第20話 それぞれの三年 アレン①


「はぁ、はっ、ハァ……んグッ、はぁ、はァ……」


 小さな森の中で一人、苔むした地面にうつ伏せに這いつくばっている者がいた。


 無様に這いつくばり、だらしなく口を開けて空気を取り込んでは、大きな犬歯をギリギリと音が鳴るほどに噛み締める。


 その相貌には、苦悶の表情が張り付いていた。


 涙が流れている目の下にはくっきりと隈取が付き、頬の肉はごっそりと削ぎ落されている。


 ボサボサに毛羽立った毛織のズボンは泥にまみれてボロ布の様になっていたし、同じように薄汚れた長袖のシャツは袖を腰に巻かれていて上半身は裸だった。


 わずかな木漏れ日にその身体がテラテラと光って見えるのは、裸の上半身にじっとりと水滴が張り付いていたからだ。   



 必死に空気を取り入れようと上下しているその身体は、背骨や肋骨が浮き出て見え、痛々しいまでに痩せこけていた。


 


 これが二カ月前までただの鍛冶師見習いの少年だったということを、この姿を実際に見た何人が信じるだろうか。


 それほどまでに、アレンは変わっていた。

 変わり果ててしまっていた。


 

 真っ赤に充血した眼をキッときつく細め、地衣類と土塊に憎しみを持っているかのように、アレンは地面に爪を突き立てた。


 紫色に鬱血した両の腕と、血と泥で赤黒くなった掌が、地を這いずる蛇の様に何処へともなく彷徨う。


 ほどなくして、わなわなと小刻みに振動する指先が木を削り出して作られた太い棒にぶつかった。


 ブルブルと筋張った筋肉を震えさせながらも、アレンはその棒を杖代わりにして何十秒もかけてゆっくりと立ち上がった。




 ――まだ、やれる。


 


 老人の様に腰を曲げ、杖を突き、喘ぐように息をしているにも関わらず、アレンはそう自分に言い聞かせていた。


 己の中で木の棒が杖から剣に変わる。


 心が定まれば、ただの棒きれが本当の剣の様に見えてくる。疲れ切っているはずなのに、身体はむしろふわふわとしていて、グロテスクに変色した両の腕ですら、今ではわずかな鈍痛しか感じない。


 実際に血が出ている掌の針差すような痛みだけが、今のアレンが生きていると実感させてくれるものであった。


 苔と土とをポロポロと落としながら、アレンは身体の前で木の棒――剣を構えた。


 標的は眼前に横たわる朽ちた巨木。


 その赤茶けた木肌のただ一点のみが、何万、何十万という度重なる打撃によって見事な凹みを作っていた。




「……はああああああああああああああああああ!!!!! 」




 かすれ声が混じった奇声を聞いて驚いた鳥たちがバタバタと飛び去って行く。


 それは一言で表すならば「ただならぬもの」であった。


 どこか苦しみを纏った絶叫にも似た響きを持っていたし、悲哀に満ちた慟哭の様にも聞こえる類のものだった。


 続けて鳴り響く木と樹がぶつかり合う乾いた音を聞いて、野ネズミや野ウサギが何事かと首をもたげる。


 棒が巨木を打ち付けるたびに、朽ちた木の皮が一枚ずつ剥がれ、宙に放り出されていく。


 ジィンとした甘い痺れが、感覚の鈍った手から腕、体幹へと伝わって行く。


 大上段に振り上げるたびに、浮き出た肋骨が強調される。


 声が掠れるたびに咳き込み、血の混じった痰を吐きだし、またあらん限りの声を張り上げる。


 


 ――まだだ……これくらいじゃあ……アイツにはまだ程遠い……ッ!


