されるだろう。しかし、だからと言ってじっとしていられる性分ではなかった。彼女の聡明さが、このままでは勝利したとしても領土が疲弊してしまう、という考えに至らせてしまい、尚更引くわけにはいかなかった。


「あら。」

 ふと、驚いたような声音で、乳母が声を上げた直後、

「落ち着いて、インガー。」

 と落ち着いた青年の声が聞こえた。

「……っ。ルノー!」

「まあまあ、もういらしたのね、ラインハルト様。」

 乳母とイングリッドは同時に彼の名を呼んだ。

 イングリットの使う「ルノー」という愛称は小さな頃の暗号遊びによる読み替え書き換えの結果付いた愛称である――扉を少し開けて、深い栗色の髪をした青年ラインハルトが、髪と同じ色の瞳に優しい笑みを浮かべている。部屋の中に入ってもいいかい、と穏やかな声音でイングリッドに訊ねた。

「ルノー、どうしたの。予定より早いじゃない。」

 ラインハルトの腕を引き寄せ、自分の部屋へと招き入れる。ラインハルトはヴォルテンブルグ家と旧知の上爵の家の血筋であり、イングリッドの婚約者だ。天真爛漫なイングリッドとは異なり、穏やかな質で、齢はイングリッドより三つほど上だ。

「君にいい知らせを持ってきてね。」

「なにかしら。」

 思い当たる節が無く、きょとんと首を傾げて不思議そうな顔をする、愛らしい婚約者の頭を、ラインハルトは優しく撫でる。

「君の提案が、通ったんだ。」

 紅茶を用意していた乳母が、驚きのあまり、茶器を思わず床に落としてしまう。

「えっ。嘘。」

「本当だよ。」

 まあまあ、と乳母が感激の涙を浮かべている。イングリッドは頭が追いつかず、やや混乱していた。

「え、だって、私の提案書をお父さま、いつも屑籠に捨てていたわ。」

「ごめんね、それをこっそり回収しておいたんだ。」

 ラインハルトは申し訳無さそうに手を合わせる。

「それで、ツェーザル義兄さんに相談したんだ。イングリッドの案について。」

 イングリッドは驚きのあまり、あんぐりと口を開けたまま。

 ラインハルトは、イングリッドの次兄ツェーザルと共に、捨てられたイングリッドの提案書を父フリードリヒのもとに何度も持っていっていたそうだ。そして、ツェーザルがイングリッドの案のうち、二つは見込みがあると説得したようだ。

「やっぱり、初めは全然聞き入れてくださらなくてね。」

 それはそうだろう。女の意見だからとずっと足蹴にしてきたのだ。

「でも、ツェーザル義兄さんが、必死に説得してくださって。」

 イングリッドの次兄は、愚鈍な長兄と異なり、状況を見極めるのに長けていた。父親や長兄が不在がちのこの屋敷の管理を、今の彼女と同じくらいの歳から任されている。使用人たちからは勿論、父親からの信頼も厚い。

「……っ。ありがとう、ルノー、ツェーザルお兄さま。」

 嬉しさのあまり、ラインハルトに抱きつく。ラインハルトは照れくさそうに頬を掻く。

「……でもね。条件があって。」

「うん。」

 ラインハルトから身を離し、イングリッドは真っ直ぐと彼の方を見る。何を言い出されるのかと緊張した面持ちで、ぎゅっと首から下げたペンダントを握った。

 そんな彼女の前に、ラインハルトは指を三本立てて見せる。

「お義父さまが提示なさった条件は大きく三つだよ。」

 一つ、納期は最長、今年の冬の頭まで。それ迄に成果を出せなかった場合、この話は打ち切ることになる。

 二つ、開発したものはこちらで用意した数人の兵士に試用させること。兵士たちから不評だった場合も、この話は打ち切ることになる。

 三つ、予算はこちらが用意した範囲内とする。これ以上の支援はしない。

「……なんだ、当たり前のことじゃない。」

「はは、そうだね。」

 イングリッドはペンダントから手を緩め、今度はぐっと拳を握る。

「良いわ。受けて立とうじゃない。そしてさっさとこの戦争を終わらせましょう。」

 にいっと歯を見せてイングリッドは笑った。

 そして、父のもとに行くべく、颯爽と部屋を飛び出した。



「実験部隊創設って。うちの二番目のお嬢様は中々に突拍子もないこと言い出すもんだなあ。」

 ヴォルテンブルグの、屋敷の一室。

 屋敷の主人から、次女のイングリッドの手伝いをするように命じられた数人の兵士たちは、そのイングリッドが来るのを待っていた。

 実践訓練時にはもう少し人数が増えるとのことだが、それでも用意された人数は少ない。傭兵が四十五名(歩兵が四十五人、弓歩兵が一人)、騎兵が二人、合計四十七人である。よほど期待していないのであろう。この国では、傭兵は平民出身の兵士をさすので、四十八人のうち、四十六人は爵族でも騎士族でもない、平民ということになる。残りの二人の騎兵も、下級騎士にあたる。切り捨てても問題ない、というヴォルテンブルグ当主の考えがありありとわかる。

「お嬢様のお遊びでしょう、どうせ。」

「女に戦争はわかりゃしないよ。」

「お貴族様は気まぐれも規模が違うなあ。」

「おままごとに傭兵や騎兵が雇えるなんて、すげえよなあ。」

 口々に兵士たちが感想を述べる。

「まあ、いいじゃないよ。暫く戦地に出ないで金が貰えるんだからよ。」

 その中でも、群を抜き背の高い兵士、ヴェルナーが肩をすくめて見せる。ヴェルナーの意見に対して、他の兵士たちは次々とそれもそうだか、と言いながら腹を抱え嘲笑う。

 ヴェルナーはニ名の騎士族のうちの一人であり、ヴォルテンブルグで騎兵として仕えて、ニ十数年の時が経つ。作戦会議に乱入するほどの跳ねっ返り娘がいると噂には聞いていたが、直接顔を見るのは初めてである。

「……ん?」

 兵士たちが主人の娘を小馬鹿にしている中、ただ一人、嘲笑せずに黙っている兵士にヴェルナーは目を留める。ただ静かに腕を組んで小窓のそばの壁に寄りかかっている。外を眺めているのか、窓の方を見ている。珍しい白銀の髪をしており、小柄な体躯をしているのはわかるが、顔は髪で隠れているため、年齢はわからない。身なりからして、傭兵であろう。

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