第59幕 心の灯~ともしび~ 6
暗闇の霧の中、ぼんやりとした光が宙を舞う。
―…お母さんを助けて…―
その光は僕の心に話しかけてくる。
―ウィルソンに傍に居て欲しいなぁ、なんてぇ…。お願い、します…―
…そうだ…約束したんだ…君と…。
―…お母さんを助けてくれるって約束したのに…、嘘つきだね。ウィルソンお兄ちゃん。―
そんなことないさ…、でも…身体が冷たくて重いんだ…。
―お母さんはあなたを待っているのに…―
わかってる。約束したんだ、絶対離さないって。
―このまま"目を閉じたら"お母さんに会えなくなるよ! 起きてよ!ウィルソンお兄ちゃん!―
ありがとう、ルシアさん。
闇を漂う小さな光は、やがて高く舞い上がり、雲間から差し込む天使の梯子のような優しい光によって闇を掻き消していく。
ひんやりと冷たいコンクリートの地面。
徐々に開いていく瞼、目の前に見てた物は僕の左腕。
視界が鮮明になり見えたのは小指のピンキ―リングとひしゃげた腕時計。
こんな僕にも愛する人が、守りたい人が出来たんだよ。
それによって気付いたんだ。
かつて好きだった初恋の人…、
それが君だったんだよ。
約束したんだ、絶対離さないって…。
だから…会いに行くって決めたんだ。
約束だから…。
目も見える、指先も動く、音も聞こえる。
「…会いに…行かなきゃ…」
声も出せる。
「ウィルソン!お前…平気なのか…」
目の前にはキースが立っていた。
青ざめた顔で僕を見つめている。
「キース…怪我してる…治さないとね」
キースは肩を押さえている、切り傷みたいだ。
「なぁ、ウィルソン…」
ウィルソンは今までのやりとりがまるでなかったかのように平然と立ち上がり、膝の汚れを払う。
「その傷、治すね」
ウィルソンはそう言うとキースの右肩に左手をかざした。
「ウィルソン…なにを…。―っく!」
ウィルソンのかざした手の周囲だけ、直射日光を間近で浴びているかのようにジリジリと熱を帯びた。
するとみるみるうちに傷口が塞がっていく。
「流れた出た血は戻らないけど、傷は直したよ」
「お前…身体は無事なのか?…その力は…」
傷口は完全に塞がり、ウィルソンは左手を下ろした。
「僕は何ともないよ。時計は壊れちゃったけど…」
ウィルソンの顔には打撲痕や傷はひとつも無い。
そんなバカな…、おもいっきりぶん殴って顔面の骨だって逝ってるはずだろ…。
「キースは少し休んでいてよ。僕一人で森に行ってくるから」
「何言ってんだよ!獣だって出るだろ!」
「大丈夫。思い出したんだ、約束してた場所…」
「…約束?」
「待ってて…」
ウィルソンはそう言ってスタンドの敷地から出て行く。
夜空に浮かぶ満月を見上げたウィルソン。
「…キース…」
一言言って振り向いたウィルソン。
「このことは…アリシアには…内緒ね…」
口の前に人差し指を当て、優しい目をして微笑んだウィルソンの瞳は一瞬金色に反射した。
「…おぅ……」
ウィルソンは暗闇の森の中へ消えて行った。
―――――
助産師から"子宮口の開きが8㎝です"と報告を受けてから一向に状況は変わらない。
「―っふー、んん~!…はぁ…はぁ」
分娩室に入ってから何時間が経っただろう。
気が遠くなるほどに、体力を消耗していく。
力を振り絞って息むカリーナの手の握力、強くグラジスの手の甲に食い込むカリーナの指先は血の気を失い真っ白になっている。
「―んんーっ!!あぁーいたぁーい!」
息を殺して息むだけで済む訳もなく、耳にキーンと耳鳴りが残るほどの悲鳴をあげるカリーナ。
「…がんばれ」
傍に居てがんばれしか言ってあげられない、助産師と一緒になってカリーナの腰を撫でてあげることが今できる精一杯。
カリーナの広げる足の間に助産師がもう1人加わり2人体制になった。
「がんばれお母さん!頭見えてるよ!」
「もうすぐだよ~、がんばれ~」
定期検診時に説明を受けて想像していたよりも何倍も壮絶な生命の誕生の瞬間に立ち合っている。
「っんんー~っ!くあぁー!」
助産師に励まされカリーナも息んで力を振り絞る。
―…んぎゃー…おぎゃー…―
待ちに待った小さな命は元気な産声を上げた。
「うまれましたぁ」
「おめでとうございまぁす、元気な女の子です」
毛布にくるまれた赤子を見た瞬間涙が零れた。
「はぁ…やっと…会えたぁ…よかったぁ…」
カリーナのおでこにキスをして頭を撫でた。
「生まれた…、頑張ったね…。ありがとうカリーナ…」
