第21話 それぞれの三年 アレン②


 街道から離れた、見渡す限りに緑の野が広がる丘陵地帯を、鋭い吐息をこぼしながら一心不乱に走り抜ける、一人の人影があった。


 汗で濡れて体に張り付いたシャツの袖口は度重なる着用により擦り切れ、きっちりと紐を結んだ革製のバトルブーツは力強く大地を踏みしめる。


 そのスピードは丘陵地帯の坂道でも落ちることはなく、むしろ丘の頂上が近づくにつれて速度は上昇した。


 まるで何者かに追われているかのように、鋭い吐息はさらにその鋭さを増し、大地を踏みしめる音はその間隔を縮めた。影の持ち主は一気に長い丘を駆け上がり、頂上に来たところでその足を止めた。



「ハッ、ハッ、ハッ、ハッ……はぁ」


 膝に手をついて息を整え、身体がそのまま地べたに倒れこみ、地面に伸びる影と一つになった。


 草を薙いでいく乾いた風が、汗で濡れた体を優しく撫でていく。


 汗で濡れて張り付いたシャツが、度重なる鍛錬により子供っぽい肉が削げ落ち、引き締まったその体の線をさらに強調していた。


 少しして、青年は起き上がり、再びその身と影とが分かたれた。


 青年は近場に落ちている小石を一つ拾い上げ、地面に積まれた小石の山の上に置いた。


「ひの、ふの、……もう二十も走ったのか。ってことは、あと三十往復、か。さ~てと、気合い入れてくか! 」


 う~ん、と一つ伸びをして、肩や首をグリグリと回してから、青年は元来た道を全速力で駆けて行った。


 夕日も西の方に沈んだ頃、青年は自身が身を寄せている村へ帰ってきた。村に入ってそうそう、帰りが遅すぎるという――今回でかれこれ三百回目に達する――守り人からのお叱りを受けた後、溜息交じりで青年は掘っ立て小屋のドアをノックした。


 小屋の中からは期待した返事はなかった。さらなる溜息をついた青年は踵を返し、村の酒場へと向かった。


「あらアレン、いらっしゃい! 」


 酒場の娘が明るい笑顔で声をかけた。


 アレンと呼ばれた青年は笑顔で挨拶を返し、適当に開いている席に腰かけ、擦り切れたシャツの袖で顔を拭った。


 娘は大きなカップに冷たい水をなみなみと注ぎ、アレンに手渡した。受け取るや否や、アレンは大きく喉を鳴らして一気に水を飲みほした。


「いつものでいいかしら? 」


「いつも悪いね。頼むよ」


「いいの。お父さんがアレンのこと気に入ってるんだもの。アレンが気にすることじゃないわ」


 娘は少しそばかすのついた顔に活発そうな笑みを浮かべた。


 その笑顔は、アレンに故郷の幼馴染の笑顔を思い出させ、アレンの心を不意に締め付けた。


「お父さ~ん! アレンが来たわ。いつものお願いね~! 」


 娘がカウンターの奥の調理場に向かって声を張り上げると、姿の見えない店主の「あいよ」という声のみが調理場から返ってきた。


 娘はアレンと話をしたそうにそわそわしていたが、他の客に呼ばれていたこともあり、アレンのカップにもう一杯水を注ぐと、他の客の給仕をしに行った。


 新しく注がれた水を半分ほど飲み、アレンは賑やかに酒を飲む周りの男たちに目をやりながら一人、静かに物思いに耽っていた。


 白騎士の祭典に出たいという旨を「両親」に告げ、家を出てから一年。


 剣聖ランダル・フォン・フランツベルクに完膚なきまでに敗北してから一年。


 血が繋がっていないと知った病気の姉を救うと決意してから、もう一年が経った。


 家族を始めとして、いまだにアレンの決断に反対の意を表している者は、故郷に多い。


 その反対も、ひとえにアレンを心配してのものであるだけに、自分を大切に思ってくれている人たちに対して我儘を言っているだけということは、アレン自身が一番良く理解していた。


