五人目『威厳はあるが軽薄な爺さん』
前編『猫田寅之助の場合』
「人間は誰しも平等に歳をとってゆく……それは仕方のないこと」
今日のミスティさんはちょっと昔風の青いレオタードを着ている。さらに腰には鮮やかな黄色い布を巻きつけている。なにか既視感を覚える。
「……でもね、歳をとることでしか得られないものもあるわ。たとえば人生経験。たくさんの経験を積むことで、知識はもちろん、他人を理解したり、やさしさや寛容さを身に着けてゆくことができる」
そう言いながら、巨大スライムみたいなバランスボールの上に立とうとしている。話なんかしてないで、もっと集中した方がいいと思うのだが、わたしは言い出すタイミングをすでになくしていた。
と、危なっかしく揺れていた両手がスッと水平に止まった。くらくらしていた両足もピタリと止まっている。そして自身たっぷりに腕を組み、ちょっと鼻の穴を膨らませて、わたしを見下ろしてきた。
「……でもそれは理想。むしろ歳をとることで、わがままになったり、威張ってみたり、自分の意見を押し付けたり、かえって手が付けられない老人もたくさん」
たしかに言うとおりだ。優しい老人がいる一方で『老害』をまき散らす者もいる。
「大事なのはバランス。自分の意見は大事、でも他人の意見も大事、経験があるからこそのバランスの取れた視線が求められるのよ」
(そうか、今日はあの人の集金日ってわけか)
今日の回収人は『猫田寅之助』。御年八十歳のご老人。建築士として業界はもちろん一般的にも名前の知れた有名人。黙っていればなかなかに威厳があるのだが、口を開くとどうも軽さが目立つ人物なのだ。
そう意味では絶妙なバランスのある人物ともいえるのだが、
「今日は猫田さんの集金なんですね」
「そう。猫田さんよ。ちゃんと準備はできてる?」
「ええ。なんとなくですけど」
「忘れないで。バランスよ」
と言ったところでミスティさんがぐらりとバランスを崩した。あっという間に体が横に倒れ、バランスボールで弾み、まともにわたしのほうに跳ね返ってきた。
ほら。言わんこっちゃない! いや、何も言ってなかったか。ミスティさんはそのままダイブするような格好でわたしに飛んできて、わたしはなんとか抱きとめたものの、そのまま押し倒されるようにして二人とも床の上に倒れてしまった。
「あ痛たたた」
目の前にミスティさんの顔があった。長いまつげ、白い肌、ふっくらとした優し気な口元、優しそうだけど鋭い眼光。ミスティさんはとても魅力的な女性だ。
「あなた、今、幸せ?」
この態勢のことだろうか? でもたぶん違うだろう。ミスティさんは未亡人だけど、わたしに男性としての興味があるようには思えなかった。年も結構離れているし、あくまで雇い主と従業員でしかない。
「はい。こうして仕事もあって、たくさんの方と知り合えて、幸せです」
それは本心だった。毎度憂鬱を引きずってはいるが、この仕事は嫌ではなかった。まぁ癖のある人は多いけれど、みんな優しいし、わたしを頭から拒絶するような人はいなかった。
もっともわたしが殺人者の息子だということを知らないせいだろうが。
「そ。ならよかった!」
ミスティさんはにっこりと笑って立ち上がり、わたしに手を伸ばしてくれた。それをつかみ、わたしはちょっと弾みをつけて起き上がる。ミスティさんの笑顔を見ていると本当に安心する。この人の下で働けて本当に幸せだと思える。
(それでもいつかは本当のことを言わないといけないんだろうな……)
「じゃ、行ってらっしゃい。回収、期待してるわよっ!」
「はい。頑張ります」
かくしてわたしは憂鬱をずるずると引きずりながら、今日も顧客のもとに足を運ぶのだった。
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