第55幕 心の灯~ともしび~ 2


「ごめん…なさい…。パパ…、ママ…ひとりは…いやだよ…」


どれ程の時間、声も届かない薄暗い倉庫の中から両親の冷たい背中に語りかけていただろう。

かすれた声は虚しいほどに小さく、弱々しく…、ただ空気の抜ける音のようだった。


するとガチャリと重い扉が開いた。

久しぶりに見たオレンジ色の照明の明かりと逆光で表情の読めない黒い影。

「マ…マ…」

「…おいで」

優しさの微塵も感じない、冷めきった母親の声。

その声すらも、聞けたことが嬉しくて…。

「う…ん」

フラフラになりながら立ち上がり、ママに手を伸ばす。

ママの手はやっぱり握れなかったけど、裾は掴んで良いんだって。

地下階倉庫から出て6段の階段を上がりリビングを見渡した。

煤汚れてボロボロのタンクトップと灰色の短パンに身を包んだその身体は、肉感の無い骨と皮だけのように痩せこけている。


ダイニングテーブルにはパパの後ろ姿があった。

「散歩、行くぞ」

パパは私と顔を合わせず、外へ出て行った。

ママも無言のまま、パパの用意した車に乗る。

紫色に霞む薄明な空の色。

今が朝なのか夕方なのか、わからなかった。


私は後部座席にひとりで座る。

運転席にはパパ、助手席にはママ。

…おなか…すいたな…。

喉もカラカラで声が出ないけど、

ママに叩かれたくないから、出かけた言葉を我慢する。


車の動きが止まった。

「降りて…」

ママにそう言われ、私は車を降りた。

パパの運転する車が停まったのは薄暗い森の中だった。

ママは車から降りることもなく、助手席のドアガラスを半分だけ開けた。

「…ママ?」

かすれた声でママを呼ぶ。

その声はママには聞こえていたのか、ママは表情を変えず、精気を失った目で私を見る。


「さようなら、元気でね。…カリーナ」


ママがその言葉を発した直後、パパは車を急発進させた。

「!…わ」

ブゥーン!!と物凄く大きい音を立てて空ぶかして走り出した車にびっくりして、そのまま地面に尻もちをついた。

「ま…、―ぐふ」

マフラーから出た黒い煙を吸い込みむせる。

あっという間に車は目の前から姿を消した。

ひとり取り残された薄暗い森の中。

頭がくらくらしてぼーっとする…。

そのまま木にもたれ掛かった。


…私、"要らない子"になっちゃった…。


ママがよく言っていた。

"人気の無い子は要らない子"なんだって、

ママはその言葉をすごく嫌がった。

必要とされたいって…。

でも私は、ママの歌声…すごく好きだよ?

私の好きだけじゃ、足りないの?

…ママ…おなかすいたよ…。

気づいた頃には森の中は真っ暗になっていた。

今、夜だったんだ…。

白紫色の髪の小さな少女は、静かに眠りについた。


(なんだあれ?)

(人間の子供だ)

(まだあたたかいぞ、死骸じゃねぇ)

(持って帰るか?)


