第14話 アレン 十五歳 転機②
帰りの道中、絶賛寄り道中のアレンはゴドーにもらったダガーを持って、町の近くの野山を歩いていた。
昨日長女ルーシーと話していた、滋養剤になる薬草を採るためである。
頭に引っかかってくる枝やツタなどを払ったりするのに、やや大ぶりなダガーは大いに役立った。
しばらく歩いたアレンは、根本に苔がむしている、一際大きい木が一本立っている開けた場所へたどり着いた。
「えぇ~っと? た~し~か~、こ~の~あ~た~り~に~」
まるで歌を口ずさむかのように独りごちながら、アレンは地べたを見下ろして、薬草を探し始めた。
探し物はすぐに見つかった。
明るい緑色の葉と、小さな白い花をつけた背の低い植物が、苔むした大きな木の根元近くに小さくかたまっていた。
「おっ、あったあった……よい、しょっと」
早速アレンはゴドーのダガーで生えていた薬草を採取し、肩に下げていたバッグに入れた。
「よし! これくらいあれば、何回か煎じて使えるよな。あ~と~な~に~か~」
再び歌を口ずさむように、アレンは歩きながらあたりを見回して……
「ほ~か~に~……」
……林の陰からこちらを荒い息遣いで見つめている――
――二個で一組の……計六個で三組の目と……
「あるか……な」
……目が合った。
「げっ……」
――ま、マズイ……
アレンは動けなかった。
目が合った相手は、少々青みがかった灰色の体毛を持つ、三匹のオオカミだったからだ。
神聖帝国内において、森や野山でオオカミに遭遇する者は少なくない。
それでも、オオカミがそこまで大きな問題にならないのは、基本的に、この国のオオカミたちは人間を襲わない、という事実が昔から存在するからだった。
帝国に生息するオオカミたちは、シカやイノシシなど、畑を荒らす草食動物たちを捕食するものの、決して人間の里に下りて、家畜を食べに来たりすることはない。
また森や野山で遭遇した場合においても、人間の方が下手な手出しさえしなければ、襲われることもないのである。
そうした理由から、オオカミは帝国内に伝わっている、子供に聞かせる昔話に出てくるほど人々から親しまれており、帝国に住む民とオオカミとの繋がりは深いと言えるのである。
こうした背景があるにも関わらず、アレンはオオカミが嫌いであった。
否。この場合は『オオカミたちがアレンを嫌いなのであった』といった方が正しいのかもしれない。
どういうわけか、オオカミたちの間では、アレンだけは『襲わない対象』から外れているらしく、むしろ牙をむいて――アレンに何か恨みでもあるかのように――襲いかかってくるのであった。
幼少時から、出会う度に散々追い掛け回されたアレンにとって、オオカミは一つのトラウマとなっていた。
さて、この危機的状況に直面している今、アレンは全速力で思考を回転させていた。
真っ先に浮かんだのは逃げの一手だった。
ここから森の出口まではそれなりに距離があるが、森から出さえすれば、オオカミたちは追いかけては来ないはずだ。
しかしながらその考えは即座に却下した。
確かに逃げ足の速さには少々自信はあるものの、それはあくまでも「人」の能力水準からみてのことである。
短距離ならばともかくとして、野生のオオカミを振り切れるとはとても思えなかった。
では、真っ向から戦うのはどうだろう。
幸い、手にはいつもは持っていない武器がある。
なるほどダガーの鋭い刀身は、上手く使えば狼たちの身体を傷つけ、戦意を喪失させるに足る威力を持っているかもしれない。
問題は相手が複数だということだ。
一対一ならば、正面のみに集中してれば何とかなるが、一対三ではいくらなんでも分が悪すぎる。
ましてアレンは剣闘士や武芸者などでは決してないのだから、戦闘に慣れているわけでもなんでもないのである。
刃物を使い慣れていないわけではないが、戦いは薪割りで斧を振るったり、道具作りでナイフを使うのとは違うのだ。
闇雲に振り回しても、オオカミたちの機嫌を逆なでするだけである。
さらに悪いことは、狼たちは頭も良いということだ。
野生における捕食者たる彼らは、日々戦い、その日の糧を得ているその手の専門家たちなのだから。
現に彼らは、アレンが行動を起こせないでいるうちに、じりじりと散開し、アレンを囲むように三角形を形作った。
一対多の戦いにおいて定石ともいえる位置取りである。
さらにアレンの視線を一点に落ち着かせないように、ゆっくりと円を描くように動き出す。
そうして徐々に円を狭めていき、焦って動き出した獲物を確実にしとめるのが、どうやら彼らの戦法らしい。
アレンは焦りと緊張で思考が鈍り始めていた。
子供のころ、本気でオオカミに噛みつかれ、大けがをしかけた記憶が脳裏を掠めていく。
囲まれてしまった以上、下手に逃げようとするのは自殺行為だ。彼らの術中にはまった状態で素人が立ち回ってもたかが知れている。
よって戦闘も却下だ。
――どうする……?