 反対する者の気持ちを知って尚、アレンは今、ゴドーの紹介で来たこの村で日々鍛錬に打ち込んでいる。


 否。反対する者の気持ちを理解しているが故に、というべきだろう。皆の気持ちは痛いほどに理解している。


 かといって自分が抱く願いを放棄することなどできない。

 命を無駄に落とさぬために。己が望みを勝ち取るために。


 この二つを同時に実現させるためアレンが出した答えが、朝陽が登るよりも早くから、夕陽が沈むまで……雨の日も、風の日も休むことなく鍛錬に励み、少しでも強くなることだったのだ。


「さぁ、できたぞ、アレン! 腹一杯食えよ! 」


 物思いに耽っていたアレンの思考は、酒場の店主が料理を直々に運んできてくれたことで一時停止した。


「ありがとう。今日も美味しそうだ」


 アレンは店主に笑顔で礼を告げた。店主は豪快に笑い、適当な椅子に腰かけた。


「それで、今日はどうだったんだ? 」


「変わらないよ。いつも通り、走って、走って、走ってきた」


 アレンは口に食べ物を詰め込みながら、モゴモゴと言った。


「かぁ~。ここに来てもう一年になるってのに、ま~だ剣を握らせねえのなぁ? あんのヤロウ。ったく、毎度毎度弟子ををほったらかして国中を旅しやがって。白騎士の祭典まであと二年だってのによう! 」


 アレンの事をまるで自分の事のように愚痴をこぼすこの店主は、初対面の挨拶の折、アレンの修行の理由を聞き、感動の涙を流すほどの激情家であった。

 それ以来、何かとアレンには親切にしてくれている。


 アレンは店主が言うのに任せ、自身は食べることに集中し、物凄い速さで次々と皿を空にしていった。


「……まぁ、アレン、気を落とすなよ? あのオヤジが何考えてるかはわからんかもしれんが、来たときに比べりゃあ一段と立派になったよ、お前さんは……ってオイ! 」


 アレンの沈黙を、落ち込んでいるのと勘違いしたのか、店主は慰めの言葉をかけようとした店主だったが、いつの間にか全ての皿が空になっているのに気気付いて思わず声を上げた。


