幕間

『過去・雨の水曜日』

 その日は水曜日だった。

 朝から雨が降っていた。

 それだけは覚えている。


   ☔


 駅から歩いて5分。

 商店街から少し外れた雑居ビルの2階。

『五つ菱ファイナンス&ローン』の凪浜支店。

 そこがわたしの職場だった。


 この会社では、大手銀行の審査に通らない、または間に合わない、事情があって他人に知られたくない、そんな人を多く顧客にしていた。

 特に法外な利息を取るわけでなく、取り立てに怖い人を使うわけでもなく、この業界にあっては健全な企業だったと思う。


 あの時店内にいたのは、なじみのお客さんばかり。

 柱間さんはお子さんが生まれたばかり。女優の黒井さんはいつものように変装用の大ぶりのサングラスをかけて。あとは古本屋さんのお兄さんも来ていたな。ランドセルの女の子を連れたお母さんは、阿佐美屋さん、シングルマザーは大変だ。

 誰も少額の債務者で、支払も問題のない、会社にとって大事なお客さんたち。


「今日も平和だねぇ」

 声をかけてきたのは職場の先輩にして婚約者でもある霧中きりなか課長。のんびりした感じの人で真面目で誠実。スーツ姿がなんとなくだらしなく見えてしまうちょっと残念な人。ちなみに五歳年上。その課長が頭に手を組み、背もたれを後ろに倒して話しかけてきた。


「ですねぇ。雨が降ってなきゃ、なおいいんですけどね」

「そうかい? オレは雨の日って好きだなぁ。なんか世界が灰色になってさ、いろんな雑音を雨が流してくれる気がする」

「詩人ですね、課長」


 霧中課長は実際、詩人のような人だった。一般世間とはちょっと違ったところにいる感じ。以前、どうしてこの仕事を選んだのかを聞いたことがある。その時もやっぱり背もたれに寄りかかって、ぼんやりと天井を見上げながらこう答えた。


『お金ってのはさ、本来人を幸せにするだと思うんだよね。お金を稼ぐこと、お金を使うこと、どちらも楽しいものであるべきだと思うんだ。まぁオレはお金に苦労したことないからさ、甘いこと言ってると思われるだろうけどさ、でもここに来ている人たちに、そんな楽しい気持ちを分けてあげられないかと思ったんだ』


 そういう思いが伝わるのか、この職場にはスタッフにもお客さんにも優しい空気がいつも流れていた。


「ところで、今日のランチはどうする?」

「そうですねぇ、ラーメンはどうです? 課長好みのいい店見つけたんですよ」

「いいね、それいこう!」


 そしてもうすぐランチタイムを迎えるころ、両手にぼろぼろの紙袋を下げた、びしょぬれの男が一人店に入ってきた。ひげが伸び、髪はぼさぼさ、着ている服はスーツだったが、よれよれになっていた。男はカウンターから整理券を取り、待合室の椅子にどっかりと腰掛けた。


 明らかに様子がおかしい。目を伏せているが、おびえたようにあたりをチラチラとみている。

 とりあえず受付をするべく立ち上がったところ、霧中課長にそっと手で制された。


「オレが行く」


 それから課長がカウンターに男を呼び出して話を始めた。


「どうしても今日中に50万必要なんだ」と男。

「承知しました。本日はなにか身分証になるものをお持ちですか?」

「ねえよ、なきゃダメなのかよ!」

「ハイ、これは会社の規則でして。それにどこのローン会社に行っても同じですよ、どこの誰かも分からない人にお金の貸出できませんからね」


 課長はいつも通りの丁寧で優しい説得をしている。たいていはこの接客で無理難題は諦めるものだ。だがこの男は違った。理屈が通るタイプではなかった。それかそういう精神状態だったか……


「ふざけやがって! どいつもこいつもバカにしやがって! 規則なんかどうでもいいから貸せって言ってんだよ!」

「落ち着いてください、お客様。まずはどういう事情か説明してください。なにか力になれるかもしれません」

「へらへら笑ってんな! ムカつく野郎だな!」


 男はすっかり興奮していた。

 そしてかがみこむと、紙袋に手を突っ込みペットボトルをとりだした。そしてカウンターから離れながら、中の液体をばしゃばしゃとあたりに振りまいた。

 すぐに鼻をついてきたのはガソリンの匂いだった。あっというまに目も痛くなってくる。そして男は入口まで後退したところで、後ろ手にかちゃりと鍵をかけた。


「脅しじゃねぇぞ! ガソリンだからな。貸せねぇってんなら火ィつけてやる!」


(店の奥にお客さんを誘導してくれ……それと窓も開けるんだ)