「…うん…、ありがとうダーリン…」
「3時14分、2710gの元気な女の子ですよぉ」
身体の羊水を拭き取りへその緒を切る施術も終わり、助産師の腕の中には毛布にくるまれた我が子がカリーナの腕の中に手渡される。
「はじめましてぇ…おかあさんですよぉ」
なんて愛らしい光景だろう。
家族が増えて未来を語る幸せ。
その瞬間瞬間でしか味わえない幸せがかけがえのな宝物になる。
支え合って生きていくんだ、3人で。
―――。。。
濡羽色オオカミの巨体がくの字に曲がり宙を舞った。
濡羽色オオカミの巨大に、漆黒、焦茶、白銀3体の影が同時に突進撃を浴びせた。
木に叩きつけられたオオカミの巨体、衝撃に耐えきれる訳もなく、次々と森の木々をなぎ倒していく。
霞む視界の中で馴染みのある臭い…。
「おとう…さん…、ブチ…」
漆黒と白銀は妙に懐かしい臭いに気付いた。
「おう、兄貴」
「おう、デカくなったなチビすけ…」
かつて故郷で別れた白銀のオオカミが、俺より1.5倍の体格に成長していた。
だが、その背中には十字に避けた切り傷があった。
「お前…その傷…」
「"家族"を守って付いた傷だ、大したことはない」
痛みなど感じさせない凛とした顔つきは、家族を守る父としてと、森の長としての勇ましさを思わせる風格があった。
この町にたどり着いた時から感じていた違和感は懐かしい匂いと共に察しが付いた。
″虫の知らせ″というヤツだ。
こいつに死が近づいていることを知らせる、胸のざわつきなのだと。
木にもたれ掛かるカリーナにブチが近く。
「ガガウッ!」(大丈夫かシロ!)
「カリーナちゃんに触るな…」
なんだ、ウィルソンの様子がおかしい…。
(どうしたウィルソン!)
レオンの声は今のウィルソンには届かない。
「この子は…私の家族だよ…?」
「グフ…」(なんだあいつ…?)
さっきまでの優しい表情とは違いギラリと目付きの変わったウィルソンがブチを睨む。
「だめだよブチ!この人は良い人だから」
「グル、ガウッ!」(お前の敵はダダだろ!)
ブチはウィルソンの目を覚まさせようと、ウィルソンの身体に飛びつき地面に押し倒した。
「僕が!守ら…ないと!」
こいつは正気を失っている。
「ガガウ!」(目を冷まさせウィルソン!娘は生きるぞ!)
レオンはウィルソンの頬を尻尾で叩いた。
「……ぁ…レオ…ん」
ウィルソンが正気を取り戻したようだ。
「しばらく見ねぇうちに堕ちたもんだな、そのガキも」
かつて背中に乗せて草原を疾走したことは今でも思い出す。
「あぁ、お前が連れてきた厄介なガキさ。おかげさまで苦労している」
ウィルソンに俺のことを"兄貴"と紹介したのはやはりお前だったか。
4匹のオオカミの相手をする団長とキースもウィルソンが無事なことに安堵した。
「ったく…ウィルソンのやつ心配させやがって。おぅらっ!」
飛び掛かってくる2匹のオオカミをステッキでいなした団長は、1匹のオオカミの前脚を掴みもう1匹のオオカミに叩き付ける。
「あの白オオカミは良いヤツみたいですっね!」
ディアボロ用スティックをヌンチャクのように振り回すキースは、左右、頭上、背後とオオカミの突進の入り込む隙も与えないほどの素早い立ち回りを見せる。
ヌンチャクなんていうものを知る由もないオオカミ2匹は素早く回転するスティックの餌食になる。
側転による遠心力も加わったスティックの威力は骨にヒビが入る程だ。
此処に来る途中で対峙した時のダメージが癒えていなかったこともあり、体力の有り余った団長とキースの攻撃力を前にオオカミたちは立ち上がることが出来ない。
「「よしっ!!」」
起き上がって来ないオオカミたちにはそれ以上危害は加えず、ウィルソンとレオンの援護に加わった。
「レオン、ウィルソン大丈夫か!」
「グル!」(あぁ!)
ウィルソンの上に馬乗りになる焦茶オオカミはカリーナを庇うように立ち身構える。
―「グガォォォォオ!!」
森の茂みの奥から濡羽色オオカミの咆哮、分かってはいたが容易くくたばる玉じゃねぇ。
口から血を垂らしながらそろりと姿を現した濡羽色オオカミ。
「安心するのはあいつを倒してからだなぁ!」
「久々の共闘だなぁ兄貴ぃ!」
十数年ぶりの友との再会で、背中の傷の痛みなど吹き飛ぶほどの武者震いが肉体を強化する。
「…ぁ、レオン兄貴さん…ぼくは…」
「ガウッ!」(起きろ!まだ終わってねぇぞ!)
「ガルル!」(お前の殺気、確かに伝わったぞ!)
