第10話 年若き剣聖の追憶①


 ――これほど心躍る時間が、果たして存在しただろうか。


 年若き剣聖、ランダル・フォン・フランツベルクは、ふとそんなことを考えていた。


 まるで水鏡のように、くっきりと自分の顔が映りこむほどに美麗に磨きあげられた刀身を持つ、自身の家紋が彫られた片手半剣バスタードソードを振るいながら……


 自身が繰り出すその剣戟の一撃一撃を、険しい表情を浮かべて――鋭い大きな犬歯を剥き出しにしながらも――次々といなしていく目の前の青年を見ながら……


 試合前まではあれほどまでに体中を侵していた、絶望するほどの「飢え」にもよく似た感情が、嘘のように満たされていくのを感じながら……


 ――このまま、時が止まってしまえばいい。


 年若き剣聖、ランダル・フォン・フランツベルクは、ふとそんなことを考えていたのだった。







 十数年という短い人生の中で、剣聖ランダル・フォン・フランツベルクは幾度となく、「強者」と世間一般に称される武芸者達と、公式、野良に関係なく勝負に応じ、その圧倒的ともいえる剣の実力を持って打ち負かしてきた。


 そしてそれは今、目の前で相対しているこの青年とて、例外ではないことを暗に意味している。


 むしろ、かつてランダルが戦い、打ち負かしてきた者たちの中でいえば、この青年の純粋な「武」の実力は、上位にこそ上ることは認めざるを得ないものの、決して一番、というほどではない。


 ここ何世代かでその系譜が廃れてしまっていたはずの、戦鎚を使った戦闘スタイル、という意外性を差し引いたとしても、この事実に変わりはないはずであった。



 そう、そのはずであった。








 剣聖。

 それは、帝国随一の剣豪に与えられる称号。


 年若き剣聖ランダル・フォン・フランツベルクがその称号を得たのは、彼が弱冠十五歳の時であった。


 彼は、神聖帝国騎士団所属、皇都ヴァルマスカ皇帝守護親衛隊隊長である父ゲオルク・フォン・フランツベルクと、聖都カノサリズの託宣の巫女アルデヒャルトとの間に生まれた。

 満天の星空の下、御剣の座が一際光り輝く、とある夜のことであった。


 生まれ出でたその時から、彼は、特別な存在であった。


 お産に立ち会い、産後のアルデヒャルトの世話をしていた助産婦の老婆は、生まれた赤ん坊が、生後たった二日でありながら、両足で立ち上がるのを目撃した。


 もちろん、自力で立ち上がったわけではないが、ほんの少し体を支えてやるだけですっくと、ちいちゃな白い両の足で立ったのだという。


 生みの親である託宣の巫女アルデヒャルトは、出産後の容体が芳しくなく、ほどなくして、生まれたばかりの我が子を残したまま、この世を去ることとなってしまった。


 その今際のきわ――


『我が息子ランダル。

 比類なき力の御業により、底なしの強さを約束され、御剣の座に選ばれた御子。

 その手に持つ剣は、新たなる道を切り開くであろう。

 そして、白の精霊より生まれながらの加護を賜り、

 純然たる使いとしての資質を備えし御子。

 迷える人の子らを導く、一筋の光となるであろう……』


 という、最期の託宣を残して……



 由緒ある家系から生まれた赤ん坊が、実の母である巫女の託宣によって、御剣の座に選ばれ、あまつさえ、生まれながらにして稀代の聖職者としての資質を白の精霊より直々に見出された。


 そんな前例のない出来事を前にして、赤ん坊をどう育てていくかという――ごく普通の家庭ならば、夫婦の内だけで進められてしかるべき――議題は、皇都ヴァルマスカと聖都カノサリズ両都市を股にかけて大いに揺れることとなった。


 議論を大きく沸かせた巫女の予言の持つ意味。


 それはすなわち、託宣の巫女の御子として、聖都カノサリズで赤ん坊を育てることになれば、母アルデヒャルトを凌ぐほどの、白の精霊の純然たる使いとして人々を導くことを意味する。