「いや~、相変わらず美味かったよ。ご馳走様」


「も、もう食べちまったのかよ。っていうか、俺の話ちゃんと聞いてたんだろうな!? 」


 狼狽える店主の様子を見て、アレンは微笑んだ。


「もちろん。でも心配しないで? 自分が今何をすべきなのかはちゃんとわかってるし、鍛錬については、師匠とも合意の上だから」


「あぁ? 剣も使わないで一日中走ったり、きこりの真似事したり、でけぇ岩持ち上げたりすることが、か? あのオヤジ、お前に嫌がらせしてるだけじゃないのかよ? 」


 信じられない、といった様子で店主は言った。アレンは首を横に振って答え、残りの水を飲みほした。そうこうしているうちに、何やら酒場が騒がしい雰囲気に包まれてきた。


「お~い、アレン! 腕相撲だ、腕相撲! こっちへ来いよ! 」

 一人がアレンに声をかけた。


「そうだなぁ。俺が勝ったら奢ってくれるんなら、やってもいいけど? 」


 アレンがそう言うと、周りがドッと笑いに包まれた。


「おいおい、アレン。いつも言ってるだろう? メシは日頃世話になってる礼だって」


「世話になってるのはこっちだよ。いつも親切にしてくれてる礼さ」


 アレンはそういって輪の中に入り、腕相撲の挑戦を受けたのだった。


「……本当に、来た時と比べりゃあ、一段と頼もしくなったもんだ」


 周りの歓声を浴びながら、挑戦者を次々と倒していくアレンの笑顔を見て、店主はそう独りごちたのだった。


 夜も更け、腕相撲で怒涛の十二人抜きを果たしたアレンは酒場を後にして小屋に戻った。


 半分諦めながらも、アレンは立てつけの悪いそのドアをノックしたが、キィ、という音と共にドアが開かれたことで、アレンの心は躍った。


 出てきたのは、白髪交じりの髪を短く切った壮年の男。


 ついさっき帰ってきたばかりらしく、旅装束の服装を解いてはいなかった。


 この男こそ、ゴドーの紹介でアレンが師事を仰ぐことになった武芸者クロウだった。


 もっとも、師事するとは言うものの、実際に剣を教わったことはまだ一度もない。


 村人からは変り者扱いされているこの武芸者が醸し出す雰囲気は、初めて会った頃のゴドーに少し似ていた。


 そのこともあって、アレンは全面的にクロウの事を信用にたる存在だと結論付けていた。


 実際、腹を割って話す機会に恵まれた折、クロウは綿密に鍛錬の計画を立ててくれた。


 付き合いが深くなるにつれて、クロウにはホーストのようなにぎやかな一面があることもわかった。


 クロウ曰く、戦士が武器の取り扱いを覚えるのはさほど時間は掛からないが、それはしっかりとした基本の軸ができていることを前提とするのだという。


 全ては戦士としての基本となる強い体の軸を形成するため、クロウの言を信じ、アレンは一日中勾配の多い丘陵を全力を以て走り続けた。


 狂ったように大声を上げながら、木を削りだして作った棒で朽ちた倒木を千回、万回と、手の皮をボロボロにさせながらもただひたすらに打ち続けた。


 今では自分の体重の倍近い重さの岩を持ち上げて運ぶことができるようになった。


 一朝一夕で強くなれる人間などいない。


 実際、この村に来てからの最初の二カ月は、アレンにとってもっとも過酷な二カ月であった。


 今でこそ、いささか無理難題としか言いようのない鍛錬をもろともしないだけの筋力、体力、気力を兼ね備えるまでになったアレンだが、始めて間もないころは、アレンの身体は鍛えられるどころか、疲労と心労で食事もろくに喉を通らなかったこともあり、短期間でごっそりと肉が削げ落ち、それに伴って体力もどんどん落ちて行った。


