第13話 アレン 十五歳 転機①
「……神父様。正直に言ってくれ。どうなんだ? 」
家族全員が重苦しい雰囲気に包まれている中、耐え切れなくなったホーストが、震える声で神父に尋ねた。
「……」
神父は厳粛な表情を崩しはしなかったが、その顔からは、悔しさ、歯痒さがありありと見て取れた。
何も言わず、アレンたちとは目を合わせようともせず、神父はただ、首を横に振った。
ホーストの質問に対する答えが、その行動に集約されていた。
「……なんて、こった……」
ホーストが力なく椅子に沈み込む。
アレンがいつも手本とし、頼りにしていた父の背中は、その体から空気という空気が抜け出てしまったかのように、とても小さなものに見えた。
そんな夫と悲しみを分かち合うかのように、エキドナは、その白くほっそりとしたその手を夫の肩に置いている。
アレンはルーシーの方を見たが、ルーシーは、唇を噛んで俯いたまま、神父の沈黙の意味をかみしめているようであった。
「私は今まで、これほど己の無力さを痛感させられたことはない」
そんな家族の姿を見て、苦虫を噛み潰したような苦々しげな顔を浮かべて、神父は唯一顔を上げていたアレンに向き合った。
「私にできることは、すべてやったつもりだ。今は小康状態を保っているが、発作はこれからも続くことは間違いない」
「……本当に、どうすることもできないんですか? 」
神父は首を横に振った。
「正直、私もこんな事例を見るのは初めてなんだよ。おそらく、この発作は彼女が死ぬまで続くはずだ。今はまだ間隔は長いが、死ぬまでに、発作の間隔はだんだんと短くなっていくかもしれない」
顔を真っ青にして、唇をワナワナと震わせているアレンの両肩を、神父は両の手で包み込むように掴んだ。
「本当にすまない。私にできることといったら、可能な限り発作を鎮め、痛みを和らげる薬を作ることくらいなんだ。無論、新しい治療法を見つけるために、これからも努力を惜しむつもりはないが……こんな無力な私を許してくれ、アレン……」
力なくうなだれる神父に礼を言い、その小さな背中を皆で見送った後、四人は何も言わず、テーブルを囲んで椅子に座った。
全員が、沈黙していた。
しかし胸に秘めたる想いは、皆同じであったことであろう。
「……すまん、ちぃっとばかし工房に行ってくる。納期も迫っていることだしな。お前も来るか? アレン? 」
最初に沈黙を破ったのはホーストだった。アレンは首を横に振って否定を示した。
「……僕、ちい姉さんの部屋に言ってくるよ。汗を拭かないと、もっと具合が悪くなる。」
ほとんど消えそうな掠れた声で囁くと同時に、アレンは席を立った。
「えぇ、そうね……ありがとう、アレン。私も夕ご飯の準備をしなくちゃ。ルーシー? 悪いけど手伝ってもらえるかしら? 」
「……」
無言で立ち上がったルーシーに支えられて、エキドナは調理場の方へフラフラと歩いて行った。
――正直、全員、何かをしていないと耐えられなかった。ほんの少し前まで、我が家はどこにでもある、暖かく幸せな家庭だったはずだ。
――どうして、こうなってしまったのか……?