 そしてまた、皇帝の御膝元であり、父の住む場所でもある皇都ヴァルマスカで育てることになれば、比類なき力を持った剣の担い手になることも意味していた。


 四週間の早産で生まれ、母亡き後の世話係らの間でも、その未来を案ずる声も少なくはなかった赤ん坊――事実、赤ん坊は毎日のように嘔吐を繰り返すなど、とても健康であるとは言い難かった――の進む道は、最終的に神聖帝国皇帝自らの手によって決定された。


 皇帝の取った道は、後者。


 すなわち、赤ん坊のランダル・フォン・フランツベルクを、父のいる皇都ヴァルマスカで育てることであった。


 この決定は大きな波乱を呼び、もはや戦乱のなき時代に、何故剣の担い手を育成する必要があるのかと、この決定に対して批判的な意見も少なくはなかった。


 しかしながら、皇帝自らが下した決定は覆ることはなく、赤ん坊であったランダル・フォン・フランツベルクは、この決定の後、皇都ヴァルマスカに移され、フランツベルク家の屋敷で暮らすこととなった。



 そして、この小さな赤ん坊の〝異常さ〟は、徐々に世間に知れ渡るようになる。



 彼は、生後八カ月になるまでに、棒などにぶら下がって軽々と懸垂をやってみせた。


 また、九カ月ごろには、自力で階段を上り下りするようになり、よく部屋を逃げ出しては、子守り役の侍女たちを困らせた。


 一歳半に差し掛かるころには、体中の筋肉が、同い年の赤ん坊とは比べ物にならないほどに強靭になっていた。


 腹筋が見事なまでに割れ、転倒しても、強靭すぎる腹筋が上体を垂直に近い状態に引き戻すため、決して頭を打つことはなかった。


 癇癪を起して振り回した拳が世話役に当たり、その顔に青痣ができたこともあったほど、その腕力も桁外れであった。


 毎日のように続いていた嘔吐などの症状もいつの間にか収まり、牛の乳が飲めないことと、体に一切脂肪がつかないこと、そして、まったくもって年相応でない妖艶さを纏った微笑みを時折見せることを除いては、ランダル・フォン・フランツベルクは健やかに成長していった。


 驚くべきは、一見して普通の子供とさほど変わらないその身体の骨格筋が、平均をはるかに超えるレベルまで成長し、幼いころから極めて強靭な肉体が形成されていったこと。


 そして、まったくと言ってよいほどに体に脂肪がつかないことがまるで嘘であるかのように、山盛りの食事を一日に六回も摂ることであった。



 そんな驚くべき身体能力を備えた我が子が、武の道に進んで入ることを、父であるゲオルク・フォン・フランツベルクは反対しなかった。


 亡き母の予言の通り、一切の修練を積むことなく、弱冠十二歳にして、手練れの剣闘士グラディエーターを膂力のみで追い詰めることができるほどに、ランダルの武の才は圧倒的であったからだ。


 本格的な修練を初めてから、三年。


 皇都ヴァルマスカで開かれた御前試合において、名だたる強者たちをことごとく蹴散らし、文句なしに優勝を勝ち取ったランダルが、神聖帝国皇帝から公式に「帝国随一の剣聖」の称号を与えられたことで、その武の才と、亡き母が今際の際に残した予言は、公に証明された確かなものとなった。


 そしてこれを機に、父ゲオルクは以前、鍛冶の町ヘファイスの中でも指折りの若き鍛冶職人に作らせた、フランツベルク家の家紋が彫られた自身の片手半剣バスタードソードを息子に与えた。


 そして息子が成人し妻を娶ったとき、正式にフランツベルク家を継がせようと決意したのであった。



 しかしながら、そんな父ゲオルクの考えなどお構いなしに、御前試合に優勝した後のランダルは、父から譲り受けた片手半剣バスタードソードとその身一つで屋敷を飛び出し、そこから一年の歳月が過ぎる頃まで、武者修行の旅に出てしまったのである。