 


 巨木の前に、あの涼やかな微笑を湛えた端正な相貌が浮かんで見えた。


 呆れているような、嘲笑っているかのような、そんな幻影に向かって狂った獣の様に棒を叩きつける。


 もはや何回打ち込んだかなど、とうに数えるのを止めていた。

 いつしかアレンの中で時間は勝手に意志を持ち、一分が一時間に感じられるようになっていた。


 バシリッ、バシリッ、という単調な調べが、いつまでも小さな森の中に響き渡る。

 アレンの視界はぼやけ、思考は鈍っていた。


 気分は善いのか悪いのか、それすらよく分からない。


 それでも、吐き気はあったのだが、長い間何も入れていない胃の中には吐き出すものなどとうになく、かろうじて出てくるのは、絞り出したような酸っぱい胃液のみだった。


 暫くしてズルリ、と掌から音がした。


 血と体液とで木の棒が滑り、手から飛び出していた。木の棒は標的に当ることなく、クルクルと回りながら茂みへと飛んで行った。


 ぶつかることを前提として力を振り絞っていたアレンの筋肉は急にその行き場を失い、結果として力が体中に逆流することになった。


 止まるべきところで関節は止まらず、一瞬ではあるがかつてない方向へと曲がり果てる。


 柔軟に伸び縮みするはずの筋肉も、度重なる酷使と疲労により固まり強張っていたために、予期せぬ刺激に一気に痙攣を起こす。




「――ッッッ!!!! 」


 


 これらすべてが体に表す只一つの感覚。

 それはとてつもない痛みだった。


 体中を針で突き刺されたような痛みが、それまで朦朧としていたアレンの意識を無理矢理に覚醒させた。


 今の今まで無理矢理に麻痺させ、最後の一線のところで踏みとどまらせていたアレンの痛み、空腹、その他多くの激情が、掻き毟られるように表層へと引きずり上げられた。




「ぁ、あ、あ、あああああああああああああああああああ!!!!!!! 」




 アレンは絶叫した。


 地に跪き、決して届かぬ天を仰ぎながら。


 ダラダラとみっともなく涙と鼻水を流して。




 ――こんなことで……こんなところで……ッ!!




 紫色に変色したその震える腕かいなで、やつれ果てた己の身体を抱きしめて。


 自分のふがいなさ、情けなさを全身で噛み締めて。


 アレンは絶叫し、そして――意識を失った。






 …………


 ……


 …








 俺は――もう笑わない。




 二カ月前、故郷を飛び出したアレンは、まず初めにそう固く誓っていた。


 白騎士の祭典までの三年間。

 言ってみれば、三年間で剣聖という名の怪物と対等に戦える力を付けなければならない。


 善戦するためではない。

 一矢報いるためでもない。

 あくまでも勝たなければ意味がないのだ。


 そのためにはどんな痛みにも耐え、どんな苦しみの中でも生き抜こうとしなければならない。


 そんな修羅の道を進むのに、楽しさや嬉しさと言った感情などは全くの無駄だと思えた。




 ――だから、必要のないモノは捨て去った。




 血の繋がっていなかった両親と半ば喧嘩別れの様になって飛び出してきてしまったことに、後悔はない。


 大体、家を出た目的が、死という理不尽から姉を救うためなのだ。


 その姉とて自分とは血の繋がりがない。

 だが家族として愛してきた以上、もうそんなことは関係なかった。


 むしろ、死すべき運命にあった自分を家族として迎えてくれた人々のために自分に何かできることがあるのなら、本当に何でもしたい。


 何でも捧げたい。

 本気でそう思った。


 だが理不尽を覆すには、同じ理不尽な力に頼るしかない。


 高々十五、六の若造がそんな身に余るほどの望みを叶えるためには、それに値するだけの代償を払う必要がある。


 そう、心の底から思っていた。


 


 ――だから、必要以上のものを受け入れた。


 


 老鍛冶師ゴドーの紹介で赴いたこの地で二カ月間、ぬるま湯に浸かりきっていたやわな身体を鞭打つように、食事もろくに摂らず、身体の痛みを堪えて、ただひたすらにやってきた。