退路を断たれ、戦っても勝ち目はないときている。まして相手は獣なのだから、話が通じるわけもない。
まさか薬草を採るためにやってきた、大きな木のそびえたつこの場所で――以前来たときにはここら一帯は彼らの縄張りではなかったはずだが――こんな危機に直面するとは思ってもみなかった。
――……大きな、木?
考えうる限りもっとも妥当な考えがアレンの頭の中に浮かぶ。
できるかどうかは二つに一つといったところだが、成功すればこの忌々しい状況から一時的に脱することができる……
そうと決めたアレンの動きは迅速かつ正確だった。
オオカミたちが様子の変化に気付き包囲網を狭めるほんの少し前に、アレンは大きな木に向かって走り出していた。
アレンと目標との一直線上に、オオカミはいなかった。
もっとも、これはオオカミたちの円運動を見越して、最善の状態でスタートを切ったアレンの計測、判断、決断の賜物だった。
正面にそびえる、先程薬草を採取した大きな木は、登るには足場が足りそうになく、一番近い手頃な枝でも、ゆうに大柄な大人二人分の高さはあった。
枝に手が届けば勝ちだ。
オオカミは木に登れない。
オオカミたちはぐんぐんスピードを上げてアレンに迫っていた。
首尾よく木までたどり着けたとしても、しっかりと準備して木登りをさせてはくれなさそうだ。
――登れないのなら……駆け上がる!
オオカミたちの荒い息遣いを背後で感じながら、全速力でアレンは走った。
そしてそのまま眼前に迫った木の幹を、一回、二回、三回――ちなみに三回目は、一回目、二回目で勢いが殺されていたため、ほとんど気合でいった――と蹴った。
十五歳の青年の身体が、文字通り木を駆ける。
アレンは件の枝に手を伸ばした。
――届け!
アレンの伸ばした右手は、救いの枝へと、伸びる。
一番長い中指が枝に触れる。
そして……
……………アレンは落ちていった。
落ちていく瞬間、アレンには全てがゆっくりに見えた。
伸ばした右手は無情にも枝には届かず、中指の爪の先が木の肌を引っ掻いたのみであった。
眼下には、待ってましたとばかりに木の下で待機する三匹のオオカミたちが吠え猛っている。
その吠える声が、諦めかけていたアレンの意識を覚醒させた。
「――こぉんのやろう! 」
どうせやられるのならばと、アレンは半ば自棄になって、三匹のうち一匹に狙いを定め、高いところから加速度的に落ちるのを利用して、思い切り蹴りをかましてやった。
決死の飛び蹴りは、オオカミの少々青みがかった灰色の体毛に覆われた背中を見事にとらえた。
キャインキャインと情けない声を出して転げまわる仲間を見て、残り二匹が戦意を喪失してくれることを切に願うアレンであったが、この抵抗は、かえって彼らの戦意を煽るだけのようであった。
残りの二匹は鼻面に深くしわがよるほど牙をむき出して怒りを示していた。
本来なら、勝てはしなくとも、屈服させるにはいささか骨が折れると相手に分からせることさえできれば、野性の動物は無闇に戦いを挑んではこないはずなのだが。
……どうやら本気で、アレンは何かしら――ちなみに本人はまったくもって嫌われる理由がわかっていない――相当な恨みをオオカミ社会から買ってしまっているらしい。
逃げ場なし。
打つ手なし。
ここまで来ると、さすがにもう諦念の感すらあるアレンである。
ジリジリと後ずさりするものの、すぐに背中に大きな木がぶつかった。
二匹のオオカミはそれぞれ右と左に分かれて、既に挟撃の準備を完了させていた。
言うなれば、前門のオオカミ、後門もオオカミである。
そんなとき――一陣の風が、不意に強く吹き込んだ。
二匹のオオカミがアレンに躍り掛かった。
アレンはとっさに腕で顔を覆った。
その刹那、アレンは自分の腕で視界を遮られた目の前に、上から何か大きなものが舞い降りたのを、音と気配で感じとった。
目を開けるその瞬間まで、獣に噛まれる触覚的な刺激が自身を襲うと信じて疑わなかったアレンが次の瞬間受け取ったのは、無慈悲で冷たい鋼が動物の身体を切り裂く、聴覚的な刺激。
