第28話 誰でも一度は経験するものってなんだ?

 唇に伝わる柔らかな感触に、脳が蕩けていく。

 なにが起こっているのか理解しているのに理解できず、俺はただただされるがままになっていた。

 俺が驚くのは当然だ。

 だがなぜかオリヴィアさんも驚いたように俺を見ていた。

 正確には見えていないが。

 いや、そんなことはどうでもいい。


 なんでキス!?

 何してるのオリヴィアさん!?

 意味がわからない。いや、理解しようとしても頭が回らない。

 時が停まったかのようにお互いに動けない。

 オリヴィアさんの顔が徐々に赤く染まっていく。

 真っ白な肌なためか、ほんの少し色を変えるだけでも目立つ。

 オリヴィアさんが緩慢に顔を離した。

 その瞬間、ちゅっという音が響き、互いの顔が一瞬にして紅潮する。

 恥ずかしいにもほどがある。

 なんだこれ、なんなんだ!?


「い、いい、い、い、今のは?」

「…………事故です。額に口づけをしようとしただけで」


 なるほど。思い返せばそうしようとしていたように思える。

 俺が勢いよく顔を上げたせいで口と口でキスしてしまったらしい。

 じゃあ俺のせいじゃないか!

 謝らないと!

 そう思うのに、目の前で恥ずかしそうに俯いて、唇を小さくもごもごと動かすオリヴィアさんを見ると何も言えなくなった。

 普段はクールなのに、こんなにも少女然とした姿を見せてこられては何も言えない。

 胸が苦しい。ドキドキなんてレベルじゃない。

 もう締め付けられている。

 このまま握りつぶされてしまうんじゃないかと思うくらいだった。


「ちょ、ちょっと待ちなさいよ! な、なな、なんでキスしたの今!?」


 茂みから飛び出してきたのはエミリアさんだった。

 俺とオリヴィアさんは咄嗟に身構えることもできず、なぜか互いに寄り添い、手を繋いでしまう。

 剣士の反応としては最低最悪だ。

 現れたのが敵だったらやられていたかもしれない。

 だがそんなこともできないくらいに、俺たちは動揺していたのだ。


「エ、エミリアさん!? なんでここに?」

「そんなのどうだっていいじゃない! あなたたち、修行してるとか言って、二人でイチャイチャしていたのね!?」

「ち、違います。わ、私たちはちゃんと修行を」


 まるで浮気をする旦那を尾行し、浮気女との逢瀬を見つけた妻が追求するかの如く、エミリアさんは信じられないとばかりに激高していた。

 なんだこれ、どういう状況?

 パニックだ。最早何がなんだかわからない。

 その上、さらにもう一つ爆弾が投下された。


「う、う、うわあああああん! リッドの浮気者ぉぉっ!!」


 茂みから現れるはロゼ。

 彼女は頬を涙で濡らし、とぼとぼと歩いてきていた。

 エミリアさんとロゼは、どうやら俺たちの修行風景を覗き見していたらしい。

 俺たちに気配を感じさせないとは、なんと恐ろしい。

 閑話休題。

 ともかく、誤解を解かないと。

 いやなんで俺が弁解する必要があるんだよ!

 二人は友達だし、誰とも付き合っていないのに!

 これゲームの中の話だよね?

 こんなイベントあった?

 いつギャルゲになったの、カオスソードという死にゲーは。

 もうわけがわからないが、とにかくどうにかしないと。

 そう思った瞬間、オリヴィアさんが一歩前に踏み出した。


「誤解です。今のは事故ですよ。私はリッドの額にキスをしようとしただけです」

「し、しようとしてたんだ! やっぱりしようとしてたんだ! うわああああん! リッドはやっぱりお姉さんでおっぱい大きい人が好きなんだ。あたしがまだ子供で小さいから、だから触ってくれないんだ……」

「ちょっと、しっかりしなさいロゼ! ここで戦わないとリッドを取られちゃうわよ!」


 泣くロゼ、怒り心頭に発するエミリアさん。

 対してオリヴィアさんは冷静そのものだった。

 さっきまでの動揺した姿はそこにはなかった。

 彼女の後ろ姿しか見えないが、耳は白いまま。

 つまり恥ずかしがっている様子はないということだ。

 うん? あれ?

 ってことはもしかして、オリヴィアさんって今まで何度か見せた恥ずかしそうな姿は、俺に対してのものだったのか?

 いやそりゃ、恥ずかしいから耳とか頬とか赤くしてるのかなとは思ったけど、それは失敗したせいとか、自分を客観視したための羞恥とかじゃなく、単純に異性の前で恥ずかしがるアレだったってこと?

 いやいやまさかね。そんなことあるわけないよね。

 だってあのオリヴィアさんだぞ?