 騎士の遊歴……といえば聞こえはよいが、そこには恋する乙女との甘いロマンスなどかけらもなかった。


 あったのは無茶苦茶な武者修行に明け暮れ、野良試合に明け暮れる日々。

 「強者」がいると風の噂に聞けば東奔西走。ひとたび剣を振れば、あらゆる相手は七転八倒。

 勝利を力づくでもぎ取っていくごとに、年若き剣聖の名は風に乗って町や村々に至るまで広がっていった。


 一年の歳月の後、もはや名実ともに帝国髄一の剣士となったランダルは、自身の武者修行に唐突に見切りをつけ、皇都ヴァルマスカに帰還した。


 手の付けられない放蕩息子の蛮勇を風のうわさで耳にし、この一年常に頭を悩ませていた父ゲオルクも、この帰還の知らせには、さぞやホッと胸をなでおろしたことであっただろう。


 しかしながら、安心したのも束の間であった。


 自身が息子に与えた、家の顔ともいうべき由緒あるフランツベルク家の家紋が彫られた片手半剣バスタードソードが、一年間、毎日のように酷使されてきたうえ、何の手入れもされておらず、刃こぼれと擦り傷だらけのなまくら剣と化していたのだ。


 フランツベルク家の跡取りとしての自覚が微塵も感じられない息子の態度に、さすがの父ゲオルクもあきれることを通り越して、苦笑いであったという。



 …………

 ……



「……はぁ。それで? 」


 事のあらましを一通り聞いた後、耳触りのよく、鈴の音を鳴らすかのように透き通った凛とした声が、可愛らしい口元からこぼれ出る。


「一年ぶりに大手を振って皇都へご帰還なさった我が国の剣聖様は、剣の手入れ不足が原因で三日と経たずにまた旅に出てしまいますの? 」


 その声には明らかに、相手に対する呆れと、これから自分を苛むであろう退屈を憂う陰鬱さとが入り混じっていた。


 会話の相手は誰あろう……


「アハハハ! そういうこと。次の目的地は鍛冶の町ヘファイスってわけ」


 ……剣聖ランダル・フォン・フランツベルクその人である。


 ランダルは目の前の、桜色の可愛らしい唇をつんと尖らせて、ふくれっ面をしている、――世間一般に、かなりの美少女と言って差し支えないほどの容姿を持った――少女の反応を楽しんでいるかのように、柔らかな微笑をその口元に浮かべ、右手に持ったリンゴを齧っていた。