 これにより半死半生の状態を経験して以来、アレンは食事のとり方、休息のとり方の質の向上も鍛錬の一環とすることを固く誓った。


 よく鍛え、よく食べ、よく眠る。


 そうして形成した鍛錬の基盤により、三カ月を過ぎた頃にはアレンの身体は劇的といっても良いほどの変化を遂げていた。


 今までできなかったことができるようになっていく喜びは、アレンに飽くなき向上心を抱かせた。


 しかし、それから半年近くの間、あれほど目覚ましい成長を遂げていたアレンの身体は、その伸び白が不意に途切れてしまったかのように停滞を迎えることとなった。


 成長を焦りがむしゃらに鍛錬に励むアレンを諭し、己を鍛える者にとっての乗り越えるべき壁の存在を教えたのもまた、この壮年の武芸者クロウであった。


 クロウのおかげで、アレンは半年近くの間、停滞する成長の不安と闘いながら、乗り越えるべき壁を乗り越えるために自分がすべきことを淡々とこなすことができた。


 そして苦難の半年を終えたとき、アレンの身体は停滞の壁を乗り越え、より強靭に、より頑丈になったのであった。


「来たか。酒場にいたのか? 」


 疲れの混じったような落ち着いた声が、クロウの口からこぼれる。


「うん。いつ帰ってきたんだよ、師匠。酒場に行く前に寄ったときはいなかったのに」


「ついさっきだ。立ち話もなんだ。早く入れ」


 アレンは小屋の中に入り、椅子に腰かけた。


 小屋の隅にはクロウの旅の供である道具たちが綺麗に並べられている。


 部屋の壁には、長剣を始めとして、戦闘用の双斧や戦棍など、クロウの使う武器の数々が掛けられていた。


「鍛錬はサボってないな? 」


「あぁ、今日も五十往復とおまけでもう十往復走ってきたよ」


 停滞の半年を乗り越えて三カ月。


 アレンの身体能力の向上にはさらなる拍車がかかっていた。


「ほう? 期待以上だな。なら……」


 クロウは片方の眉を吊り上げてそう言うと、アレンに背を向けて壁に立てかけた背嚢から皮袋を取り出し、アレンに手渡した。


「これは? 」


「飲んでみろ」


 アレンは一瞬躊躇ったが、栓を開け、皮袋の中身を口に含んだ。


 口に広がる味は今まで飲んだことのないものだった。


 ほんのりとした甘さと、花のような心地の良い香りが鼻腔をくすぐり、アレンは体の中心からジワジワとした温かさが手足の先にまで伸びていくような感覚を覚えた。


 ……いや。アレンにはこの味に覚えがあった。



「おいしい……これは? 」


 クロウはニヤリと笑った。


「そうか。美味いと感じるんだったら、鍛錬は次の段階だな。そして、お前の記念すべき初陣だ。いきなりだが、明後日から旅に出るぞ」


 アレンの目は驚きで見開かれたが、同時にその輝きを増した。


「し、師匠? 俺まだ剣の使い方とか教えてもらってないんだけど……? 」


「あぁ、心配はいらん。初陣の相手は人間じゃない。その身一つでどこまでやれるか、お前の一年間の鍛錬の成果を見たいと思ってな。こいつを帝都の方で預かってきた」


 そう言ってクロウは絵の描かれた張り紙をテーブルに出した。アレンは張り紙を覗き込んだが、そこには何やら黒い体で四足の豚のような生き物の絵が描かれていた。


「……これ何? 」


「暴れ大イノシシ、だとさ。北の農村で二、三人に大ケガを負わせたとかで指名手配がかかっていたのを俺が引き受けたんだ」


「こいつを退治する、ってのが次の鍛錬? 」


「当たらずしも遠からず、ってとこだな。今回の旅で一連の内容をお前にはこなしてもらうつもりだ。今お前が飲んだその水もしかり、イノシシもまたしかり、な。イノシシについては……まぁ、ヤツが潜んでいる場所が今回の目的地と偶々重なったのと、懸っている賞金がなかなかに多くてな。お前がこれから使う武具やらなんやらの足しになるかと思ったんだ」


「ふ~ん。あぁ、そうだ。まだどこに行くか聞いてなかったけど、目的地は? 」



「……【黒森】さ」



 一呼吸おいて、小さな子供に怪談を聞かせるような静かな声で、クロウはそう告げた。






 次の日、アレンは雄鶏の声よりも早く床を抜け出した。


 部屋の隅でまるで死んだようにうつ伏せになって眠るクロウを起こさぬように気を遣いながら、立てつけの悪く軋むドアを開けると、アレンはするりと小屋を抜け出た。


 外は東の空が微かに白み始めてはいるものの、大部分がまだ一面の星空だった。


 アレンは滑車を使って井戸水を一杯汲むと、顔を洗い、寝癖を整え、残りを喉に流し込んだ。


 気合いを入れるように両手でピシャリと頬を打つと、アレンは早朝の鍛錬――内容は、近くの小さな森にある、背の高い木にぶら下げてあるロープの上り下りである――を行うために村を出た。