アレンは次女カトリーナの部屋のドアの前まで来ていた。
ノックをしようとする手は一旦止まり、アレンはブンブンと首を振って沈んだ顔を取り払った。明るい顔を作ってから、改めてドアをノックし、部屋に入る。
「……アレンなの? 」
カトリーナの、いつもと変わらない柔らかな物腰の声には、さすがに少し疲れが感じられた。
「そうだよ。相変わらず、音だけで誰かわかるなんてすごいね。ちい姉さん」
微笑みながらそう言うと、アレンはベッドの脇に置かれている、ぬるま湯が張られた洗面器に入ったタオルを絞った。
アレンの両の手に、ぬるま湯の中途半端な温もりがゆっくりと伝っていく。
「汗かいてて気持ち悪いでしょう? 今拭くからね」
アレンは汗で張り付いたカトリーナの前髪を手で優しく払い、いまだにうっすらと汗が浮かんでいる次女の額を、手に持ったタオルで拭った。
タオルは額から右頬、左頬から口周り、そして首筋へと場所を移していった。
「んっ……はぁ、気持ちいい……ありがとうね? アレン」
「何かしてほしいことがあったら、遠慮なく言ってね? ほら、次は腕を拭くけど、起きられそう? 」
「……えぇ、ごめんね。手を貸してもらえるかしら? 」
アレンは、カトリーナの華奢な背中に手を回し、ゆっくりとベッドから起こした。
もともと華奢な方だった次女の身体は、ここ数カ月で、さらに小さくなってしまったようだった。
「……相変わらず、ちい姉さんの髪は綺麗だね。僕、ちい姉さんの髪、好きだな」
アレンは乱れた次女の長く白い髪を後ろへ払い、手で軽く梳いて整えた。カトリーナは少し元気になったようで、アレンの賛辞を悪戯っぽいクスクス笑いをもって受け取った。
「アレン? 」
「ん? 」
「顔を触ってもいい? 」
「へ? うん……いいけど」
カトリーナは虚ろな――けれどとても優しげな――眼を開いてアレンと向かい合い、ほっそりとして儚いその指を、アレンの顔へおずおずと這わせていった。
アレンの顔の輪郭をなぜるように……そして、なぞるように……
アレンの顔の凹凸をなぞるように……そして、なぜるように……
「……すっごく、くすぐったいんだけど? 」
「ふふふっ、だぁめ。動かないで。もう少し、触らせて? 」
やっと、カトリーナにいつもの柔らかな微笑みが戻った。
見る者さえ幸せな気持ちにさせる、彼女の優しい笑顔。
それは、とてもとても儚げなものではあったが、不思議と痛々しくは感じられなかった。
それはきっと、彼女の笑顔が、心から笑った、ホンモノの笑顔だったからだろう。
――どうして、彼女なのだろう……?
「……アレン? どうして泣いているの? 」
カトリーナのほっそりとした指先には、いつしか涙の粒が光っていた。
「グッ、えへへ、あんまりくすぐったくて、笑い堪えてたら、つい……へへ」
「……そう」
次女の両の手が、アレンの顔から離れた。その手で、カトリーナはゆっくりと自身の胸元に、涙を流す弟を抱き寄せた。
「つらい思いをさせて、ごめんね? アレン……」
「グスッ、ちい姉さん……ごめんなさい。ごめんなさい……」
もはや流れる涙を止める術を持たない、十五歳の青年は、「自分よりも背の小さくなった」下の姉に抱きしめられ、その胸に顔をうずめて、静かに涙を流した。
そんな「自分よりも背の高くなった」弟の頭を、下の姉は誰よりも優しく、誰よりも愛おしそうに、撫で続けたのだった。
…………
……
…
事の発端は、この光景から数か月前にさかのぼる。
もともと幼少のころから体が弱かったものの、大きくなってからは体調にも落ち着きが見え始めていた次女カトリーナの容体が悪化していったのだ。
初めは、いつものように少し体調を崩しただけだと思われていた幼い微熱や多少の過呼吸が、日を追うごとに頻繁に発生するようになった。
その頃は、教会の神父から授かる祝福や、調合された薬によって事なきを得ていた。
シュタフヴァリアの地、特に神聖帝国内においては、聖職者としての一面の他に、白の精霊の加護により病を治す癒し手としての機能も併せ持っていた。
だが、いつからか、少しずつその効果も薄れていった。
数カ月ののち、聖水による祝福も、調合された薬も、ついにその効果を示さなくなっていたころ、カトリーナの症状は最悪の状態にあった。