目の前のただのデカブツに臆するものか。
生まれ持った肉食獣の血統と魂の共鳴により、逆立つ毛先から放つ狂喜と殺気は最高潮だ。
「ウィルソン!娘を守れ!これ以上傷つけさせるな!」
団長がウィルソンに指示を出す。
「はい!僕はまだやれます!」
ウィルソンも立ち上がる。
戦意喪失はしていないようだ。
濡羽色オオカミの血走った獲物を狩る視線はウィルソンを捕らえている。
―あのガキから感じた瘴気はなんだ…。
この俺が、あんなガキに怯んだだと…。―
一瞬でも油断した己の未熟さに腹が立つ。
あのガキは必ず始末する。
ピリピリと肌を刺す殺気にウィルソンも気付いた。
…僕を殺しにくる。
ただ、カリーナちゃんをこれ以上傷つけないために、僕は逃げちゃいけない。
濡羽色オオカミは前傾姿勢を取り、怒りに満ちた咆哮と共にオオカミの周囲をつむじ風が巻き上げたような瘴気を放つ。
「くっ!なんだこの瘴気は!」
「ち…近づけない…!」
団長やキースのような大人ですら、突如吹き荒れる瘴気に怯んでしまう。
「…うぅ…」
偏頭痛と寒気が身体を襲う瘴気に圧され膝を着いたウィルソン。
山の頂上に近づくにつれ濃くなっていく灰色の霧と嫌悪感はヤツが放つ残り香だったのだろう。
無理もねえ、ウィルソンの小せぇ身体じゃ耐えられねぇ圧だ。
「グガゥ!!」
隙のできたウィルソンを一息に喰い殺そうと牙を剥く濡羽色オオカミ。
「逃げる…もんか…」
ウィルソンは地面に膝を着いたまま両腕を広げ、背後にいるカリーナとブチを守ろうとする。
カリーナはウィルソンの小さな背中に守られていることを実感し喜びを感じた。
「ウィル…ソン」
この人は、良い人なんだって信じられる。
カリーナの口から小さく発した名前を聞いたブチは瞬時に喉を鳴らした。
―そうだ、お前が居るべき場所はここじゃない―
ウィルソンの頭を踏み台に勢いをつけ濡羽色の巨体に立ち向かうブチ。
「ブチだめっ!!」
ブチの咄嗟の行動にカリーナが叫ぶ―。
…ズシュ…と鈍い音と共に血飛沫が舞う。
濡羽色の巨大の動きが止まり静寂に包まれた。
「…何が悲しくて獣どものいざこざにまで巻き込まれなきゃならねぇんだったく!」
「団長さん!」
目の前には濡羽色オオカミの巨大に立ち向かう団長の大きな背中があった。
団長は濡羽色オオカミの大顎が閉じ切る前にステッキを縦に刺し込み助けに入ったのだ。
ステッキは濡羽色オオカミの上顎を貫通、勢いの死んだ牙でブチの胴体が真っ二つにならずに済んだ。
ブチは濡羽色オオカミの口蓋に噛み付いた。
「もういいよブチ!」
カリーナが濡羽色の巨体に食らい付くブチを引き剥がす。
勢い余って地面に倒れ込むカリーナとブチ。
「ブチ…」
「グフ…」(シロ…)
怯むこともなく濡羽色オオカミは続け様に団長に向け左前脚の応酬をくりだす。
「っふ!させねぇっての!団長こういうの大好きでしょ!」
キースはディアボロスティックを鞭のように濡羽色オオカミの前脚に巻き付け手繰り寄せ団長への攻撃を阻止。
「まぁな!」
(ぐぬっ!小癪な人間ども!)
「―グガァォォオ!!」
「ぐっ!」「うわ!」
再び巻き起こった瘴気のつむじ風で団長とキースを弾き飛ばす。
つむじ風の間を掻い潜り漆黒と白銀が牙を剥く。
漆黒は濡羽色の左脇腹に、白銀は濡羽色の喉元に食らい付く。
―おやっさんが作った一瞬の隙、この期を逃してなるものか。
―たとえ四肢がもげようが、こいつと道連れになろうが一度噛み付いた獲物は離すまい。
「グォォォォオ!!」
濡羽色は纏わりつく漆黒と白銀を振り払おうと身体を激しく揺らし地団駄を踏む。
喉元に噛み付く白銀は地面に激しく叩き付けられる。
深い背中の傷口からは血が吹き出すが、食らい付く顎の力は緩めはしない。
ダメだ。
このままじゃレオン兄貴さんもオオカミさんも団長さんもキースさんも怪我だけじゃ済まされない。
誰か…助けて…。
ウィルソンはぎゅっと目を瞑り、ただ祈ることしか出来なかった。
―君は優しい子供だね―
―力を貸そう、人間の子供―
耳に届いた声とふわりと頬を撫でた優しい風はウィルソンを追い風のように通りすぎた。
通りすぎた風は濡羽色オオカミの脚を掬い上げ、オオカミの巨体を宙へと浮かす。
「…グゥ!」(…なんだこの風は!)
―この人たちを助けるんだよ―
―お前は悪さをし過ぎた―
濡羽色オオカミを宙へ浮かす正体、それはこの山でオオカミたちの愚行により悲惨な死を遂げた動物たちの魂が風となり姿を表したもの。
「なんだいったい!」
「オオカミの巨体が浮いて…」
団長にもキースにも状況が把握出来ない。
(離れろチビすけ!)