 確かに恥ずかしそうにしている姿は何度か見せてくれたけどさ。

 俺を異性として見ていて、それでドキドキして恥ずかしくなっているわけじゃないよな。

 自意識過剰は格好悪いぞ、俺。


「師匠として、弟子の成長を喜び、その愛情を伝えるためのものです。そこに邪な感情はありません。純粋な、慈しむ思いだけです」


 おお、さすが師匠たるオリヴィアさん。

 彼女の言葉を聞くとエミリアさんは苦虫を潰したような顔をし、ロゼは少しずつ泣き止む。

 なんとかなりそうだ。

 俺はほっと胸をなでおろした。

 が。


「嘘ね」


 エミリアさんはまだ怪訝そうにしている。

 いや、確信めいた疑念を持っていると言っていいだろう。

 もう完全に浮気女を詰める本妻のような図になっている。


「……嘘ではありません」

「だったらどうしてそんなに顔が赤いのかしら!?」


 え? 顔が赤いの?

 俺は無意識の内に、オリヴィアさんの横顔を覗き込んだ。

 ……ほっぺたが赤い。

 真っ赤というほどではないが確実に赤かった。


「あなたリッドのことが好きなのね!?」

「……そんなことはありません。確かに弟子として愛情はありますが、異性としては見ておりませんので」

「かかったわね! わたしは別に恋愛感情があるのかと聞いたわけじゃないわ! ただ好きなのかって聞いただけ! それなのに、あなたは真っ先に否定から入った! つまり、恋愛感情があるのを誤魔化すために否定したのよ!」

「それはあなたが真っ先にそう疑っていると気づいたからです。私がどう思っているかは返答に関係ありません」

「だったらなんで顔が赤いのよ! 弟子とキスして恥ずかしがる必要があるの!? 絶対、リッドのこと好きじゃない!」


 ビシッとオリヴィアさんを指さすエミリアさん。

 全員がオリヴィアさんの次の言葉を待っていた。

 僅かな戸惑いがそこにはあった。

 オリヴィアさんが何かを言おうとしている。

 だが間違いなく迷っている。

 まさか、本当に?

 オリヴィアさんは俺のことを?

 そして、オリヴィアさんが小ぶりな口を緩慢に開いた。


「は、初めて……だったからです……」


 思考が一瞬だけ停止した。

 …………は?

 初めて、だった、だと?

 恥ずかしがりながら、眉を八の字にして俯き、顔を紅潮させるオリヴィアさん。

 それをエミリアさんとロゼが、呆然としながら見ている。

 俺も同じだった。

 つまりあれだ。

 オリヴィアさんは男性経験が、その……。


「あーー……そういう、ね……」

「ん? あ……そ、そっか」


 エミリアさんが気まずくし、ロゼがちょっと考えた後、目を見開いて事実に気づく。

 そしてオリヴィアさんはというと、顔全部を真っ赤にして、頭から湯気を出していた。

 比喩じゃなく、本当に出ていた。

 よっぽど恥ずかしかったのだろう。

 こんな姿を見るのは初めてだった。ゲームでも、現実でも。


「……なんか悪かったわね。帰りましょう、ロゼ」

「え? え? で、でも……うん。じゃあ、またね、リッド」


 エミリアさんとロゼは気まずそうにしながら帰っていった。

 そして残された俺とオリヴィアさん。

 気まずいなんてもんじゃない。

 場を乱すだけ乱して放置するんじゃないよ!

 俺ははらはらとしながら、オリヴィアさんの顔を見た。

 彼女は大きな胸を逸らし、大きく深呼吸をしていた。

 すー、はー、すー、はーと何度も呼吸をし、そして姿勢を正す。

 赤かった顔はほぼ正常に戻り、感情が薄れたような表情に戻っている。

 しかし先ほどまでの姿が目に焼き付き、俺は複雑な心境だった。

 無理してんだなって思っちゃう自分がいたのだ。


「……あなたなら、きっと私を超えることができるでしょう」


 あ、そこからやり直すんだ。

 なんてことは言わず、俺は素直に頷いた。

 だってオリヴィアさんの声が震えてるんだもの。

 何も言えないじゃないか。


「では、リッド。またどこかで会いましょう」


 オリヴィアさんは俺に背を向け、ゆっくりと歩きだす。

 俺は何も言えずその小さな背中を見守っていた。

 と、オリヴィアさんが足を止める。

 そしてすぐに全速力でダッシュし、一瞬でいなくなってしまった。


「……よっぽど恥ずかしかったんだな」


 俺は一生忘れないだろう。

 オリヴィアさんが俺に教えくれた戦い方を。

 オリヴィアさんの去り際の愛らしい姿を。

 オリヴィアさんの照れた顔を。

 そしてオリヴィアさんの唇の感触を。

 転生前の甘酸っぱい日々を思い出す。

 へっ、青春してやがるぜ、リッドくんはよ。

 なんて茶化しながら、自分の体温が高いことに、俺は気づかない振りを続けた。

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