それまでの幼い微熱は意識を朦朧とさせるほどの高熱に、多少の過呼吸は、重度の呼吸困難にその姿を変えた。そのあまりの辛さに、カトリーナには症状の発現前後の記憶が飛んでしまうほどであった。
ひとたび発生すると何日も続くこれらの症状は、突発的にやってきては、彼女の体を蝕むだけ蝕み、突然何事もなかったかのように彼女の身体を去って行くのだった。
この状況に、神父も身を粉にしながら薬草の新しい調合を試し、新薬を開発しては、できるだけ発作を短期間で鎮める努力をしてくれた。アレンも、友人たちと協力して近くの野山を駆け回り、神父の指定した薬草を探したことがあった。
町の人々も、カトリーナが重い病だということを聞きつけ、足しげく家に駆けつけては、家族を励まし、差し入れをしてくれたりもした。
そうして二カ月の苦心の末、神父はようやく発作を短時間で鎮めることのできる新薬の開発に成功した。
しかし、彼の努力もむなしく、そのころまでにカトリーナを幾度となくひどい高熱に侵し、意識を失うほどの呼吸困難に苛み続けた謎の病魔は、カトリーナの容姿をまるで別人のように変えてしまった。
鮮やかだった髪の赤は白く――それでいて老人や老婆の白髪のそれとは異なり、絹糸のような髪質は変わらず、色のみが抜け落ちていったかのような純白へと――変わり、その優しげな両の瞳は、その光をとうに失ってしまっていたのであった。
ともあれ、新たに調合された薬によって、カトリーナが長時間苦しみに苛まれることは少なくなり、発作の傾向も少しずつではあるがわかってきたことで、何らかの対策が施せる可能性も見え始めていた。
しかし、病魔はゆっくりではあるが確実に、カトリーナの生命の
そして今日、傾向から外れた一際性質の悪い発作がカトリーナを襲った後、神父はホーストたち家族に、無言を持って告げたのだ。
『カトリーナの不治の病は、このままいけば確実に彼女に死を招く』と……
神父のこの宣告は、あくまでこのまま何の対策も講じずに時が過ぎ去れば、という仮定の話ではある。
おそらく最後の最後まで、神父は目の前の生命を救うために尽力を惜しまないであろう。
それでも、その最終宣告はホーストをはじめ、エキドナ、ルーシー、アレンの心を大きく揺さぶってなお、余りあるものであったといえる。
確かに現在の段階で、カトリーナの症状は神父が調合した薬で鎮静化できている事実がある。
しかし、いつまたその薬の効果が効かなくなるかどうかは、実際のところ、神父を含め、誰にもわからないのもまた事実なのだ。
カトリーナのような、症状が重く、最悪死に関わる――家族の誰かが同じ症状の病にかからないところを見ると、感染する類のものではないらしい――症例は非常に稀であることも災いした。
白の精霊の力が人々に恩恵を与えるシュタフヴァリアの地では、たいていの病ならば、神父を通じた精霊からの祝福で事足り、疫病には、子供のころにあらかじめ教会から予防の薬が投与されるため、発病することはない。
つまり、病に関する情報があまりにも不足しているのだ。
まさに『正体不明』という名がふさわしいこの病の前には、どうすれば治せるのかはおろか、何をすべきなのかということさえ、非常に曖昧なものとなってしまう。
そう、戦うべきものの正体がわからないがゆえに、神父は自身の無力さを嘆き、家族はその不条理に心をかき乱されるのだ。
しばらく経って、カトリーナの胸にうずめていた顔を放して、アレンは照れ笑いを浮かべながらグズグズと音を立てているぐずった鼻をすすっていた。
「グスッ……へへっ、カッコ悪いなぁ。もう十五歳にもなるっていうのに。ごねんね? せっかく体拭くところだったのに、服まで涙で汚しちゃったし……」
カトリーナは、優しい笑みを浮かべたまま、ゆっくりとかぶりを振った。
「……アレンは優しいね? 小さいころから本当に変わらない。人のために涙を流せる人って、とっても素敵だと思うし、私はアレンのそんなところ、大好きよ? 」
「その言葉、そっくりそのまま、ちい姉さんに返すよ。全部、母さんやちい姉さんから教えてもらったことだもの」
心なしか晴れ晴れとした面持ちで、二人は微笑み合った。
その笑顔はもう、片方にとっては見ることはできないものであったが……