(あぁ!)
浮いた巨体から口を離す漆黒と白銀は地面に着地、白銀はよろめいて膝を着く。
…さすがに…血を流し過ぎた…か。
霞む視界の先には頭を伏せて身を守るカリーナとブチの姿があった。
「グルッ!…ガウッ!」
(兄貴!少年!……シロを、頼む!―)
「…っ!」
「オオカミさん…」
それはレオンにもウィルソンの耳にも、そしてカリーナの耳にもはっきりと聞こえた。
「おとう…さん…?」
白銀オオカミは宙に浮く濡羽色オオカミの脚に噛み付き地面に叩き付け、地を引き摺りながら森の中を疾走する。
「お父さんヤだっ!」
「カリーナちゃん!」
父親の後を追いかけようと走り出すカリーナをウィルソンはくい止める。
白銀オオカミが濡羽色オオカミを引き摺り疾走していった後の森は禍々しさと静寂だけが残る。
「おとうさん!このままじゃおとうさんが!」
「…ダメだよ!危ないからここに居て!」
ウィルソンは今にも走り出してオオカミを追いかけようとするカリーナを止めるので精一杯だ。
「グルッ!ガガウ!」(ウィルソン乗れ!娘も一緒にだ!)
「レオン兄貴さん!」
レオンはウィルソンに背中に乗るように指示を出す。
悩んでいる暇はない!
「行こう!一緒に!」
カリーナに手を伸ばし、レオンの背中に乗って見せるウィルソン。
「うん!」
カリーナはウィルソンの手を取り、ウィルソンの腰に強く抱き付いた。
「お願いレオン兄貴さん!」
「ガウッ!」
動物たちの魂は濡羽色オオカミの体力を奪い、瘴気を抑え付けられた巨体は為す術なくただ地面を引き摺られるのみ。
木々や岩肌に激突しては傷ついていく濡羽色の巨大、己の身体も悲鳴を上げる。
濡羽色オオカミは白銀オオカミの脇腹に噛みつき必死の抵抗をする。
動物たち魂の力により体力を奪われ、噛み付く顎の力も微弱で生ぬるい。
「おのれ!放せ亡霊どもっ!」
…苦しい…、早く…解放してくれ…。
木々の生い茂る森林地帯を抜けた先は岩肌の鋭く尖った崖縁だ。
「ガガウッ!」(チビすけ!)
「おとうさん!」
背中にウィルソンとカリーナを乗せて疾走するレオンが追い付いた。
「グフ!」(お前たち!)
だが崖の下は先の見えない奈落の底。
落ちればただでは済まないだろう。
地を這いずり回る濡羽色の巨体は宙に浮き、白銀オオカミの後ろ脚が地を蹴ると同時にレオンが横並びに飛ぶ。
「ガルルっ!」(おとうさんっ!)
レオンの背中に乗るカリーナは父親に救いの手を差し伸べる。
地から脚の離れた身体は奈落の底に落ちるのみ。
―…お前には…まだ未来がある…―
必死に私の腕を掴もうと手を伸ばす娘の泣きじゃくった顔を横目に優しく囁く。
―…達者でな…シロ…―
「…わりぃ兄貴」
「っ!グゥ!」
静かに良い放った白銀オオカミは宙に浮く身体を90度身体をひねりレオンの腹を思い切り蹴り上げ崖縁に押し返した。
白銀オオカミの咄嗟の行動に面食らったレオンは受け身を取れず地面を転がった。
「オオカミさん!」「おとうさんっ!」
ウィルソンとカリーナの叫びが虚しく響く。
背中の深い十字傷と体力の消耗した白銀と魂に精力を吸い取られ金縛りに合う濡羽色の2体のオオカミの速度の増した巨体は抵抗する力も無く落下する。
「お前も地獄に道連れだ。穢れたデカブツよ」
「…ようやく…か」
「?!…お前…」
まるで死ぬことを望んでいたかのように小さくつぶやいた。
私に噛み付くヤツの牙には殺意はおろか精気すら感じられなかった。
一度暴走した己の力が自我を越え、いつしか制御出来なくなっていた我を鎮める者が現れることをずっと待ち望んでいた。
あぁ…ようやく…終われるのだな…。
照り付ける太陽に身を焦がされながら、最後に見た遠くの景色が、こんなにも美しいとは…。
40m崖下の森の木々に身体を打ち付ける。
受け身の取れない濡羽色の巨体は石製の祠の屋根に激突、祠は粉々に粉砕し砂ぼこりをあげる。
反動で投げ出された白銀オオカミは石畳の階段を力無く転げ落ちる。
ようやく動きが止まり、辺りは静まり返る。
一切の光も届かない暗闇の森の中、地面を覆い尽くす蓄光植物"ジュエルオーキッド"の放つ淡い緑色の光だけが唯一の明かり。
濡羽色オオカミの巨体は粉砕した祠の上で天を仰ぎぐったりとしている。
白銀オオカミの背中の傷から鮮血が吹き出すしている。
足腰に力が入らずガクガク震える白銀オオカミは絶え絶えの息の中、身体を起こし濡羽色オオカミに目を向ける。
濡羽色オオカミに取り憑いていた亡霊は蜃気楼のように揺らめいてオオカミの身体から離れていった。
…どうやらこいつにも、完全には侵蝕されなかった″良心″の部分が残っていたようだ。
6段ある石階段の中段で止まったボロボロの身体を引き摺って白銀オオカミは濡羽色オオカミに歩み寄る。
私もかつては悪事を働き、無差別に命を殺めた過去がある。
同じ山に生きた獣としてお前を許そう。
「ガガウッ!」(チビすけ!)