___________


ヒューと風が通り抜ける音がした。

「……ん…」

小さな少女は目を覚ました。

何時間眠っていたんだろう…。まだ真夜中なのか、地下倉庫と同じように薄暗い。

帰ってきたのかな…、ママ…迎えに来てくれたのかな…。

風だけが通り抜ける音がする。

横たわった頭の下にはコンクリートの地面じゃない、ふかふかした毛布のような感触があった。

…グルル…

と耳元で音が聞こえた。

まだ目の慣れない暗闇の中、少女は頭の上のふかふかに手を伸ばす。

…あったかい…。

温かくて安心できた、湿った土の匂いとお日さまの匂い。

丸まって縮こもる自分の足元に目を向けると、密集した植物の間から日の光が差し込んでいる。

その日の光を眺めていると、目が暗さに慣れてくる。

周囲の状況が徐々に鮮明になってくる。

「ん…んん…」

少女は腕を伸ばし背伸びをする。

頭の上のふかふかがビクッと動いた。

すると周りにいた他のふかふかも動き回る。

太ももや腕を擦れる複数の体毛。

黄色に反射する光が4つ、6つと揺らめいている。

「!…な―いっ」

知らない場所、人ではない何かに驚いて、頭を上げた瞬間天井に頭をぶつけた。

土がパラパラと落ちてくる。

目に土が入らないように目を瞑った。

頭をぶつけないように頭を低くしたまま、日の差し込む方へ這い出る。

ガサガサ、と出口の植物を掻き分け頭を上げた。

日の光が木々の隙間から溢れるように差し込む。

森の中だった。

目の前に流れが緩やかな小川が流れていた。

サラサラと水の流れる音。

食事はおろか水分すらも摂取していない少女の身体は無意識に川の水に吸い込まれるように、川へ飛び込んだ。

冷たくて気持ちがよかった。

少女は川の水を何度も何度も手で掬い、飲み干した。

「…はぁ…はぁ…」

私が今まで眠っていたのは、小さな洞穴の中だったみたい。

その洞穴から出てきたふかふかな生き物。

「おお…かみ?」

茶色い毛並みのオオカミが3頭、洞穴から出てきて川の水を飲んでいる。

小さな少女はオオカミの水を飲む姿の真似をして、水面に口を付け水を飲んでみせる。

「おいしいね」

かすれていた声は潤いを取り戻し、

元気な声が出た。

少女はオオカミたちに笑顔を見せた。

(人間の子だな)

(死骸じゃなくなった)

(人間の子供、最近よく見かけるな)

オオカミたちが水面から顔を上げ、3頭が近づき寄り添っている。

「ん?」

なにかお話しているのかな?

オオカミたちの言葉は私にはわからなかった。

でも、会話をしているんだろうと思った。


ガササ、と植物がざわめく音。

すると木々の間から白銀色の毛並みのオオカミが1頭、少女の前に姿を現した。

「きれいなオオカミさん…」

少女は大きな白銀オオカミの姿に呆気にとられ声を漏らす。


(お前も…あのガキみたいに笑いやがる)


白紫色の髪の小さな少女は、それからオオカミの群れの中で衣食住を共にする。

仲間たちからは"シロ"と呼ばれ馴染んでいった。

オオカミたちとは言葉は通じないが生活をしていくなかで心で通じ合えるようになった。

人里離れた山の中での生活。

土砂崩れで埋まった洞穴は何度も居場所を変え、川の魚やカエルを捕まえて食べた。

夜中に人里に降りては民家に干してある衣服を山に持ち帰ったものを身に纏い、雪が重く降り積もる凍える冬は、皆で身を寄せて暖をとった。


そんな少女は歌うことが大好きだった。

オオカミたちは少女の歌声に聞き酔いしれた。

もう顔も思い出せない母親の、歌声を思い出しながら…、少女は歌うことを辞めなかった。


―それから2年の月日が流れた。


森の中での生活で得た知識と体力は、一般的な8歳の女の子に比べれば身体能力、動体視力共に凄まじく、木登りの素早さ、素手で川魚を捕まえるなど、驚くほどの成長を見せた。

「ほら、あそこにいるよブチ」

茶色い毛並みの背中に黒い楕円の模様になったオオカミをそう呼ぶ少女。

崖の下に居た小鹿を捕らえようと木の影から様子を伺っている。

「グフ」(焦るなよ)

ブチが喉を鳴らす。

「ガルル」(わかってる)

少女は巻き舌を混じえた返事をする。

まだこちらの気配には気付いていない小鹿は、地面から突き出した筍に夢中にかぶりついている。

小鹿までの距離、15m。

物音を立てないようジリジリと近寄る。

「ガウ!」(いくよ!)

