後編『猫田寅之助の支払い』
猫田寅之助は国内外を問わず、数々のビル、ホテル、美術館、博物館などを設計してきたカリスマ設計士である。個性的で奇抜な外観、しかしその設計思想はあくまで日本家屋の伝統に基づいており、さらに人々の生活に寄りそう温かみのある建築を持ち味としていた。
極端に人付き合いを嫌う孤高の人物として知られ、他人に厳しく自分にはさらに厳しく、という老人である。さらに異色なのは彼の才能が開花したのはここ十年ばかりという事実。それまでの彼はとある建築会社でアパートしか設計したことがなく、そんなところがまた謎めいて伝説的な人物と評されるゆえんである。
「はぁぁ、それにしても猫田さんかぁ……」
トリタテ場所は猫田寅之助が自ら設計したネコタノビル、その最上階にあるプライベートオフィスである。
ドアベルを鳴らす前に液体の胃薬を一息に流し込む。錠剤では効き目が遅すぎて対応できないからだ。うん。すこし胃の痛みが和らいだ。
それから大きく息を吸い込み、ドアベルを鳴らす。
チリリンと軽い音がすると同時にそのドアが開かれた。
「もう来たのか。まぁ入りたまえ」
「ハイ。では失礼いたします」
最上階のこの部屋は壁面がすべて一枚ガラス張りになっている。眼下に霞が関を一望する景観は圧倒的に美しく、室内に並んでいる家具はどれもおしゃれな一級品ばかりだ。あまりにゴージャスすぎて、身の置き場のない部屋でもある。
「ユー、まずは着替えておいで。衣装は用意してある」
「ハイ。やっぱりアレやらなきゃだめなんですね」
まぁ覚悟はしてきたけれど……
「今のうちに顎を慣らしておくといい」
「わかってます、練習してきましたからね」
「それは楽しみだ、実に実に楽しみだよ」
不敵に笑う猫田老人に、こちらはますます胃が締め付けられる。
そして言われるがままに用意していた衣装に着替えて部屋に戻る。
室内はカーテンが引かれてすでに真っ暗だった。と、天井のスピーカーからドラム&ペースの重低音が大音量でなりだす。この音がまた胃に響く。そしてどこから現れたのかミラーボールが天井で回りだし、レーザーの光が光線銃のように部屋のあちこちを貫いてゆく。部屋は怪しいディスコ空間へと変貌していた。
その暗闇から染み出すように猫田老人の声が聞こえてきた。
「ヨーヨーヨーヨー、今日も始める、オレらのバトゥ(バトル)、オマエのパトゥ(たぶんパトス)を見せてみろ、イェー!」
……というように、誰も知らないことなのだが、猫田さんどういうわけかラップ好きなのである。わたしはこういう音楽を好まないので、どこがいいのかさっぱり分からないのだが、これもまた仕事の内だった。
ちなみに着替えはだふだぶのジーンズとおびただしい金のアクセサリー。まさにラッパーっぽい衣装だ。もちろん猫田爺さんも同様にきめている。そしてマイクをわたしに寄越し、自分は胸の前で両手を組んだ。
とうことでわたしのターンだ……胃が痛いけどやらなくちゃ。
「チェックチェックチェック、お前のラップじゃダサくていけねぇ、お前のシップは臭くていけねぇ、甘いラップはシャーラップ!」
わたしのちょっと攻撃的なフレーズに方眉を上げて驚く猫田老人。しかしにやりと笑って反撃を開始する。まぁこんな感じのラップでいいんだけど、とにかく即興で韻を踏むのが難しいのだ。今度は猫田老人にマイクを返す。
「ホーホーホー、おまえの吐き出すリリック最悪、ネコタの生み出すギミック最高、ヤングなお前にゃ経験たりない、ギャングなオレには全然勝てない、フォウ!」
「ヘイヘイヘイ、入れ歯飛ばすなギャングスター、乗れば都バスのチャンス来たー、高齢者なら乗り放題、交霊術なら呼び放題、高麗人参飲み放題、ファイっ!」
「オーマイガッ、老人いたわれ成人イェー、法人いたぶる税金イェー、ジジイのハートが震えるビート、おまえのソウルをコールする、トリタテ来たなら、見せてみろ、ユーのラップで魅せてみろ、ヤァ!」
猫田さん、かなりカッコいい感じで揃えてきた。返すラップがまた難しい。もうこれはアレだ、ダジャレだ。とにかくダジャレで押し通すしかない!