「おとうさん!」「オオカミさん!」
あの崖を降りて来たのか、兄貴とシロと少年の声が頭上から降ってくる。
近付いてきた足音は私の首元に腕を回し優しく抱き寄せた。
「グルル…グル…」(おとうさん…ごめんなさい…)
「…グゥ…」(…シロ…)
…お前が無事なら、それで良い…。
静かに喉を鳴らしシロに身体を預ける。
「…グフ…」(…あいつの傍に…、行かせてくれ…)
「…オオカミさん」
(あいつの…傍?)
白銀オオカミは首を曲げ、濡羽色オオカミが横たわる祠をレオンとウィルソンに示す。
(あいつに寄り添えるのは…俺だけだ。…死ぬ時ぐらい…一緒に居てやるさ…)
(ウィルソン!チビすけを運ぶぞ!)
「はい!」
レオンは白銀オオカミの腹の下に潜り込み、ウィルソンは腰元を支える。
「…一緒に運ぼう」
「……グスン…」
もう時期父親が死ぬことがわかっているカリーナちゃんは鼻をすすりながら父親の頭を支える。
3人係りで白銀オオカミを祠の傍までゆっくり運ぶ。
「…グフ…ガウ…」
(…泣くなシロ…、お前の笑顔は…
私の救いなんだ…笑っていろ…)
「…ぅ……ぅん…」
泥にまみれた細い腕で涙を拭うカリーナ。
「…ガルル…」
(…兄貴…少年、シロを…頼む…)
「はぃ…」
(…あぁ…)
ウィルソンもレオンも小さく返事をした。
濡羽色オオカミの横たわる祠の傍までたどり着き、白銀オオカミを地面に下ろそうとした時だった。
暗闇の森の中、ふわりと舞い込んできた風が白銀オオカミと濡羽色オオカミを包み込む。
………―ありがとう―……
ジュエルオーキッドの淡い緑色は光を強め、鱗粉が風に乗るように光が宙に舞う。
白銀オオカミと濡羽色オオカミを包み込む風は光を巻き込み、天高く上がっていった。
(…戻るぞウィルソン)
レオン兄貴さんは淡々と指示を出す。
「…カリーナちゃんは僕が守るから…、
…約束するよ」
ウィルソンはカリーナの手を取り、優しく言葉を紡いだ。
ウィルソンからの言葉が何よりも嬉しくて…。
「…約束……うんっ!」
カリーナはウィルソンの手を強く握り返した。
「…一緒に帰ろう、団長さんが待ってる」
ウィルソンとカリーナはレオンの背中に乗り、白銀と濡羽色の眠る祠を後にした。
――――
カリーナを連れモンズビレッジの宿屋に到着した団長たちはリーガルとリオンと合流した。
気付けばもう辺りは薄暗くなる時間になっていた。
宿屋の食堂に集まり夕食を取る。
皿に盛られた焼かれた鶏肉や川魚に目を奪われているカリーナ。
「おいしい…でしょ?」
ウィルソンは私の顔を見て料理の感想を聞く。
「…うん」
ムニエル?銀ぎらに包まれた魚…おいしい。
「はい!わたしのもあげるぅ!」
年の近い3人はもう打ち解けたようだ。
「おめぇも暮らす当てがねぇんだろ?