またしばらくして、トントン、と部屋のドアがノックされた。
「夕食ができたけど……カトリーナ、どう? 食べられそう? 」
部屋に入ってきたのはルーシーだった。
ちょうど、アレンがカトリーナの身体を拭き終えたところだったので、カトリーナは着崩れた寝間着を直している最中だった。
ルーシーは、体を拭いたタオルを絞っているアレンに無言の一瞥をくれ、その視線をカトリーナに戻した。
「……えぇ、ありがとう、姉さん。多分大丈夫だと思うわ」
「下までは降りて……来られそうにはないわね。待ってて、今持ってくるから。アレン、行くよ」
「ん? あぁ、じゃあ、ちい姉さん、またあとでね」
「……えぇ、ありがとう、アレン」
アレンはルーシーに連れられ、冷めた水の張った洗面器を持って部屋を後にした。
二人は特に会話もなく階段を下りて行ったが、不意にその途中でルーシーは足を止めた。
その後ろを歩いていたアレンも、必然的に立ち止まらざるを得なかった。
「姉さん? 」
「アンタ、カトリーナの前で泣いたでしょ?」
ルーシーはこの言葉と共に振り返り、アレンと向かい合った。
「など、どうして……? 」
「そんな赤い目してたら、誰だってわかるわよ。まったく……」
「アハハ……面目ない」
アレンは情けなさそうに笑いながら、目を擦った。ルーシーは腰に手を当て、片目を閉じて軽い溜息をついた。
「まぁ、憐みの涙、っていうわけでもなさそうだし、カトリーナも見た目より元気そうだったところを見ると、良い涙みたいだったみたいだから、とやかくは言わないわ」
「……ごめん、姉さん。一番辛いのは、ちい姉さんだってこと、忘れている訳じゃないんだ。でも……耐えられなかった」
アレンは俯きかけたが、ルーシーはその母譲りの、白く、しなやかで、それでいて柔らかい、きれいな手をアレンの頬に添えて、アレンに顔を上げさせた。
以前までなら、アレンの頭を撫でていただろう。
それがもはや叶わないのは、階段でルーシーの方が下の段にいたこともあったが、十五歳になったアレンの身長が、女性としては比較的背の高いルーシーと同じくらいになっていたことが大きな理由だった。
「……ほんっと、背が伸びただけで、中身は変わんないのね、アンタは」
「ハハ、さっきちい姉さんにも、同じことを言われたよ」
弱弱しい微笑みを浮かべているアレンに、ルーシーは悪戯っぽい笑顔を見せた。
こういう時の長女の顔は、姉妹であることを改めて認識させられるほど、カトリーナのそれとそっくりだった。
「そりゃそうよ。私とカトリーナでいつも話してるんだもの。アレンはいつになったら大人になるのかなって」
「……何気にひどくない? 人を笑い話の種にして……だいたい、僕だってもう十五だよ?あと一年で大人の仲間入りさ」
「年だけ大人になっても……ねぇ? 」
ルーシーの目は人を小馬鹿にした目に変わった。
「なんだよ、その意味深な発言? 」
「……アンタ、カトリーナの身体を拭いてて何も感じなかったの? 」
今度はジトッとした目だ。
「はぁ? な、何言ってんの? そ、そりゃあちい姉さんは綺麗な人だとは思うけど、僕はただちい姉さんが発作で汗びっしょりだったから気持ち悪いだろうなと思って……」
「ふむふむ、それで? 」
ジトッとした目。
「そ、それで……そう! さ、最近じゃ、また痩せてきちゃったみたいだから、栄養になるものを食べてもらわないといけないだろうとは思ってるし? ……あっ、そ、そういえばこの前、滋養剤になる薬草が生えてるところを見つけたから、明日の仕事の帰りにでも採ってくるよ。そうするよ、うん」
「……」
ジトッ。
「な、なにさ? 」
「……ふふっ、べっつに~? 」
初心な弟をからかうことに満足したのか、ルーシーは意地悪そうな笑みを浮かべて――とはいえ、以前の彼女を思えば、随分と丸くなったものである――軽やかに残りの階段を降りて行った。
今度はアレンが軽い溜息をつく番だったが、同時に暗い気持ちを変えてくれたルーシーにほんの少し――本当にほんの少し――感謝してもいた。
確かに今、一番辛いのはカトリーナかもしれない。
しかしそれと同じくらい、ホーストも、エキドナも、そしてルーシーも、それぞれ辛い思いを抱えているのだ。