 日に焼けた逞しい筋肉の筋を盛り上がらせながら、腕だけを使って素早くロープを上り下りする間、アレンは今回の旅についての情報を整理していた。



 【黒森】


 今回の旅の目的地であり、神聖帝国最大の規模を誇るこの大森林を、帝国に住む人々はそう呼んでいる。


 そこの木々は猛々しいまでに高く育ち、中に入ると陽光が地面に届かないほどであることが、この名のついた由来であると言われている。


 その不気味さから進んで中に入ろうとする者は少なく、伝わってくる情報の少なさゆえか、森には太古のままの獣が潜んでいるとか、もっと恐ろしいものが潜んでいるのではないかと、人々の間でまことしやかに噂されるほどだった。


 クロウが今回の旅でアレンに課した課題は大きく三つ。


 一つは、黒森に逃げ込んだ暴れ大イノシシの退治。


 一つは、昨夜クロウがアレンに飲ませた、黒森の奥に湧くという泉を見つけ出し、その水を飲むこと。


 最後の一つは、この黒森で二週間の間、野宿して過ごすことだった。



 もっとも、これらの課題はクロウ同伴の下で行われるため、いつでも降参することは可能であるらしい。

 しかし、アレンはこの話を聞いた時から、絶対に降参はしないと心に誓っていた。


 上り下りも十五往復を超えたところで、血管の浮き出た腕が酷使によって熱を持ち始めたため、アレンは足も駆使して残りの十五往復をこなすことにした。


 少々息を上げながらも最後の一回を登り切り、腿でしっかりとロープを挟んでバランスを取りながら地面まで滑り降りると、アレンは走り込みの鍛錬に移った。


 走り込みはしばらくの間、東の方に金色の太陽が昇るまで続けられた。アレンは村を見下ろす丘の上まで駆け上がると、目を細めて日の出を眺めた。


 鶏たちが次々と鬨を上げ、村人たちに一日の始まりを告げる。擦り切れたシャツの袖で顔の汗を拭くと、アレンは早朝の鍛錬を切りあげて村に戻った。



 村に戻ると各々の家からは煙が上がり、人々の一日の営みが始まっているのが見て取れた。


 アレンは水を汲みに外に出ている村人何人かと挨拶をかわしながら、村の鶏舎を訊ねた。

 日課となっている鶏のエサやりや掃除の手伝いをするためだ。


 掃除を終えた後、アレンは鶏舎の主から報酬として生まれたての鶏卵を四つほど受け取った。


 足取りも軽く卵を持って小屋に戻ったアレンであったが、クロウはまだぐっすりと眠っていた。


 アレンは相変わらず死んだように動かない師に無言の一瞥をくれると、陶製の大きなカップに卵を割って中身を入れ、喉を大きく鳴らして四つ全てを一気に飲み干した。


 これは、日々の滋養強壮のためにアレンがここ数カ月習慣としていることだった。


「んぁ? 朝か……」


 クロウがもぞもぞと毛布の中でうごめきながら、いかにも寝起きらしいかすれ声をあげた。


 アレンは軽く一つ溜息をつくと、つかつかと師匠に近づき毛布を引っぺがした。


「……ぬおぉぉ」


 毛布を引っぺがされたクロウは腕で顔を覆った。


「師匠、相変わらず朝に弱すぎだよ。もうとっくに日は登ってるんだから、早く起きて」


 この武芸者の唯一の弱点は、極端に朝に弱いことだった。

 酷い時には、起こさなければ昼まで起きないほどだ。


「やれやれ……アレンよ、どうか水を取ってくれ。目覚まし兼朝メシだ」


 クロウはそう言ってのろのろとした動作でその無駄に背の高い体を起こすと、テーブルのあたりを指さした。


 差した指の先には昨夜アレンが中身を一口飲んだ皮袋が置いてある。


「朝メシって……草とか木じゃないんだから、水だけで腹一杯になるわけないじゃないか。まだ寝ぼけてんのかよ、師匠? 」


 アレンは呆れながら突き出されたクロウの手に皮袋を押し付けた。


 クロウは半開きの寝ぼけ眼のまま中身を喉に流し込むと、そのまま二回、三回と喉を鳴らし、酒を飲んだ後のように大きく息をついた。


「かぁ~っ……よし! 気持ちの良い朝だ」

「……」


「なんだよ、その目は」


「いや、ただの水をまるで酒のように美味しそうに飲む師匠が不憫で……いたっ」


 ペチッとアレンの頭をクロウの大きな手が叩いた。


「なぁ~に言ってんだ。この水が『ただの水』だと? 馬鹿言うな。これがただの水なら、鍛錬の課題でこんなものは飲ません。この水はな、言ってみるなら……そうだな、『すごい水』だ」