俺たちと一緒に来るか?」
「サーカス団楽しいよ!」
「体力もありそうだしな」
ウィルソンの顔を横目で見るカリーナ。
「"じゃま"じゃ…ない?」
「邪魔だなんてみんな思っていないよ?一緒にサーカス団やろう?」
"サーカスだん"が何かは分からないけど、ウィルソンっていう男の子からの誘いの言葉がすごく嬉しかった。
「…うん!…ありがとう…ございました」
カリーナは団長の方を向き直し、ペコリとお辞儀をした。
「ガハハ、それじゃおしまいみてぇになっちまうだろ。これから始まるんだぞ、宜しくなカリーナ」
「よろしく~!」
「また面白い仲間が増えたな」
「あぁ」
「ありがとうございます、団長さん!」
「なぁに、通りかかった船にはたとえお節介だろうが困ってりゃぁ手を差し伸べてやれ。そうすりゃぁ、その恩はいつか自分に返ってくるってもんだ。それが返って来なくても、恨んじゃいけねぇんだ。何せ、てめぇで勝手にやったことだからな。 ガハハ」
カリーナのニッコリと笑った頬には一筋の涙が流れていた。
たぶんこの子の心からの笑顔だったんだろう。
この笑顔につられて僕も顔がほころんだ。
。。。――――
ジュエルオーキッドの淡い光は深闇の森の中を照らす。
ウィルソンの身体には何の異常もなく、植物の蓄光は祠への道しるべとなった。
「忘れていた気持ちを思い出したよ。ありがとうオオカミさん」
年月が経ち、苔で覆われた小さな祠に手を合わせるウィルソン。
「……これは…」
植物の小さな光しかないためはっきり見えた訳では無いが、祠の横に寄り掛かる物体に目が行った。
ウィルソンはそれを手に取った。
「君が守ってくれていたのかな?」
それはネルソンが小さい頃に肌身離さず持ち歩いていた小さな布製の人形だった。
土で汚れて所々破れているが見覚えがあった。
ネルソンの人形が落ちているということはネルソンは5年前にこの場所を訪れている。
「オオカミさんの…魂…か…」
確かな答えは出ないけど、
もしかするとルシアさんはオオカミさんの生まれ変わりなんじゃないかって思う。
「約束は…守るから」
手に取った人形をまた祠の横に戻し、ウィルソンはその場を立ち去った。
森の祠からキースの待つガスステーションに戻ってくる頃にはもう日が昇り始めていた。
キースのワンボックスカーはスタンドの端に移動してあった。
キースは運転席の座席を倒し眠っていた。
キースを起こさないように静かに助手席に乗り込む。
エンジンはかかっていて暖房がついていて車内はほんのり暖かい。
ガソリンのアナログメーターを確認すると針は上を向き、燃料は満タンに入れられたようだ。
ダッシュボードの上に置かれた携帯電話を手に取り画面を確認する。
時刻は5時51分、着信履歴は無い。
「カリーナ…大丈夫かな…」
「…んぉ?ウィルソン戻ったのか…」
キースが目を覚ました。
「ぁ、ごめん起こしちゃったね」
「いいさ、少しは寝れたからな。何処に行っていたんだ?」
「″カリーナのお父さん″の眠る祠にね。思い出したんだ、昔オオカミさんと交わした約束も、カリーナを離さないって決めたことも…」
「そうか。お前にまだカリーナへの気持ちがあるなら、全部正直に話して来い。あとは変に引きずらないでアリシアちゃんを全力で大切にするこったな」
「うん。そうする」
「よし!そうと決まれば病院に急ぐか。ナビよろしくな」
「わかった、ありがとう」
「おぅ」
――――
それから240㎞の長距離を休憩を挟みながら移動すること8時間。
シンクローズの街に到着することが出来た。
バスターミナルに隣接した駐車場に車を停めることにする。
―この先右折です。―
ナビのアナウンスが指示を出す。
「やべっ!ここ一般車両入れねぇのかよ!」
どうやら入ってくる通路を間違ってしまったキース。
数台の大型バスが行き交うターミナル内に無謀にも侵入してしまう。
すれ違うバスの運転席からのクラクションと痛い視線…。
「くそ…ウィルソン、お前はここから歩いて病院に行け、俺は駐車場探しておくから!」
「ぇ…でも…」
大型バス専用の白枠の中に一時的に車を停めウィルソンを降ろす。
「いいから!カリーナが待ってるんだろ!」
「わかった、ありがとう!」
ウィルソンは慌てて車から降り、丘の上の総合病院に向かい走る。
信号の無い横断歩道を渡ろうとしたその時だった。
坂になった斜面を猛スピードで下りてくる1台のスポーツカーがウィルソンにクラクションを鳴らす。
「うわ!…っ…危ないな…」
スポーツカーを避けようと後退りしたウィルソンは縁石に足を捕られ尻もちを着いた。
何事もなく猛スピードのスポーツカーはそのまま走り去って行った。
「まったく乱暴な…」
ウィルソンは立ち上がり病院を目指す。
病院の入り口を入り、総合窓口で病室の番号を聞く。