そして、視界を狭めている腕をおずおずと顔から放し、前方を目視したアレンが次に受け取ったのは、間欠泉のように吹き出す鮮血の、視覚的な刺激であった。
…………
……
…
目の前に、人の背中が見えた。
身長はアレンよりも高く、灰色のマントの下には、その体が白を基調とした上質そうな装束に身を包んでいるのが見て取れた。
後ろから見る分には、男なのか、女なのかはっきりしないくらいの長さのその髪の毛は、まるでその一本一本が、純銀を溶かして作られたかのような、美しい銀髪。
そしてその手に握られているのは、刀身を血で紅に染めてなお、つやつやとした鋼の冷たい輝きを放つ
「――やっと、逢えた」
落ち着いた響きを感じさせるその声の主は、ゆっくりと振り向き、アレンにそう告げた。
見る者を思わずゾクリとさせるような、妖艶な笑みを浮かべて……
「……ぇ? 」
アレンは思考の整理が全くといって良いほど追い付かなかった。
まずは目の前。完全に血の海であった。
地面の土、草、木の肌、近くにあるありとあらゆるものに、動物の血液が付着していた。
アレンに血がついていなかったのは、目の前の銀髪の人物――結局、顔を見ても性別の判別は難しい顔をしていた――が血を正面から受けていたためだ。
その身に纏った灰色のマントには黒っぽいシミが点々とぶち模様を形作っていた。
次に、恐る恐る目の前の人物の後ろから覗き込むように前方を見ると、少々青みがかった灰色の体毛を真っ赤に染めたオオカミの亡骸が二つ、地面に転がっていた。
残り一匹の、アレンが先程蹴とばしたオオカミの方は、もはや動かない二匹の仲間を、ピスピスと小さく鼻を鳴らしながら、何度も何度も優しく小突いていた。
少しして、仲間二匹の死を理解したのだろうか。
オオカミはその場に座り、その鼻面に怒りとはまた別の意味を込めて、深いしわを寄せた。
アレンには、仲間の亡骸の前でうなだれるその姿が、ひどく哀しいものに見えた。
しばらくして目の前の人間二人に一瞥をくれると、オオカミはヒョコヒョコとしたぎこちない動きで――おそらくアレンの飛び蹴りが効いているのだろう――その場を離れていった。
銀髪の人物が動いた。
逃げていくオオカミの方に向かって、一歩、二歩と、ゆっくり、けれど確実に近づいていく。
ヒョコヒョコ歩きのオオカミの速度では、すぐに追いつかれるだろう。そして、きっとあのオオカミもまた、あの無慈悲な鋼の餌食となる……
「ま、ま待って! 」
たまらずアレンは「銀髪」の肩を掴んだ。
「銀髪」は足を止め、アレンと向かい合う。
間近で見るその端正な相貌。
落ち着いた、微笑。
そして澄んだ輝きを放つ、まるで時が止まってしまってしまったかのような灰色の瞳は、アレンにおとぎ話の住人を想像させた。
「ん、アレは殺さなくてもいいのかい? また襲われたら大変だろう? 」
まるで常識を語っているかのように、「銀髪」はさらりと恐ろしいことを口にした。
「いや、いやいやいやいやいや! いいよもう! そこまでしなくても! 」
この野蛮な提案に対して、アレンは全身全霊を込めて首と手とを横に振りまくり、否定を示した。
「銀髪」は肩透かしを食らったように、ふぅん、と息をつくと、その手に持った
地面に咲いていた小さな白い花が、落ちてきた血で赤い花に変わる。
それでもまだ、刀身には頑固に血が残っていた。
「あ、そうだ……これ」
アレンはカバンから、いつも持ち歩いている磨き布を取り出し、「銀髪」に差し出した。
ありがとう、と礼を告げて「銀髪」が血を拭うと、
「あの……聞いてもいい、です、か? 」
「ん、何? 」
一方が剣を鞘に納め、一方が血にまみれた磨き布を再びカバンにしまったところで、ようやくアレンは話を切り出すことができた。
もっとも、色々と謎なことが多すぎて、何から尋ねれば良いのやら、少々混乱中のアレンであった。
「……あなたは何? 」
一見すれば盛大に失礼極まりない発言であるが、アレン自身は、「あなたは誰? 」と尋ねたつもりであった。
何はともあれ話はそこからである。
目の前の人物が何者なのか、皆目見当もつかないアレンにとって、この質問は最優先事項であった。