「んもう! せっかくこうして一年ぶりにお話をすることができたというのに、またわたくしをほったらかしにしてそんな遠くへ行ってしまうなんて! 」


 妖しげな艶っぽさを醸し出すランダルの微笑を含んだ表情とは対照的に、少女の表情は年相応で、言葉の通りの気持ちが顔に表れていた。


「ん~~~、そんなこと言ったって、僕が君を一緒に連れて行ったら、今度こそ僕は僕と君の父さまの両方から八つ裂きにされてしまうもの。そうだろう? お姫様 」


 神聖帝国の姫君を前にして、リンゴを齧りながらランダルはこの余裕である。

 もっとも、これにはきちんとした(?)理由があるのだが……


 皇都ヴァルマスカ皇帝守護親衛隊隊長である父ゲオルクは、その職務上皇帝と近く、幼いころからよく、年の近い自分の息子を、姫君の遊び相手として城へ連れてきていた。


 他に兄弟のいない姫君はランダルよりも二つ、三つ年下で、ランダルとは、本当の兄弟のように育てられてきた。


 それゆえ彼女は、彼の時折ぶしつけに過ぎるような言動もまったくもって意に介することはないのである。


「……はぁ。またそんなことをおっしゃって……お帰りはいつごろになりますの? 」


 遊びに混ぜてもらえずに拗ねている少女よろしく、姫君はその華奢な体を小さく揺すりながら、上目づかいにランダルを見つめている。


「さぁ、ね。何か面白いものがあったら、その分帰りが遅れるってことだけは言えるかもね? 」


 ランダルはいい加減な調子でそう言い放つと、リンゴの最後の一口を――芯ごと――口の中に放り込んだ。


 テラスに出る大きな窓を開け放ち、外に出て陽の光を浴びながらゆったりとした動作で伸びをした。


 その一本一本がまるで純銀を溶かして作られたかのような美しい銀髪が、柔らかな陽光に照らされることで、その美しさを一層引き立たせていた。


 そんなランダルの様子をじぃっと見つめていた姫君も、ふと我に返ったかのようにコホン、とわざとらしく咳払いをして、いそいそとテラスに出た。


 柔らかな陽光は、姫君の髪をもまた同じように優しく照らし出し、その色白の頬に薄い紅をさし――もっとも、これは、陽の光が原因なのかどうかは怪しいが――その美しさをより一層引き立たせる。

 彼女の艶やかな髪の色は、ランダルのそれとは対をなす金髪。


 まるで金色の陽光を浴びたハチミツのようなその髪の色は、彼女が皇家の人間である証でもあった。


 姫君と剣聖は、その日の日が暮れるまで、共に庭園を散歩し、東屋あずまやで語らい、同じ時を過ごした。


 幼いころからの話し相手であったランダルとの一年ぶりの他愛のない会話は、姫君に退屈さを忘れさせ、ランダルが話す冒険譚は、その心を躍らせるものであった。


「さて、と」


 日が沈みかけた頃、ランダルが脇に控えていた侍女に目配せをすると、侍女は素早くランダルにマントを着せた。

 いとまを告げる合図である。


「あ……もう、行ってしまいますの? 」


 さっきまでとは打って変わって、その青い瞳が良く映える色白の可愛らしい顔に悲しげな影を落として、姫君は静かに囁くような声を出した。


 年相応な少女が出す、もの悲しげな声であるにも関わらず、その声には早くも、大人の女性が持つ、寂しげで虚しげに響く艶が感じられるようであった。


「うん。今度帰ってきたら、今までの旅のことを話すよ。暇つぶしくらいにはなるんじゃないかな? 」


 その口元からは決して微笑を絶やさず、ランダルは大きなオーク造りの分厚い扉に手をかけた。


 ギィ、と重い音を立てて扉が開く。


「そう……ですか……では、楽しみにしていますね? 」


 背を向けてゆっくりと歩き出すランダルに、ひどく小さな声で、姫君はそうつぶやいたが、彼女の言葉が彼に届いたかどうかはわからない。


 飄々と歩き去っていくランダルを見つめていた姫君は何かを思い出したように、ふるふるとかぶりを振り、キリッとした面持ちを無理矢理作って、一年前と同じ別れの言葉で会話を締めくくった。


「……御身の無事なご帰還をお待ち申し上げていますわ。ランダル・フォン・フランツベルク」


 耳触りのよく、鈴の音を鳴らすかのように透き通った凛とした声が、静かに響く。


 その声に年若き剣聖は足を止め、くるりと振り返る。


「それでは。御身に安らかなる星の加護があらんことを」


 胸に手を当てて、丁寧な挨拶を返す。


 これは、相手に敬意を払う時の挨拶の仕方である。


 この挨拶に少しばかり寂しげな表情を浮かべる姫君の気持ちを知ってか知らずか―――前者であることを願いたいものだが、おそらくは、後者であろう……―――ランダルは最後にこう付け加えた。


「――次はすぐ会えるから。またね、フラウ」


 幼いころの愛称で別れを告げたランダルの言葉は、皇女フラウディアのまだあどけなさの残るその顔を、可愛らしい笑顔で輝かせるのには十分なものであった。


 そんな無邪気な姫君にどこか寂しげに微笑みかけ、ランダルは踵を返し、部屋を後にした。



 そして、それと同時に、再びギィ、という重い音と共に、オーク造りの分厚い扉が閉まったのであった。



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