「カリーナ•ハーベスターという方の病室は何処になりますか?」
「只今確認致しますので少々お待ち下さい」
そう言って事務員は受話器を取り内線を飛ばす。
しばらく待って確認が取れた事務員が受話器を置いた。
「お待たせ致しました。ご家族様がお待ちになられて居ますので、エレベーターで3階段にお上り下さい」
「ありがとうございます」
総合案内所で病室の番号を聞き、案内された通りエレベーターで3階に上り廊下を歩く。
病室前の廊下の長椅子にグラジスさんが腰掛けていた。
「やぁ、ウィルソンくん」
「こんにちはグラジスさん。遅くなりました」
「大丈夫だよ。カリーナに顔を見せてやってくれ」
「はい」
良く見るとグラジスさんの左手には包帯が巻かれていた。
「怪我したんですか?」
「え?あぁ、このぐらい。カリーナの痛みに比べたら、なんてことないよ」
「そう…ですか」
「君はすごいな…。私だけじゃ何もしてやれなかったよ…」
「え?…僕は何も…」
「いいや…、ありがとう。15分後に戻ってくるから。カリーナを宜しく」
「?…はい…」
クスッとはにかんだグラジスさんはそう言って廊下を歩いて行った。
病室302。名札にはカリーナの名前だけ。
個室みたいだ。
スライドドアに手を掛けゆっくり開けた。
「カリーナ?」
病室のドアを開けてすぐ、ベッドに横になるカリーナが目に飛び込んできた。
カリーナはすーすーと寝息を立て眠っている。
カリーナが眠るベッドの左隣にはベビーベッドが設置してあった。
真っ白なシーツと掛け布団にくるまれてすやすや眠る生後間もない赤ちゃん。
「はじめまして、ルシアさん」
僕はカリーナを起こさないようにルシアさんに小声で話し掛けた。
…助けてくれてありがとうね。
するとその言葉に反応するように、握っていた小さな手をにぎにぎと動かしあくびをした。
前屈みになりベビーベッドに顔を近づけた。
「…ぁ………ウィル…ソンだ……」
目が覚めて、ぽやぁと虚ろな視界の中で部屋を見渡すと、そこには私が待っていたオレンジ色の髪の人影が立っていた。
その姿を見た瞬間、ぶわぁと感情が高ぶり涙が溢れた。
「ぁ、カリーナ。起きたんー」
「ごめん見ないで!…泣いてるから…」
カリーナはババッと目を隠すように顔の前で両腕を腕組みする。
「…もぅ……おそいよぉ……ばかぁ…」
「ごめんね、遅くなったね」
僕は椅子に腰掛けカリーナが落ち着くのを待った。
薄ピンク色の病衣に身を包んだカリーナは髪は結っておらず、落ち着いた印象がある。
「タオル取って。柵の所に掛けてあるでしょ…」
「ぁ、うん」
ベッドの柵の縁に掛けてあったハンドタオルをカリーナに渡した。
カリーナはタオルを受け取り、顔を覆った。
「…ありがとう。…来てくれて…」
「良かった。カリーナが元気そうで」
優しい言葉…、はうぁぁ…またぶわぁっと涙が…。
タオルで目をゴシゴシ擦り涙を拭き取って、ゆっくりお尻を引きづりながら起き上がる。
「…ダーリンは?会った?」
涙を拭いて落ち着いたカリーナはタオルを柵の縁に掛けて、ウィルソンの方を向き直した。
「うん、さっき廊下で。手に包帯巻いていたけど…」
「あは…、あれは私の爪がダーリンの手に食い込むぐらい握ってたみたいで…、切れちゃったんだって…」
「それだけ頑張ったんだもんね。カリーナ」
「…うん。がんばった。すっっげぇ痛かった」
「何か僕に出来ることはある?」
「……」
目線だけ伏せて黙ったカリーナ。
「…ん?」
カリーナの顔を覗き込む。
「頭…撫でて…」
「うん、いいよ」
僕はカリーナの要望通り、椅子から立ち上がりカリーナの頭に右手を添えて、優しい撫でた。
「おめでとう。頑張ったね」
頭を撫でてくれるウィルソンの優しい手の温度。
「…うん……偉いでしょ…お母さんになったよ」
「元気な女の子だね、よく眠ってる」
ウィルソンの傍に居ると胸がきゅってなって息が苦しくなる…、肺炎が悪化した時みたいな…。でも違う…、苦しいけどもっと感じていたい…、すごく温かい…。離したく…ないよ。
ごめんダーリン…。本当の気持ちを言わないままじゃ…苦しいから…。
今だけ…ね…。
「離れて…いかないで…ずっと…」
目線を伏せて両手をぎゅっと握った。
「離れていかないよ。約束…しただろ」
「私…ウィルソンのことが…好き…」
パッと顔を上げ、見つめ合った視線。
潤んだ瞳にドキリとした。
「…うん」
カリーナの口から紡がれた本当の気持ち。
無事に出産を終えて、カリーナのいつも通りの笑顔を見て、僕にも確信が持てた。
僕はカリーナのことが好きだったんだって。
数年ぶりに再会したからじゃない。
もっと昔から、気付いた時には好きだった。
仲間としてではなく、一人の女性としてカリーナが好きなんだって。
"あんたにはアリシアちゃんが居るんだからね!しっかりしなよ!"