 そうすることによって感じる痛み、苦しみ、辛さをなくして強くなろうなど、ひどく甘えた考えだ。


 そう、思っていた。




 ――だから、こうして痛みに、苦しさに屈した自分は――弱いニンゲンだ。




 筋肉の痙攣する痛みも。

 関節の軋む痛みも。

 手の皮が剥ける痛みも。

 爪が剥がれる痛みも。


 死の苦しみには程遠い。


 目が見えなくなる辛さに比べれば、大したことはない。


 しかし、心でいくらそう思っても、弱虫な身体は勝手に痛みを避けるように力を抑えてしまう。


 もっと鍛錬を積まねばならないと焦れば焦るほど、余計に体が動かなくなってしまう。


 それがすごく悔しくて。

 もどかしくて。


 我知らず、涙を流していた。


 そんなものは美しくも何ともない。


 むしろ、顔をぐちゃぐちゃにして、泥臭く、熱く、そして汚い涙だった。








 …………


 ……


 …










「…………ん」




 気が付くと、そこは森の中ではなかった。


 しかし、しか今真っ暗で何も見えなかった。


 そこから自分が目隠しをされていることに気付くまでややしばらくの時間を要したのは、いまだアレンの意識が少し朦朧としていたせいだった。


 身体もまた動かなかった。


 自分がベッドのようなものに横たわっていることはなんとなく理解できたが、シーツのようなものにくるまれ、その上から何本ものベルトのようなもので縛りつけられているらしかった。


