三章 11
かといって、拳が停止した時間はほんの二秒だった。
呆けたディリオンの隙を狙うようにしてブレイクの握り拳がディリオンの頬に食い込んでくる。
あまりの衝撃の大きさに真後ろに吹き飛んでしまいそうになるが、それをなんとか両足で踏ん張って堪え、その反動を利用することにより、次の一手を放つ。
もちろん、耳に飛び込んできたその事実は受け入れられるものではないし、何よりも振り返って、メリッサと顔を合わせることが怖かった。
だから、それがただの子供の八つ当たりだと理解していてもこう口を開いてしまう。
「なんで……なんでだよ……‼︎」
漏れ出たそれは徐々に大きさを伴って、叫び声に変化していく。
「なんで俺がこんな想いをしなくちゃならないんだ‼︎」
もちろん彼の辛さなんかより、実際に妹を失ったメリッサの悲しみの方が大きいだろう。
そんな事はわかっている。十分にわかっているけど。
「兄貴が病弱なんかじゃなければ……‼︎ 俺があんなことをする必要なんてなかったんだ‼︎」
解き放った左拳がブレイクの顔に突き刺さる。
「俺がこんなにも辛い想いをする事はなかったんだ‼︎」
そして休む暇もなく、右の拳が全力で振るわれる。
「————俺がギャングの道を進むことを迫られる必要なんてなかったんだ‼︎」
ブレイクの体はディリオンの行使する膂力に耐え切る事が出来ず、背後に吹き飛ぶ。
口から飛び出している叫びは、本当にもう。
ただの子供の叫びだ。
そして叫ぶと同時に倒れたブレイクの首元を掴みあげて、そのまま顔面を殴打する。
「なんで今になってギャングなんかになっていやがる⁉︎ なんで俺があんなことをしなくちゃならない前にそうならなかった‼︎」
そして何より。
「なんで、なんで‼︎ なんでその道を進まなくてもいい幸せがその手にあったのに、どうしてそれを手放したんだ‼︎」
ディリオン・マークレイはギャングになりたい訳ではなかった。
だから、長男のはずなのにギャングにならなくて済むブレイクが常に羨ましかった。
そこに病気でか弱い体を持つ、という事実が含まれていようが関係なかった。
ただ羨ましい。あんなにも辛い経験をすることがなく、生きていけることが羨ましい。
だけど。
「………………なんで、……かって………………?」
顔を殴られ、もうヒューヒューという薄い息しか吐き出せなくなっていたブレイクが途切れ途切れにその口を開く。
「簡単じゃねぇか……」
そこら中に痣を広げ、出血もひどく、それでいて後何分意識が持つかすら危うい。そんな男がゆっくりとした言葉を放つ。
「あの親父はお前が施設から出てきたあとに迎えに上がって、もう一度『MH』のギャングのトップに仕立て上げるつもりだった」
だから。彼はそう言って、ディリオンの目を見据える。
「だから……。俺がその座を奪った。……これでお前はもう、あんな経験を二度とする必要はないんだ……。俺がお前の代わりにそれを受け持つ……」
そして、ブレイクの瞳は涙色に滲んでいた。
あれだけ殴りあっても、痛がる素振りすら見せなかったその男が。
「辛かったんだろ……。痛かったんだろ……」
彼はディリオンの顔に手を添えて。
「忘れられないんだよ。あの日のあの夜、家に帰ってきたお前がずっと泣いていたあの姿が」
ディリオン・マークレイは十三歳の時に初めて殺人を犯した。
その日から襲い掛かってくる感触はずっと底無し沼に浸かっているみたいで……、それでいて目を閉じれば悪魔の靄が彼の五感を埋め尽くす様に襲ってくる。
つまり、逃げ場なんて存在しない罪だった。そしてそれを間近で見ている人物がいた。
「だから、もう心配する必要なんてないんだ。お前にはもう二度とあんな事はさせない。これからその責任は俺が請け負う。だから、俺はギャングになった。お前のあんな姿なんてもう二度と見たくないから、病気なんて克服しちまって、一瞬でトップの座まで登り詰めた……」
言葉の節々に血の色が飛んでいて……、しかしながら優しい声音で。
「なぁ、ディリオン……」
彼は首元を締め上げられているはずなのに、
「…………」
自分の弟を抱き寄せた。そして、耳元でこう囁く。
「……お前を助けたかったんだよ。完全とはいかなかったがな……。一人殺させちまった……」
やはり打撃の殴打によるダメージは確かなものなのか、徐々に声が小さくなっていく。
だけど、彼は最後の力を絞り出して、
「だから、撃ってくれていい……」
そう言って、自分の腰のあたりから何かを引き抜いてディリオンに手渡す。
「…………グロック…………」
そして手に握らされたそれを見て、ディリオンは呼吸が止まる。
「お前をそうまで苦しめた原因である俺が憎いだろう。恨んでいるだろう」
ブレイク・マークレイは。
「だから、思う存分やってくれ……」
そう言って、両目を閉じた。
渡されたそのハンドガンは軽量な作りであるはずなのに、両手では支え切れないほどの『重み』があった。それが何によるものかなんて、わざわざ考えるまでもない。
「……違う………………」
そして彼はようやく気がつく。
「違うんだ……。全部……全部……、結局は…………」
そうして、真実を知った彼は銃口を百八十度回転させた。
「……俺は何も気づけていなかったんだ。兄貴の気持ちにすら気づけていなかったんだ……」
その言葉は雨に濡れた衣類のように湿っていて、
「あの日、あの夜のあの子にも、」
自分の汚れた手を見下ろして、
「兄貴にまでもそんな想いをさせて…………」
安全装置(セーフティー)は解除されて、引き金に指がかけられる。
「……俺だけが、俺だけが呪いにかかったみたいな気になって…………」
しかし、その銃口が向いている方向はブレイクではない。
————銃口は自分に向けられている。
「わかっていたんだ……。わかったんだ」
その言葉が示す意味を感じ取ったブレイクは閉じていた目を見開いて、瀕死の体を動かそうとするが、
「全部……罪があるのは……………………」
猶予はなかった。
「————俺じゃねぇか」
乾いた音が連続する。
数瞬後、ディリオン・マークレイの『過去の最悪』を示す、胸に刻まれた大きなタトゥーに風穴が空いた。流れ出る生命と、その貫通した体から赤色の髪をした少女の顔が覗かれる。
誰も止められない。そんな出来事。
そんな風にして、物語は最悪の結末を迎えた。
ディリオン・マークレイという一人の青年。
その人物が自らの贖罪を、その命を代償として果たすことによって。
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