"これからカリーナとどう付き合っていくのか、決めるのはお前だ"
シエルとキースから贈られた言葉が不意に口の動きを止めさせた。
この気持ちを無駄にするような事を言ってしまったら、ルシアさんの言った通り、今後のカリーナの生死に関わる…。
ただ、どうすれば未来のことを回避出来るかなんて、僕にはわからない。
昨日まで一緒に居たルシアさんの存在をカリーナに教えてしまえば…。
「実は、昨日の夜までルシー…っ!」
ピーーン…、とこめかみに突き刺すような痛みが走った。
まるで、その言葉を口にすることを制止するかのように。
「?どうしたの」
その痛みは一瞬だけで、スッと消えていった。
「…僕はどこにも行かないよ。カリーナがどこか行っちゃうんじゃないかっていう心配の方が大きいよ?」
「言えてるかも。そしたら必死に探してくれるでしょ?ウィルソンだもん」
昔から変わることのない、無邪気な笑顔。
「リザベートのお屋敷でアリシアと一緒に生活するようになってから。
少しおっちょこちょいで、失敗もするけど、諦めないで仕事を手伝ってくれるアリシアの姿を見てるとさ…。
リズワルドの宿舎でカリーナと一緒に料理していた時のことを思い出すんだよね」
「あはは…、私も落ち着き無いし、よくお肉焦がしてアイラさんに怒られてたもんね…」
「そうだね。イシュメルの港で、アリシアと出会っていなかったら、キルトの街でカリーナに再会することも、こうして出産に駆け付けることもなかったんだよね」
「うん。私もウィルソンにまた会えるなんて、思っていなかったから、すごく…、嬉しい…」
カリーナが本当の気持ちを打ち明けてくれた。
なら、僕もその気持ちに応えられる、最善な言葉。
「僕はカリーナが好きだよ。ずっと前から好きだったんだよ。そしてこれからも、変わらないよ」
「…うれしい…ありがとう…」
ずっと言えずにいた恋心。
こんな何年も経ってから、両想いだって分かったことが…、嬉しくて。
「でも…、私が居たら…、邪魔…でしょ…」
"邪魔者"。カリーナは昔からこの言葉を意味嫌う。
「またそういう言い方する…」
この言葉をカリーナの口から聞くのは何度目だろうな。
「アリシアちゃん…大事でしょ?お揃いの指輪付けてるんだもんね…」
アリシアちゃんも指輪をプレゼントされてすごく喜んでることも知ってるよ。
ウィルソンの小指にはリングが光っていて、手首には私があげた時計がつけられていた。
時計…、ちゃんと着けてくれてたんだね。
ただ時計のガラス面にヒビが入ってブレスレット部分も傷だらけだった。
「ぁ…時計壊れたの?また無茶したんでしょ?正直に言いなさい」
カリーナが腕時計に目をやり、薄ら笑いを浮べ睨まれた。
「ぁ…、ごめん。気付いたら…壊れてた…。この時計が僕を守ってくれたんだよ。たぶん、ありがとう」
「もう…私があげた物壊すの何回目よ」
「助けられてばっかりだね。今も会いに来ることが出来た」
カリーナがニヤリと誇らしげな笑みを浮かべる。
「じゃぁ、もうこの時計は必要ないね。返して」
カリーナが広げた両手に左腕を差し出す。
カリーナは両手でブレスレットの金具を外す。
ウィルソンの左手の小指に視線を下ろす。
「僕は今までも、カリーナのことを邪魔だなんて言ったことなんて一度も無いよね?」
「ぇ?…ぅ…ん…」
「カリーナはずるい。僕が返事をする前に居なくなろうとする」
「ぁ…はぃ……」
素直に気持ちを伝えて断られるのが怖かったの…。
「カリーナは知らないだろ。アリシアってさぁ、まだ10歳なのに、僕だけじゃなく、皆のことも優しく包み込んでくれるんだ。もちろんカリーナもね。」
「私も?はい、取れたぁ」
金具が外れた時計を左手からするりと抜いた。
「そう、アリシアはカリーナの事をちっとも"邪魔な人"だなんて思っちゃいないよ。カリーナが命懸けで産んだこの子の事も、大切に想ってくれるはずだよ」
「詳しいんだね、アリシアちゃんのこと」
「まぁ一緒に暮らしているからね。アリシアはカリーナのことをリスペクトしている面があるから、安心して良いよ」
「そっか」
「だから今度はカリーナが、僕とこの子とアリシアのために、お店に来て欲しいんだ」
「うん…、そうする」
そっか…、また会えるんだ。良かった。
「じゃぁ、ウィルソンにお願いがあるの」
「うん?」
「この子の名前…、一緒に考えて、欲しいな」
その言葉を聞いて、何の躊躇いもなく、すんなり出た名前。
「"ルシア"って名前、どうかな」
「ルシア…」
カリーナがルシアの名前を口にした瞬間、ベビーベッドで眠っていたルシアの瞼がゆっくり開き、目を覚ました。
「…おはようルシアちゃん、おかあさんですよぉ」
カリーナはルシアの顔に手を伸ばし、名前を呼んでぷっくりしたほっぺを優しく撫でた。
「カリーナにとっても、この子に関わる全ての人にとっても"光"になれる女性になるように…」
「…うん。素敵な名前…。ありがとうウィルソン」
これから育児をしていくことになって、お店に行く機会が少なくなっても、この子の名前を呼ぶだけで、ウィルソンとの日々を思い出して、安心できるかも知れないね。
「良かった。気に入ってくれて」
年月が経って、身体も大きくなって、それぞれの道に歩み始めても、心はまだずっと子供の時のまま。
ずっと変わらなかった気持ちを共有出来る人が近くに居る。
勇気を分けてくれる人が近くに居る。
それはこの先もずっと、変わらない。
仲間、家族、恋人、どの枠にも収まらない、大切な人。
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