 ここは何処か建物の中なのだ。


 辺りを見回そうにも体は動かぬし、目も見えない。

 無理矢理動こうとすると、今度は身体の方が抗議の悲鳴を上げた。




「――ッつぅ!! 」




 八方ふさがりのままじっとしているしかなかったアレンだったが、ほどなくして近くにあるらしいドアが開く音が聞こえてきたので、そちらの方向に首だけを回して顔を向けた。




「気が付いたか。死に損ないの大馬鹿野郎が」




 どこか疲れているような。


 けれど感情の起伏に乏しい、平坦な声だった。


 アレンはこの声を知っていた。




「し、師匠……」




 ガラガラになった喉から絞り出すように発したアレンの言葉は、老人の様だった。


 目隠しの向こうでため息が聞こえた。


 それからドサッという荷物を降ろす音、中身を漁るゴソゴソという音、キュポンっという栓の外れる音が時間を置いて連続した。


 アレンは乾いてひび割れ、ガサガサになった自分の唇に、濡れた皮袋の飲み口が押し当てられるのを感じた。


 横になった状態から、アレンが咽ない程度に少しずつ、少しずつ液体が流し込まれていく。


 冷たくはなかったし、干からびた舌では味わうこともままならなかったが、滑らかに口から喉へと流れ、粘膜を潤していく感覚はどこか心地よく、くすぐったかった。


 視覚を奪われ、敏感になったアレンのその他の五感には、空っぽの胃の中にその液体が流れ込んでくることさえ感じられるようだった。




「ン…………ん? ――ッッッ~~~~!!!!!! 」




 しかし、次の瞬間、アレンの全身を内側から焦がす熱のような感覚が駆け巡った。


 エネルギーを失って冷え切った身体が俄かにカアァっと火照り始め、目が見えなくても自分の皮膚が赤くなっているだろうことがわかるほどだった。


 体の中心から末端まで一挙に押し寄せる熱の波で、縛り付けられたアレンの身体はビクンビクンと勝手に跳ね回り、ベッドがギシギシと音を立てた。


 数分の間、得体のしれない身の内の熱に悶絶したアレンだったが、少しずつ波が引き始めると、意識と思考とが以前よりも明瞭になっていることに気付いた。




「大丈夫か? 」




 再び、静かな声が聞こえた。




「……はい」




 心なしか、声に力が入るようになっていた。




「なぜ、身体がこれほどになるまで鍛錬を続けた? 何度も俺は注意したはずだ」




「……」




「――応えろ」




 静かだがその声には、有無を言わせぬ何かしらの力があった。




「……まだ、足りないから」




 アレンは思ったままを口にした。




「師匠の言ったように続けても、アイツに届くには、まだ全然足りないから。俺は、アイツに勝たなくちゃいけないから」




「……ほう、そうか。しかし、お前が馬鹿をやったせいでその身体、あと三日は使いもんにならんぞ。その三日分の鍛錬を積む機会を、お前は進んでドブに捨てたわけだ」




「ッ……でも、こうでもしないと強くなれるわけがないっ! 痛みや苦しみを避けて手に入る甘い強さなんかでアイツに勝てるはずがないんだ! 」




「……お前、まだ『もう俺は笑わない』とかふざけたこと思ってんじゃあないだろうな? 」




「だって! そうしないと俺は、俺は……――んグッ!? 」




 アレンはもう一度皮袋の液体を喉に流しこまれた。


 目隠しされていたために反応できず、拒んでも無理矢理押し込まれた。


 アレンは再び身体が燃えるような感覚に襲われ、咽かえり、のたうった。




「――くはァっ! はっ、はっ、はぁ、ゲホッゲホッ! な、なに、を」




「いつまでも不貞腐れたガキみたいなこと言ってんじゃねえぞ。そんなことしたところでなんの意味もないことくらい、とっくにわかってるだろうが。メシもろくに食わないでそんなモヤシみたいになりやがって。これだったらやらない方がマシだ」




「……っ! 」




「その手だってそうだ。そんだけ派手に皮が剥けてりゃあ、薄皮が張るまでややしばらくかかる。お前が必要のない痛みまで自分で進んでもらってきた代償がそれだ。まさか、一日中棒切れを振り回していれば剣聖に勝てると、そう本気で思ってるのか? 」




「……っ……ッ……グスッ……」




 ――ならば、一体どうすれば良いというのか。


 悔しくて。


 ままならなくて。


 どうすることもできなくて、アレンは泣いていた。


 努力しなければ、絶対に届かない。

 けれど、努力したとしても届くかどうかはわからない。


 むしろそれでも届かない可能性の方が絶対に大きい。


 心を固めたと思い込む傍らで、アレンはその重圧に常に押しつぶされそうになりながら、この二カ月を過ごしてきた。


 そして今、それに押しつぶされてしまっていた。


 がむしゃらに自分を追い込んでおきながらも一向にその成果を実感できず、心のどこかで「意志の力だけではどうしようもない障害というものは少なからず存在するものだ」と、逃げ道を作っていた。


 すくなくとも自分は努力した、という証が欲しかった。


 それが度を超えた痛みであり、苦行にも近い過度な鍛錬の数々であった。


 「自分は弱い」などと知ったような口を利いたのも、そう言って口に出すことで本当の弱さから目を背けたかったからなのかもしれない。


 所詮、ぬくぬくとした環境で誓った誓いなど、なんの役にも立たないのかもしれない。


 自分にとって大切な、大好きな家族の命がかかっているというのに、これでは自分はその事実から逃げてきただけではないか。


 一度そう思ってしまうと、アレンは自分がひどく矮小で醜い存在の様に思えてならなかった。


 それが逃れようもない事実だと思ってしまったから。


 アレンは悔しくて……ままならなくて……どうすることもできなくて……たださめざめと泣いていた。


 泣いて、泣いて、泣くだけ泣いて疲れ果て。


 いつしかアレンは浅い眠りについていった。




 はぁ~。

 先程よりももっと長く、重苦しい溜息がベッドの脇からこぼれる。




「……今回の事は俺にも責任がある。どうやらお前とは腹を割って話をしなくちゃあいけないみたいだな」


 


 疲れたような吐息と共に、長身の男はそんなことを言ったのだった。


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