「ヤァヤァヤァ、年金あるのは知ってんだ、年季入ってやってんだ、オールドメンにはコールド麺、オレの語彙力枯渇なし、しかし財力枯渇ナウ。返せ借金、為替差損」
思ったけど限界だ。なんだ為替差損って?
しかし猫田さんはニンマリと不敵に微笑む。そのほほえみの裏でものすごく言葉がグルグル回っているに違いない。
「ヨーヨーヨー、息が上がって、ネタキレて、熱いバトルはこれから佳境、熱海のバイトはこれまでカテキョー……」
そこまで言いかけたところで、フッと途切れた。
「……いや、ゴメン。これはさすがに意味わかんないな」
とマイクのスイッチを切った。同時に腕時計の端末を操作して音楽も止めた。
「ふぅ、今回もなかなか激しいバトルになったな」
「ですね。自分の語彙力のなさを痛感しますよ」
わたしもマイクを返し、ちょっとソファーに座らせてもらう。
「今回は私の負けだ。ユーのリリック最高だったぜ、イェー。約束の三か月分、すぐ振り込むよ」
そういって携帯電話を取り出し、なにやらピピっと操作する。
ピロンと音が聞こえてきたが、たぶん振り込みが完了したのだろう。
なんとも軽薄な老人ではあるけれど、こういうところは信頼して大丈夫だ。
「助かります」
「それにしてもアレだな、ラップってのはダジャレをいかにかっこよく
リズムに乗せて伝えるかだなぁ」
「あー、それ言っちゃ駄目ですよ。ラップファンに殺されますよ」
「でもねぇ、こういう形にでもしないと、もうおやじギャグを披露する機会もなくってね」
「わたしは結構好きですけどね、おやじギャグ」
「そういってくれるのはユーくらいのものさ。今じゃなんとかハラスメントって言われてすぐ厄介ごとになるからね」
「そんなことあるんですか?」
「あるよ。最初の秘書がそうだった。つまんない冗談を聞かされて笑うように強制された、って訴えられて負けたよ。パワハラなんだとさ。いくつかは本当に受けてたと思うんだけど残念ながら確かめられなかったな」
「面倒な時代になりましたよね」
「ああ。誰しも清廉潔白には生きられないってのにな」
「ところで、一つ聞いてもいいですか?」
「ああ。ユーになら何でも答えてあげよう」
「あなたが急に才能を発揮できるようになったのはなぜなんですか? なにかきっかけがあったんですか?」
「いきなりな質問だな。まぁ、デスだな。死を見た。明日がくる保証がないことに気づいた。このまま何もできずに死ぬのが怖いと思った。わたしの仕事は設計だったけど、趣味も設計だったんだ。何年も何年も建築模型を作ってた。自分の理想を詰め込んだ建築模型をね。でもそれが実現できる可能性はゼロだった。私に任されていたのはとにかく安上がりなアパートの設計だけだったんだ」
猫田さんがあまりに急に真剣に話し出したので、ちょっと驚いた。でもわたしが聞きたいのはまさにそういう話だった。
「不幸だけど、素敵な話ですね」
「ああ。そういうものは表裏をなしているものさ。よく見極めることが大事だ。そして片方の面だけにとらわれないことだ」
猫田老人はそう言って茶目っ気たっぷりにウインクして見せた。
「まあユーにもいずれ分かるよ、そうそう、コレで帰りになにか美味しいものでも食べて帰るといい」
そう言って内ポケットから封筒のようなものを取り出した。
いや、まさか受け取れませんよ、という言葉を用意しつつもつい手が出る。猫田さんはなんといっても超がつくお金持ちなのだ。
その手にハシッと乗せられたものは……
「って、これ箸じゃないですか! ベタベタですよ」
「でもこういうのが好きなんだよねぇ」
「世間じゃこういうの老害っていうんですよ」
「ああ、そうかい」
最後までダジャレで〆やがった!
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