少女は一言吠え、崖下の小鹿に向かい走り出す。

頭上の木の枝に捕まり、振り子の要領で勢いを付け、脚をバネのようにして前方の木の側面を蹴り更に加速する。

「ガガウ!」(おい、待て!)

後方のブチが吠える。

が、一度と付いた勢いは簡単には止まらなかった。

少女と小鹿までの距離は5mまで近づいた時だった。

少女の居る反対側、前方10mの距離から小鹿に向かい近づく黒い影。

「あいつまた!」

少女はその影の正体を知っていた。

それは敵対している派閥の特攻オオカミだ。左目に傷を負い、片目しか見えないにも関わらず、両目が見えるオオカミと状況把握能力も俊敏さも変わらない。

背後に迫る2体の気配に気付き、小鹿が食事を辞め駆け出す。

「ガルフフ!」(あれは私のだ!)

「グフグルル!」(邪魔だ小娘!)

木を蹴り方向転換。小鹿を見失わないよう走り去った方向に目を凝らす。

「居た!」

前方10m先で小鹿が立ち止まっている。

…どうして止まっているの?

少女は違和感を覚えた。

小鹿の右後ろ足には人間の仕掛けたであろう鉄製の罠が食らいついている。

小鹿は罠から抜け出せず身動きが取れずに居たのだ。

「グガフ!」(無様だな!)

特攻オオカミは容赦なく、罠に捕まった小鹿に爪を立て仕留めに掛かる。

「ダメっ!」

咄嗟に出た人間の言葉は特攻オオカミには通じなかった。

少女の人間の心に"慈悲"という感情が生まれ、少女の足はそれ以上進まなかった。

脳裏を過った、忘れていた記憶…。

「ぁ…ぁ…マ…」

目の前の小鹿が、薄暗い地下倉庫で怯えていた自分の姿と重なり、胸が苦しくなる。


「ガガフ!」(シロ逃げろ!)


後方でブチが吠えた。

気付いた時にはもうすでに目の前の小鹿に特攻オオカミの他にもう一頭、同じ毛色のオオカミが加わり襲いかかっていた。

その声に反応しシロは正気を取り戻すが、小鹿が罠に掛かったその場所は、敵対する派閥の縄張りに入り込んでいた。

シロの頭上でギラリとチラつく複数の眼光。

他の派閥の縄張りに侵入すること、狩りをするはご法度なのである。

決まりを破った者に容赦は無い。

それは姿、形の違う人間であろうが関係無い。

同じ獣の臭いの染み付いた生き物なのだから。

頭上の木の上からシロの首を狙い飛び掛かる2頭のオオカミ。

「ガウ!」(シロ!)

ブチが吠える。

ダメだ!間に合わない!


その刹那、木の影から物凄い速さで姿を現す白銀の大きな影。

シロの腹部に重くのしかかる衝撃。

「うっ!」

シロは数mふっ飛ばされ大樹に叩き付けられた。

目が眩んでぼやける視界、見慣れた白銀。

寸前のところで頭上のオオカミの攻撃の直撃を免れたが、場所が入れ替わったことにより2頭のオオカミの双撃は白銀オオカミの背中にX字の引っ掻き傷を付けた。

「フッ」

その攻撃に怯むこともなく、2頭のオオカミに後ろ脚の蹴りを浴びせる白銀オオカミ。

2頭のオオカミは木に叩き付けられ地面に崩れ落ちる。

早く!この場を離れなくては―。

「グフ!」(しっかりしろ!)

意識のはっきりしないシロに白銀オオカミが吠える。

「はっ!」

慣れ親しんだ声に気が付きシロは白銀オオカミの首にしがみつく。

白銀オオカミの後にブチがついて走る。


グルルと白銀オオカミの喉が鳴る。

ふかふかの毛並みと太陽の匂い、

シロにとって白銀オオカミは母親のような存在となっていった。

「ガルル…」(ごめん…)

シロは白銀オオカミに謝った。




































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