「…………」


 本日二度目のペチッという音が小屋の中に響いた。


「いたっ。まだ何も言ってないのに……」


「アホを見るみたいな目を向けるんじゃない。……ほれ、残り全部お前にやろう。もう一回飲んでみろ」


 アレンは半信半疑のまま、そう言って手渡された皮袋の中に残る水を全部綺麗に飲み干した。


 先程丸呑みした鶏卵が入った胃の中に水が流れてくるのを感じたが、次の瞬間、昨夜と同じように体が胃を中心にしてジワジワと末端まで暖まっていくような感覚がアレンを襲った。


 ジワジワとした温もりは早朝の鍛錬で体を動かしたアレンの身体を気遣うように――特に、鍛錬で酷使した部分に――集中的に染み渡り、疲れを抜き取っていくようだった。


 体の変化に驚いているアレンにクロウはニヤッと笑いかけた。


「どうだ? なかなかのモンだろう? これが、この水を飲むことを課題にした意味さ」


「師匠、これって……? 」


「この水には何か不思議な力があるってことさ。地下から湧くこの水であの森の木々は育っているが、あそこでは、水に含まれる何かが木を高くすると言われている。『命を育む』と、な」


「命を……? 」


 クロウは頷いた。


「まぁ、昔は俺も眉唾モンの話だとは思っていたんだがな。何年か前に実物を飲んでみて実感したってわけさ」


「え? じゃあ、師匠の背が高いのはこの水を飲んだから? 」


 アレンは荒唐無稽な話にも聞こえるクロウの発言に目を丸くして驚いていた。

 クロウはそんな弟子の反応を見てクックッと笑い声をこぼしたが、質問には答えなかった。


 それから二人は旅の支度をすることに昼過ぎまで時間を費やした。

 もっとも、アレンには所持品といえるものが、一年前にゴドーからもらった大ぶりのダガーくらいだったので、旅の準備の大方はクロウに任せることになった。


 荷物の整理が終わると、クロウは布に包まれた箱のようなものを小脇に抱え、アレンを連れて村の鍛冶場を訊ねた。


「おや、珍しいですねクロウさん。何か御用ですか? ここには剣も戦斧もありませんよ? 」


 恰幅の良い鍛冶屋の主人は、心なしかクロウを警戒しているかのようだった。


 アレンは少し哀しかったが、武器を持つ者が圧倒的に少ないこの時代に生きる者にとって、この主人の反応は決して可笑しなものではない。


「いや、一つ仕事を頼みたい。槍の穂先を作ってほしいんだが」


「槍の穂先……ねぇ」


 うーむ、と鍛冶屋の主人は太い腕を胸の前で組んだ。


「なにもタダでっていうわけじゃない。もし鋳型がないのなら、こいつを使ってくれ」


 クロウが小脇に抱えていた箱のようなものは、槍の穂先の鋳型だった。


 主人はアレンの方をチラリと見ると、鋳型を手に取って確かめ始めた。


「つかぬ事をお聞きしますが、この槍は誰が……? 」


「あぁ、明日からアレンを連れて旅に出るんでね。こいつに何か得物をやらなくちゃと思ったんだが」


「ふ~む。わかりました。そういうことなら引き受けましょう。柄はありますか? よろしければ穂先と石突の取り付けまでやっておきましょう」


 アレンが使うものだと聞いて、主人は幾分和らいだ様子で仕事を引き受けた。


「感謝する。後で持ってこよう」


 クロウは代金をカウンターに置くと、アレンを残してさっさと店を後にした。


「ありがとう、おっさん」


 アレンが礼を言うと、主人はふくよかな顔に柔和な笑みを浮かべた。