そんな失礼な質問にも顔色一つ変えず、眉ひとつ動かさず、涼やかな微笑のまま「銀髪」は答えた。
「面白いことを聞くんだね、君は。う~ん、こういう質問にはどう答えればいいのかな? とりあえず、僕は――人間、かな? 」
あまりにも当たり障りのないその発言は、右耳から左耳へ、音が体の中を素通りしていくかのような感覚をアレンに覚えさせた。
今の質問で明らかになったのは、せいぜい目の前の人物が森の精などといった類のものではない、ということくらいだ。
「ごめんごめん。馬鹿にしたわけじゃないんだ。気を悪くしないで? 」
ポカンとした表情を浮かべているアレンを見て、「銀髪」はクスクスと笑い声をこぼした。
「僕はランダル。ランダル・フォン・フランツベルク。とりあえず……旅の剣士だと思ってくれて構わない」
「え、あ、はい。さっきはありがとうございました。おかげで助かりました」
アレンは差し出された手を取って握手を交わした。握った相手の手は、アレンよりも一回り大きく、――血色の悪そうな、というのは失礼かもしれないが――青白いほどに色白な手にしては、存外に暖かなものだった。
握手を解き、アレンは二つ目の質問に移った。
「名前を聞いたところ、貴族の人みたいだ……ですけど」
「まぁ、一応、ね。でも君は僕に対して敬語なんて使う必要はないよ。見たところ歳も同じくらいだろうしね。それに、 言っただろう? 旅の剣士とでも思ってくれって」
ランダルの応答は柔らかなものだった。
随分大人びた雰囲気を醸し出していたこともあって、アレンは告げられるまで相手との歳の差がわからなかったので、歳が近いということを知って少しばかり安心した。
「ありがとう、じゃあ、もう少し聞きたいことがあるんだけど? 」
「もちろん。どうぞ? 」
――この際だから、聞きたいことは全部聞いておきたい。
「じゃあお言葉に甘えて。ランダル・フォン・フランツベルク、君はどうしてここにいるんだ?それに僕は君を知らない。でも君は僕を知っているみたいだった。さっきの『やっと、逢えた』ってどういう意味? 正直言ってわからないことだらけなんだ」
ランダルは相変わらず表情を変えず、涼やかな微笑のままアレンを見つめていた。
「質問には答えるよ。でもその前に、少し歩こうか。この場所はあんまり会話するのにはよろしくないだろうし、ね? 」
「え? あっ……」
ランダルの視線の方へと目を向けると、早速、骸となったオオカミたちの下へ、血と死肉の臭いを嗅ぎつけたカラスたちが群がり始めていた。
もはや抵抗することのない、冷たくなった獣の身体を、カラスたちは森の掃除人よろしく、その嘴を血で染めながら、無慈悲に、貪欲に、そして容赦なく啄んでいた。
突如としてアレンは、心の内に、嫌な感情が沸々と込み上げてくるのを感じた。
走って行ってカラスたちを追い払おうとしたが、ランダルの手が、アレンの肩を掴んでその場に引き留めた。
「……どうして? 」
「確かに見ていて気持ちの良いものじゃない。でも、君にできることはないし、すべきこともないよ」
アレンはキッ、とした目つきでランダルの涼やかな顔を睨んだ。
「……そういえば、まだ聞きたいことがあった。さっきのを見る限りとんでもなく強い剣士みたいだけど、なんでオオカミを殺したんだ? 君くらい強ければ傷を負わせて追い払ったり、その辺の棒で殴って痛めつけるだけでも良かったはずだ。助けてもらっておいてこんなこと言うのは恩知らずだとは思うけど……」
「ふぅん、なるほど、一理あるね。わかった、次からはそうするよ。さぁ、行こう」
ランダルはさらりとそう言い放ち、何の未練も感じさせない足取りで歩き出した。
アレンは釈然としなかった。
オオカミを殺したのは自分ではないはずなのに、どうしてこれほどまでに心がかき乱されているのだろうか。
それでも誘われるがまま、アレンはランダルに連れられてその場を後にしたのだった。
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