第19話 それぞれの三年 へファイスにて
朝日に照らされた石畳の道を歩く、一人の少女の姿があった。
歩くたびに、肩のあたりで切りそろえられた明るめの赤毛の髪が小さく揺れる。
その手には、早朝のバザーでの買い物を入れるためのあみかごが握られていた。
つい一月前までは隣を一緒に歩いていた幼馴染の青年は、今はもういない。
「お、カッティ。今日も早いねぇ」
「おはよ、おじさん」
青果売りの露店の店主に向かって、カッティは笑顔で挨拶を返した。
「今日はなかなかの上物がそろってるよ? それとも、いつものでいいのかな? 」
「うん、ありがと。いつものでいいよ」
店主に代金としてコイン数枚を手渡すと、店主はカッティのあみかごに果物を数個詰めた。
「そういえば、アレンがいなくなってからもう一月か。一体どこで何してるのやら」
「……」
「あ、いや、こいつは余計なお世話だよな。しかしなんだかこっちも毎朝二人が一緒に通ってくるのを見ていたからさ。アレンがいないとどうも調子が狂うんだよ。はははっ」
「……うん」
ここのところ沈んだ様子の目の前の少女を見て、店主はポリポリと頭を掻いた。
「ほい! 詰めたよ、持ってきな! 」
「ありがと……? おじさん、なんかいつもより多いけど? 」
「いつもご利用ありがとうございます、っていう感謝の気持ちを込めてだな。サービスだよサービス! ……まぁ、なんだ。アレンのヤツが帰ってきたら、せいぜい思いっきり困らせてやんな。でも、それまでの間は、沈んでいるよりは笑っていた方がいいだろう? 」
「……ホントにありがと、おじさん」
いいってことよ、と、照れ隠しをするように店主は指で鼻を擦りながら笑った。
「しっかし、アレンもどうしようもないヤツだよなぁ。こんな可愛い幼馴染を残して町を飛び出しちまうなんて」
「ホントだよ……ばか」
カッティはそう言って、誰かも見上げているかもしれない、雲一つない紺碧の蒼穹を仰ぎ見たのだった。
「あ~……失礼、お嬢ちゃん。道を聞きたいんだが……」
「え? 」
不意に呼ばれたカッティが振り向いた先には、旅装束に身を包んだ背の高い男が立っていた。
朝陽が完全に登りきった頃、ホーストの工房からは力強い金鎚の音が響いていた。
カァンッ! カァンッ!
熟練工のホーストが手に持つ金鎚が奏でる音は、まるでからくり仕掛けの機械のように寸分の狂いもなく、同じ響きを持った音。
その独特の金属音は常に一定のリズムを保ったまま、窓を通して外へと響いた。
ホーストの仕事はいつもと変わらず、正確で迅速だった。否。言うなれば、迅速に過ぎた。
其処彼処から依頼を受け持ち、片っ端から鉄を叩いた。
熱して、
叩いて、
鍛えて、
延ばして、
冷やして、
また熱して……
まるで、沈みこんだ心を埋め合わせるかのように。
トントン、と工房のドアを叩く音がした。
ホーストは一旦作業の手を休め、ドアの方を向くと、少し驚いたような顔をした。
「どうしたんだ? お前が工房に来るなんて珍しいじゃないか」
「お茶を持ってきたわ。少し……話さない? 」
入ってきたのはエキドナだった。
手には銀のティーポットと二つのカップが握られている。
ホーストは小さな溜息をつくと、炉の火を落として作業を中止し、簡素な造りのテーブルと椅子を用意した。
「あなた、最近根詰めすぎよ? 体に悪いわ」
「心配するな。ゴドーの爺さんと違って俺はまだくたびれちゃいない」
ホーストはエキドナからお茶の入ったカップを受け取りながら応えた。
エキドナは困ったように微笑んだが、その顔からは普段のふわふわした感じが見られなかった。
「それで、話ってのは? 俺の身体の心配だけじゃないだろう? 」
「えぇ……」
エキドナは小さく喉を鳴らしてお茶を一口飲み、ふぅ、と息をついた。
「あの……アレンの、こと、なんだけど……? 」
「……」
ホーストはお茶を一口啜ると、静かに吐息を漏らした。