こういう時こそ、家族が一つになって、同じ一つの問題に立ち向かわねばならない。
暗くなって塞ぎ込んでいる暇などない。
そんなことを、軽口を交えた会話の中で、ルーシーはアレンに、それとなく示してくれたような気がしたのだ。
…………
……
…
次の日、アレンは工房で道具作り――鉄線を、手巻きで棒を回転させる器具を使ってバネに加工する、というもの――に精を出した後、完成したバネをゴドーに採点してもらいながら、事の一部始終を話していた。
「ふぅむ……色々と、大変だったみたいだな。」
最近では、ゴドーもアレンの身の上話に受け答えをしてくれるようになっていた。
「うん。それでどうかな、そのバネ? 言われた通り、かなり強めに作ってみたつもりなんだけど? 」
「……実際、お前はこういった仕事の方が向いているのかもしれんぞ。現時点でいえばギリギリ及第点、と言ったところだがな。とりあえず、熱した油で焼き戻ししておけ。まぁ、今のところ、取り立てて使う用事もないがな」
「えぇ~? じゃあなんで作らせたの? 」
アレンの反論にゴドーは淡々とした調子で答えた。
「今のお前に、単調な仕事以外のことが務まるとは思えなかったからな」
「ぐっ……」
あまりの正論に、アレンは口答えできなかった。
「まぁ、気にするな。仕事は大方片付けちまったことだし、取り立ててやる必要のあることもないんだからな」
「おぉ~、久々だね、こんなに早くからやることがないないんてさ! お茶でも入れようか? 」
「あぁ、そうだな。だがその前に、アレン。お前に聞いておきたいことがある」
「へ? あ、うん」
急に真面目な雰囲気になったゴドーに、アレンも思わず佇まいを直してしまった。
最近では、ゴドーともかなり打ち解けてきたアレンでも、こういう時はつい体が動いてしまうのだった。
「お前の家に……ホーストに最近どんな依頼があった? 」
「どんなって……あ~、確かいつも通りフリッツの家から金物の製作依頼が何件かあって……あとは……バゴット爺さんの家の耕耘機の刃物の部分の修理とか……そのくらいかなぁ」
「何か変わった依頼はなかったか? もしくは、何かの書状が届いた、とか」
ここまでゴドーが食い下がるのは珍しいことだった。
「い、いや、なかったと思うよ? 多分、だけど……」
――もしかしたら、何か事情があるのかもしれない。
そう思いながらも、アレンは自信なさげに否定を示した。
「……そうか、ならいい。ほれ、さっさと焼き戻しやっちまえ」
アレンの返事を聞いたゴドーはやけにあっさりと退いて行った。
色々と訳のわからないところを抱えながらも、『単調な仕事しか出来ない』今日のアレンは、おとなしく作ったバネをグラグラと泡立つ油の中に慎重に入れ、焼き戻し――鉄に靭性を与える目的で行われる熱処理のこと――の作業に入ったのだった。
しばらくの後、バネの焼き戻しも無事に終わり、ゴドーと共に茶で一服した後、アレンは暇を告げて席を立った。
「……アレン」
帰り支度をしているアレンに、ゴドーは声をかけた。
「ん? 」
「餞別だ。とっておけ」
ゴドーは布で包まれた何かをアレンの手に押し付けた。
驚くアレンが包を解くと、なめし皮で作られた鞘を持つ、やや大ぶりのダガーが姿を現した。
予想外の贈り物に、思わず目を見開いてしまう。
「えっ……なっ……どうして……? 」
「……」
ゴドーはアレンに背を向けて、取り立ててやるべき作業などないというのに、作業場の方へ歩いて行った。
「……野山を歩くとき。薬草を採るとき。まぁ、好きに使え。これから、取りに行くんだろうが? 」
背を向けたまま、ゴドーはそう言って、炉の中に火をつけた。
アレンは、手に持ったダガーをなめし皮の鞘から抜いた。
露わになったのは、覗き込む自身の顔を反射させるほどに磨き抜かれたその刀身。
その色は、煌く銀ではなく、渋く黒ずんだ鉛色だった。
おそらくゴドー本人の作であろうとおぼしき、切れ味鋭そうな刃。
その
「……ありがとう、ゴドー爺さん。大切にするよ」
アレンの言葉に、老鍛冶師は作業場に響き渡る金鎚の振るう音をもって答えたのだった。
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