隣人

三鹿ショート

隣人

 数日前に引き越してきた隣人が、騒がしい。

 この集合住宅の壁はそれほど薄くはないはずだが、男性と女性の罵り合う声が私の部屋にまで届いてきている。

 最近は多忙で朝早くに出勤し、帰ってくる頃には日付も変化していたため、引き越してきたことは知っていたが、どのような人間が住んでいるのかまでは不明だった。

 ようやく仕事が落ち着き、早く帰宅することができるようになったと喜んでいたが、これでは気が休まらない。

 口喧嘩というものにはあまり良い思い出が無かったため、私は自身の部屋を出ると、隣室の呼び鈴を鳴らした。

 鳴らしてから、どのような言葉で喧嘩を止めさせようとしていたのか、考えていなかった自分に気が付く。

 脳内で様々な台詞を思考しているうちに、隣室の扉が開かれた。

 引き越して以来、初めて顔を合わせるために、まずは自己紹介でもしようかと思っていたが、隣人の顔を見た瞬間、私の頭は真っ白になった。

 隣人であるその女性には、見覚えがある。

 かつて、私の家族を破滅に導いた人間だったからだ。


***


 当時の彼女は学生であり、私はそれよりも年齢が低かった。

 派手な格好をすることはないが、その美貌は近所でも評判であり、異性たちは思わず彼女の姿を目で追うほどだった。

 行儀も愛想も良く、彼女に対して負の感情を抱いている人間は皆無といってよかった。

 そんな彼女だが、特定の相手と交際関係にあるというわけではなかった。

 愛の告白をされることは日常茶飯事だったが、勉学を優先するという理由で、全て断っていたらしい。

 ゆえに、彼女が私の父親と道端で接吻している姿を目にしたときは、驚きを隠せなかった。

 思わず身を隠したが、舌を絡め合うほどの濃厚なその行為から目を離すことができなかった。

 それから彼女は私の父親の手を引くと、繁華街へ向かって歩き出した。

 気付かれないようについていき、やがて二人がとある宿泊施設の中へと消えていくところを目撃した。

 私の父親は、家族を裏切っていたのだ。

 しかも、相手は娘のような年齢の少女である。

 それまで私は文句も言わず、黙々と家族のために働く父親のことを尊敬していたが、それは失墜した。

 その日以来、父親に対する私の態度は一変した。

 母親はその態度を何度も注意してきたが、事情を話すわけにもいかなかったため、私は無言を貫いた。

 私が黙っていれば、家族が崩壊することはないのだ。

 平穏な日常を続けるためにも口を閉ざさなければならないと考えていたが、それはある日突然、終焉を迎えた。

 何者かが、私の父親と彼女による逢瀬の瞬間を撮影した写真を、郵便受けに入れたのである。

 当然ながら、母親は父親を問い詰めた。

 父親は己の非を認めながらも、原因は自身に対する愛情の無さにあると、家族を責め始めたのだ。

 自分は黙って金を運んでくる機械ではないと叫ぶ父親と、そのようなことは不貞行為の理由にはならないと喚く母親。

 その口喧嘩は毎日のように続き、当然の帰結として、二人は別れた。

 私は父親についていくつもりなど毛頭なかったため、母親と二人で、慎ましやかな日々を送ることになった。

 生活は苦しかったが、特段の問題も起きない平和な毎日を過ごすことができた。

 そのうち、彼女に捨てられた父親が縒りを戻そうとやってきたが、当然ながら追い払った。

 あの写真を誰が用意したのか、今でも不明である。


***


 呆けている私に、彼女が心配そうな声をかけてくる。

 どうやら彼女は私のことを覚えていないらしい。

 あまり接触したことがなかったため、無理も無いだろう。

 しかし、その態度は、あまりにも我々家族を馬鹿にしていないだろうか。

 いわば加害者である人間が被害者のことを覚えていないなど、反省の情をまるで感じさせない。

 怒りで顔面が熱くなってきたが、ここで騒いで問題を起こし、私が集合住宅から追い出されるような事態は避けたかったため、深呼吸を繰り返し、気持ちを落ち着かせる。

 やがて、私はさも心配しているような態度で、

「喧嘩をしているような声が聞こえましたが、大丈夫ですか」

 我ながら、良い役者である。

 血が滲むほど拳を強く握りしめていることに気付くこと無く、彼女は申し訳なさそうに頭を下げた。

「騒がしくしてしまい、申し訳ありませんでした。子どもの進路について、主人と揉めていたのです」

 そう告げる彼女の背後には、少女が隠れていた。

 少女は不安そうな眼差しで私を見つめている。

 私が口元を緩めながら手を振ると、ぎごちなく手を振り替えした。

「余計なお世話でしょうが、口喧嘩をしていると、子どもは不安になってしまいます。冷静に話し合った方が良いと思いますよ」

 そう助言すると、彼女は首肯を返した。

 今後は気を付けると言い残し、彼女は扉を閉めた。

 自室へ戻り、壁に目をやりながら、私は彼女に対する報復を考え始めた。


***


 私は彼女たち家族にとって、良い人間を演ずることにした。

 彼女の夫を食事に誘っては愚痴を聞き、彼女が外出の際は幼い娘を預かるなど、頼ることができる隣人という地位を築いていく。

 やがて、私は彼女たちから信頼を得、娘の学校行事にも顔を出すようになった。