「……ショックだったか? アイツが、俺たちの子じゃないってのを知っていたこと」
エキドナはふるふるとかぶりを振った。
「あの子は小さい時からとっても優しい子だったわ。気の強かったルーシーにいつも気を使って、体の弱いカトリーナのことをいつも気遣って」
昔を思い出したのか、エキドナは嬉しそうに目を細めた。
「……だから、アレンがあんな顔をして自分から戦いに出たいなんて言い出したあの時、何だか無性に怖くなってしまったのよ。目の前のアレンが、もう私たちの知っているアレンじゃなくなってしまったみたいで」
「……」
「私、家を出て行くあの子に何も言ってやれなかったわ。あの子が抱きしめてくれた時も、何もしてやれなかった。あんなとき、本当の母親なら何て言って、何をしてあげられたのかしら、ね」
「もうやめろ、ドナ」
ホーストはテーブルの上に置かれたエキドナの手を握った。
「アイツは少しも変わっちゃいないさ。お前がそう思うから、そう見えるだけのことだ。それに……」
ホーストは真っ直ぐな眼で妻を見つめて言った。
「金輪際、『本当の母親なら』なんてことは口にするな。それは俺たちの十五年間に対する侮辱であり、アイツの決意に対する侮辱だ。アイツが戦いたいと言った理由、忘れたわけじゃないだろう? 」
「……」
「『ちい姉さんを助けたい』、アイツはそう言ってくれた。それは俺たちを本当の家族じゃないと知って尚、俺たちを家族として受け入れている何よりの証拠じゃないか。」
ホーストは手を握る手を強めた。
エキドナはカップを置き、その手をホーストの手に重ねた。
「……『母親』失格ね。私」
自嘲気味な苦笑いを端正な顔に浮かべるエキドナの写し鏡のように、ホーストも苦笑いを浮かべた。
「それを言うなら、俺の方こそ『父親』失格さ。突拍子もないことを言われて、ついカッとなっちまったしなぁ。だがまぁ……」
ホーストはバツが悪そうに頭をポリポリと掻き、最後の一口を飲むと席を立ちエキドナの背後に回り、肩に手を置いた。
「お互い駄目な親だって自覚があるんなら、アイツが帰ってきたときには何をすべきか、もうわかるよな? 」
「……えぇ、そうね」
エキドナはそう言って、慈しみ深い綺麗な手で肩に置かれたホーストの手を握り返したのだった。
不意にトントン、と家の方のドアをノックすることが聞こえてきた。
二人は顔を見合わせ、外に出て表に回ると、町の神父とカッティを連れた旅装束の男の姿があった。
「カトリーナ、入るわよ? 」
食事を乗せた盆を持って、ルーシーはカトリーナの部屋に入った。
ベッドには、頭まですっぽりと布団をかぶったカトリーナがいた。
ルーシーは軽く溜息をつくと、盆を文机の上に置き、ベッドの傍らの椅子に腰かけた。
「まったく、いつまでそうしてるつもりなの? まるで子供みたいじゃない」
「……」
妹が返事を返さないとわかると、ルーシーは形の良い眉を吊り上げた。
服の袖を捲り上げて気合いを入れると、あっという間に布団を引き剥がす。
防衛線としての布団を取られたカトリーナは、胎児のように丸く縮こまったまま、モゾモゾと動くしかなかった。
「アンタ最近、全然ごはん食べてないでしょ。今日はしっかり食べてもらうからね」
「……どうして? 」
糸よりも細いのではと思うほどのか細い声が、カトリーナの小さな口元からこぼれた。
「どうして、って、なにが? 」
「……どうして、姉さんは平気なの? 」
カトリーナはルーシーに背を向けて丸まったまま、そう問いかけた。
その問いかけに主語はないものの、ルーシーにはカトリーナが言わんとしていることは大方理解できた。
「……じゃあ何? 私もアンタみたいに、落ち込んで一日中丸まっていれば良いっていうの? 」
「……」
カトリーナはビクッと身を震わせると、さらに身を縮めて丸まってしまった。