「気にすることはないさ。そのかわり、鍛錬で忙しいかもしれないが、また気が向いたら仕事を手伝ってくれると嬉しいよ。それにしても、明日出発とは随分と急な話じゃないか? 旅の目的はあの人から聞いているのかい? 」


「あぁ、なんか賞金首のでっかいイノシシを退治するんだとさ。師匠が槍を用意してくれてたのはありがたいけど、正直ちょっと不安だよ」


「ははっ……そうだ、アレン。君はヘファイスで鍛冶をやっていたんだったね? 」


「正確には、鍛冶師見習い、だけどね」


「とすると……」


 主人はちょっと待っていて、と言うと一旦作業場に姿を消し、少しして戻ってきた。


 手には、鍛冶仕事で使う中くらいの大きさの鎚が握られていた。柄は少し長めで、頭部の片側が突起ピックになっている。


「こんなのは使い慣れているんじゃないかな? 気に入ったら使ってくれて構わないよ」


 アレンは手渡された鎚を握り、片手、両手と持ち替えてみた。


 先端に重心がある鎚の感触は、一年前に初めて使った剣のそれとは異なり、手にしっくりと馴染むようであった。


「使いやすそうな鎚だね。でも、本当にいいの? 」


「不安なときの備えは多い方がいいでしょう? もっていきなさい。……よく聞いて、アレン。君に剣を握らせてしまうことを、我々は少し恐ろしくも思っているんだ。もっともこの鎚も、使いように依れば立派な武器になってしまうがね。でも、これを『鎚として』持っている限り、君は武人じゃない。心優しい鍛冶師見習いの青年でいられる。君が戦いに身を投じるわけは聞かせてもらっているが、君は本来戦いなんて縁のない生活が保障されてしかるべき人間なんだよ。そのことを忘れずにいてくれると、私は嬉しいね」


 主人は思いやり深い笑顔でそう言うと、鋳型を抱えて作業場へと消えて行った。

 アレンはもう一度主人に礼を告げ、店を後にした。




 アレンとクロウが村を出発したのは、次の日の早朝だった。

 二人とも、腰に下げた得物を露出させないためにマントを着用し、各々荷物を分担して背嚢に詰めて背負って歩いた。


 自分の身長よりも頭一つ分ほど長い素槍を杖代わりにして歩きながら、初めての旅に心を躍らせていたアレンであったが、荷物を背負ったままの二人の歩はなかなか捗らず、結局その日を含めた三日間は日の出から日の入りまで歩き通しだった。


 長い距離を移動することは鍛錬で慣れていたことが幸いし、歩き通しで当初の興味は冷めたものの、アレンの体力は尽きることはなかった。


 村を出て四日目、二人は黒森の入り口にたどり着いた。


 本来ならば、もう少し時間がかかるはずであったが、クロウが選んだ道は最短距離で二人を目的地まで道に導いたようだった。


「着いたか。どうだ、アレン。二週間いけそうか? 」


 アレンはゴクリとつばを飲み込んだ。

 今、自分が立っている所を境界線として、世界が二分されているのかと思うほどだった。


 それくらい外から見ても分かるほどに暗く外から見た黒森は不気味だったのだ。


「……引き返してもいいんだぞ? 他の鍛錬のやり方だっていくらでもある」


 クロウは静かに言った。アレンは首を横に振り、沈黙を以て問いに応えた。


「よし。なら、まずはイノシシ探しからだな。歩きながらで悪いが、形跡の追い方から教えることにしよう。ついてこい」




 二人は暗い森の奥へと入って行った。



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