 まるで、私もまた家族の一員のようである。

 だが、私にとって家族とは、彼女が破壊したもののみである。

 彼女に対する恨みを一秒たりとも忘れることなく、接していく。

 そのような生活を何年も続けているうちに、そろそろ動き出すべきかと考えた。

 まず利用するのは、彼女の娘である。

 思春期を迎えた頃から、彼女の娘が私に対して熱烈な視線を送っていることには気付いていた。

 その感情を使い、我々と同じように、隣人一家も崩壊させる計画である。

 娘に罪はないが、罪人である彼女の血を引いているのならば、同罪であろう。


***


 私が彼女の娘に対して好意を抱いているということを告げると、娘はあっさりと私を受け入れた。

 娘の両親に明かすことなく、愛情を深めていく。

 一度身体を重ねてしまえば警戒心は緩み、それに対して私への愛情が深まっていき、私の要求を何でも受け入れる姿勢を取るようになった。

 ここからが、重要である。

 私は彼女の娘に対して、変態的な要求をするようになった。

 最初は抵抗感を示していたが、一線を越えてしまえば、問題は無くなる。

 やがて、私は他者に抱かれている姿にこれ以上は無い興奮を覚えると伝えると、彼女の娘は喜んで私以外の人間たちと身体を重ねていった。

 そのうち、相手の男性たちに依頼し、彼女に薬物を投与させた。

 彼女の娘の意識は吹き飛び、もはや眼前の人間が何者であるのかを判断することができないほどと化した。

 そんな彼女の娘を、私は隣室の前に放置した。

 帰宅した彼女は、娘のあまりの変貌に衝撃を受け、すぐに病院へと連れて行った。

 娘を心配そうに見つめる彼女に、私は追い打ちをかけることにした。

 一葉の写真を、郵便受けに入れたのである。

 それには、彼女の夫が見知らぬ女性と身体を重ねている姿が写っていた。

 私が彼女の夫を誘惑するようにと依頼した女性は、上手くやってくれたようだ。

 次々と襲いかかる不幸に、彼女はその場に崩れ落ちた。

 放心状態の彼女に、私は耳打ちをする。

「家族が滅茶苦茶になった気分は、悪いものだろう」

 最初は私が何故そのような言葉を口にするのか分からなかったようだが、やがて彼女は何かに気付いたように私の顔面を指差しながら、

「まさか、あなたは」

「今さら気が付いたところで、手遅れだ。己の行為を悔やむがいい。悔やんだところで、家族が元通りになることは無いだろうがな」

 私がそう告げると、彼女の双眸から涙が流れ始めた。

 笑いが止まらない。

 大声で笑いたいところだが、周囲の人間が集まってきては困るため、私は表情を歪めるだけに留めた。

 しかし、彼女の口元が緩まると、私の脳内は疑問符で満たされる。

 ここで、何故そのような余裕の態度を見せることができるのか。

 そんなことを考えていると、彼女は可笑しそうな声色で、

「何故、あなたの父親と私が関係を持ったのか、教えてあげましょうか」

 彼女はゆっくりと立ち上がると、壊れた人形のように首を傾けながら、

「あなたの母親が、私の父親と関係を持ったことに対する復讐です」

 彼女は一体、何を言っているのだろうか。

「そのような虚言は信ずるに値しない」

「あなたがどう思おうが、これは真実です。しかし、私は自分の母親にそれを伝えるわけにはいかなかった。伝えたところで、良い結末が待っているわけがないことは分かりきっていたからです」

 彼女は私を指差しながら、

「あなたは私を恨んでいるようですが、先に喧嘩を売ったのは、あなたの家族の方なのです。だからこそ、私はあなたの父親との写真を撮影し、あなたがた家族の関係が崩壊するようにしたのです」

 私は彼女の言葉を信ずることができなかった。

 彼女から距離を取りながら、

「そのようなはずがない。私の母親は、そのようなことをするわけがないのだ。自らが罪人ならば、あれほど父親を責めることはできなかったはずだ」

「自分のことを棚に上げていただけでしょう。つまるところ、あなたがた家族の中に真面な人間は皆無だということです。母親は他人の夫と不貞行為を働き、父親は娘ほどの若さの相手と関係を持ち、息子であるあなたは、被害者面をして罪も無い私の娘と夫を陥れたのです」

 勝ち誇ったような表情を浮かべる彼女を見ていると、立場が逆転したのだと感じてしまう。

 だが、認めるわけにはいかなかった。

 私にとって彼女は、家族を崩壊させた張本人であることに変わりは無いのだ。

 気が付けば、私は彼女の首に手をかけていた。

 苦痛に襲われているにも関わらず、彼女は余裕の態度を崩そうとしない。

 私は、さらに力を込める。

 私が間違っていたとするならば、それは彼女本人に報復をしなかったということだ。

 最初からこのようにしていれば、話は簡単だったのである。

 周囲がにわかに騒がしくなり、他の住人たちが顔を出し始めたが、私が手を緩めることはなかった。

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隣人 三鹿ショート @mijikashort

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