それを見て、ルーシーはこめかみに手を当て、言った傍から今言ったことを後悔していた。
ぐじぐじした人間を見ると、どうしても強い口調で話してしまう自分の性格が、こういう時は憎らしいと思った。
「……ごめん。言い方が悪かったわ。でも、いつまでもそうしていてもアイツが帰ってくるわけじゃないの。それくらい、アンタだってわかってるでしょ? 」
「……」
感情と折り合いをつけ最大限の歩み寄りを見せたつもりのルーシーだったが、いつまでたってもカトリーナは口を開こうとしなかった。
何か嫌なことがあった子供のように、ただただベッドの上で丸くなっている。
数十秒の忍耐の後、早くも我慢の限界が訪れたルーシーは胸の前で組んでいた腕を解き、カトリーナの両肩を掴んで引き起こした。
あまりにも急に動いたため、カトリーナが声にならない悲鳴をあげた。
「ッ!? 」
「……いい? カトリーナ」
両肩を掴まれた状態で小さく震えているカトリーナの虚ろな瞳は涙で潤み、哀しげな光を湛えていた。
そんな妹の顔を見て多少心をぐらつかせながらも、ルーシーは伝えるべき言葉を告げるために口を開いた。
「アイツはアンタの病気を治したくて家を出て行ったの。アイツが帰ってくる前にアンタに死なれたら、アイツのしたことはまるっきり無駄になる」
「……」
「もちろん、私も、お父さんも、お母さんも、この町のみんなも、アンタには死んでほしくない。わかってるわよね? 」
「……グスッ」
カトリーナは返事の代わりに鼻をすすった。
「じゃあ、アンタが今すべきことは何か、わかるわよね? できるだけしっかりごはんを食べて、神父様のお薬を飲まないといけない。そして何より、『生きよう』と強く思わないといけない。そうでしょ? 」
「……グスッ……グスッ、えぇ……」
やっと、カトリーナは言葉で返事を返した。
ルーシーは表情を緩め、肩を掴む手も緩めた。
「病気や弱い気持ちなんかに負けちゃダメ。大丈夫よ、カトリーナ。アイツは……アレンは帰ってくるわ。絶対に……」
「姉さん……私、私……」
ルーシーは静かにカトリーナを抱きしめた。
姉の黒髪と妹の白髪。正反対の色彩が交差し、交わった。
「私……私、アレンがそばに、いてくれる、だけでよかった……のに! みんながいてくれるだけで……それだけで、良かった、のに……! 」
涙を流しながら、たどたどしく言葉を紡ぐカトリーナの頭を、ルーシーは母譲りのほっそりとした綺麗な手で優しく撫でた。
「アレンは小さい時からアンタによく懐いてたもんね。きっとアンタがそんな風だからかな? 」
ルーシーの腕に抱かれたまま、カトリーナはかぶりを振った。
「違う、違うの。アレンが私を必要としてくれてたんじゃないの。きっと、私が……私がアレンを必要だったのよ。もっと、傍にいてほしくて……アレンの優しさに甘えて……」
「……今さら自分を責めてどうすんのよ、ばか」
より強く、ルーシーはカトリーナを抱きしめた。
それと呼応するように、カトリーナの泣き声も大きくなった。
「……姉さん。私、胸が、胸が苦しいの。病気のせいじゃ、ない。でも、苦しいの……」
妹は姉の胸に顔をうずめて、くぐもった声で言った。
それは、自分のために大きな困難に立ち向かう、青年の気持ちを知っているから。
その強さを備えた生き方が、彼女の心をえぐるから。
「わかるよ。私も苦しい。でもね、カトリーナ? それを噛み締めて、生きていかなくちゃいけないの。その胸の苦しみが愛おしく思えるほどに、生きて、生きて、生きるの」
そうして自分を奮い立たせ、立ち止まっては前に進む。
それがきっと、「生きる」ということだから。
ルーシーはそう耳元で優しく囁いた。
そして、カトリーナが泣き疲れて眠るまで、その絹糸のような純白の髪を、優しく、優しく撫で続けたのだった。
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