 いつものように落ち着いた口調で霧中課長がささやく。無言でうなずき、お客さんにパニックが広がる前に、手で合図して店の奥に避難誘導する。


「おいっ何やってんだ! 誰が動いていいって言ってんだよ!」


 男は今度は大きなナイフを取り出した。そのまま、お客さんの方によろよろと向かってくる。その進路をさりげなく塞いだのはやはり霧中課長だった。


「ちょっと落ち着いてください。そういう事なら、今はとにかくお金をご用意します。警察にも通報しません。誰もケガさせたくないんです。どうかご理解くだ……」


 その言葉は途中で途切れた。

 男の手に持ったナイフが課長の胸にスルリと滑り込んでいた。


「だからバカにすんなって言ってんだろ!」


 男はナイフを引き抜くと、喚いた。


「オンナ! てめぇが余計なコトしてっからだ!」


 男はわたしに向かって喚いた。ユラユラと揺れる眼球に正気の光はもはやなかった。殺される? たぶんそうだろう。だがそれ以上にあたしの視界は怒りで真っ赤に染まっていた。課長が……霧中課長が……なんにも悪いことなんてしてないのに!


「てめぇこそふざけんなっ!」


 わたしは気づくと喚いていた。喚いてカウンターを乗り越え、こぶしを固めた。喧嘩なんかしたことないし、人を傷つけたことだってない。それでもそうせずにはいられなかった。たとえ殺されることになったとしてもだ。


「このアマ、ぶっ殺してやる!」


 そう言って男がナイフを逆手にビュッと振り上げた。

 その刃先から飛び散った血は、霧中課長から流れた血だった。

 と、その手首がガシっとつかまれた。

 どれだけの力が加わったのか、思わず男がナイフを手放した。

 それはもちろん課長だった。そして課長は落ちてきたナイフを空中でつかみ取り、あまりにもあっさりと男の腹に刺し、グイッとねじった。


「ごめんね、でもこうするしかないんだ」


 その言葉は男に向けられたものだった。

 男がよろよろと後じさり、口からごぽっと血を吐き、壁にズルズルともたれるようにして横たわった。

 同時に霧中課長も同じようによろよろと後じさり、ペタンと座り込み、そのままあおむけに倒れた。みるみる顔が血の気を失ってゆく。カーペットに血のシミがどんどんと広がってゆく。これじゃ助からない……それだけはすぐに分かった。


「課長……霧中さん……ああ、どうしたら……あいつ、あいつ、よくも!」


 霧中課長の流した血の池にぺたりと座り込んでしまう。

 わたしはもうぐちゃぐちゃだった。悲しみと怒りと喪失、何もできない自分、死んでいく霧中課長、なにもできない、なんとかならないの、どうしたらいいの、あいつがこんなことしなければ、くそっ、あいつ、あの男、なんてことを……許せない、霧中さん死なないで……許せないよ、あいつ絶対ゆるさない……憎いよ、胸が苦しい、憎いよ……血が沸騰しそう


「……なぁ、そんな怖い顔するなよ……美人さんが台無しだ」


 霧中さんが血まみれの顔でつぶやくようにそう言って笑った。

 こんな時だっていうのに。死にそうなのに。


「はぁぁ、お別れだな。まぁキミが無事で良かったよ。それからお客さんも」

「そんなこと言わないで……すぐ救急車も呼ぶから」

「それはいいよ。それより、もう少しこうして話していたいな。あまり時間がなさそうなんだ。キミの顔を見ていたいな」

「うん。ちゃんとここにいる」

「みんないい人ばかりだったな。オレは少しはみんなの役に立てたかな……」

「うん。みんな感謝してるよ、わたしだって!」


 するとわたしの背後から、お客さんたちの言葉が聞こえてきた。


「霧中さん、ありがとう!」

「あなたは命の恩人です!」

「しっかりしてください、すぐに救急車が来ますから!」

「助けてくれてありがとう!」


 みんなが口々にそう言っていた。

 その言葉を聞いて霧中課長はにっこりと微笑んだ。

 だからわたしも微笑んだ。

 無理やりだけど泣き顔で見送ることはできなかったから。


「……みんなが笑顔、そのほうがずっといいや……」


 霧中さんの血まみれの手がわたしの頬を撫で、やがて力を失ってパタリと落ちた。


「霧中さん……課長……死なないでよ!」


 だがそれきり霧中課長が目を開けることはなかった。


 色も音も消えた世界で、ただ雨の音だけが止むことなく聞こえていた。


   ☔


 その日は水曜日だった。

 朝から雨が降っていた。

 それだけは覚えている。



 

 ~雨の水曜日 おわり~

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