一章 5

「本当にこれで大丈夫なのか?」

「神に祈るしかない」

「俺は宗教に入っていないんだが?」

「ボクもだ、いや一応入っているが信じていないと言うべきか……(アーメン)」

 彼ら二人はプレハブの裏口から慌てて飛び出して、コンクリート壁を乗り越えた。

 いつもなら壁裏の通り(ストリート)にはギャングがうじゃうじゃいるため、極力立ち入らないようにしているのだが、今日の通り(ストリート)は不気味なくらいに静かだった。それもこれも、

「アイツらが原因だ」

 ちょこん、と頭だけ塀から出したメリッサはガソリンスタンドを取り囲む男達を観察する。

 もちろんつい先ほどまで滞在していたプレハブも当たり前のように包囲されていて、今もまだあそこに居たままだとどうなっていたのか? と、背中に嫌な汗が流れてくる。

「なるほど、……この状況————どのギャング組織(ファミリー)も外を出歩かない状況で動けるのは身内を殺された『MH』のメンバーだけってことか」

「そうだ。それにアイツらは誰が仲間を殺したかってことも理解しているからこのガソリンスタンドに駆けつけてきた」

 単純な話だが、それを聞いた瞬間、ディリオンは自分の喉が乾いていくことを自覚する。

「な? ボクが来ていてよかっただろう?」

「まったくその通りだな……」

 彼は営業妨害だから帰れなんて開口一番で言ったことをここで初めて後悔する。

 それからひとまずは『MH』のメンバーに見つかっていないことに安堵して壁に腰を押し付ける。すると同時にまるで力が抜けてしまったかのように、ズルズルと地面に体が落ちていく。

「おいおい、大丈夫か?」

「ああ、なんか安全ってことを自覚すると力が抜けてきてな」

 ディリオンは上から覗き込んでくるメリッサに向けて力ない声で言う。彼女の赤色の髪は月明かりに照らされていて、なぜか蛍光灯の元で見るのとは違い、妙に魅せられる。

「っと」

 軽い調子でメリッサは頭だけ出していた壁からジャンプして飛び降りると、地面に腰を下ろしているディリオンを一瞬だけ見下ろして、

「まだ、危険が去ったわけじゃない。実際にアイツらは壁一枚隔てた向こう側にいる」

 彼女は冷たい目で壁を睨む。

「アイツらがあそこに留まる理由はないし、ボク達がいないって分かればすぐに別の場所を探し始めるだろうさ」

 メリッサは依然として壁を見つめたままであるが、その口調は落ち着いていた。

 やはり今まで行ってきた『ギャング狩り』としての経験がここで冷静さを保つことが出来ることに繋がっているのか。

「それにあまりに急なことだったからプレハブの中に地図なんかを残してしまったままだ。ボクへの手がかりはどんな小さなものであれアイツらに渡ってしまうだろう」

 車が見えた時にはすでに駆け出していたので、ディリオンは空手(腰にグロックを忍ばせているが)、メリッサは自動小銃『AKM』だけを持って瞬時にプレハブから脱出した。

「すまないな……」

 ディリオンは自分がもっと注意をしていれば、と後悔する。

「何を言っているんだ? 何も気負うことはない。アンタは一般人の割に頑張った方だ」

「頑張った? 何がだ?」

 地面に腰を下ろしたままのディリオンは頭に疑問符を浮かべながら尋ねると、メリッサは冗談めかして、こんなことを言う。

「頑張って壁を登ったじゃないか」

「……」

 ディリオン自身、彼女のギャグセンス? のようなものに一切共感できるものはなく、一ミリたりとも頬が上ずらない。

「あれ? ボク結構面白いこと言わなかった?」

「全く面白くない……。全く」

 彼はハァと、息を吐いて腰を上げる。

 今はまだ見つかっていないが、いつまでもこんなに近くに滞在するわけにはいかないだろう。

 それにメリッサは『MH』のメンバーが仲間を殺害した自分を狙っているのだと思っているのだろうが、実際のところ狙われているのは、

(俺って方が可能性としては高いんだよな……)

 なにせ、メリッサは知らないことであるが、昨日『MH』と思われるギャングとスーツの男は明らかにディリオンを連れ去ることを目的としてガソリンスタンドを訪れた。

 メリッサは偶然そこにやって来ただけだ。

 それに『MH』という組織(ファミリー)は昨日来たような下っ端の復讐に執念を燃やすような輩ではない。それはギャングの仲間意識を否定してしまうように感じてしまうかもしれないが、『MH』がそれを出来る理由を彼は知っている。

(他の組織(ファミリー)と違うのはトップの立場ってことか……)

 昔の思い出や記憶を掘り返すことを嫌っているディリオンだが、現在置かれている状況ではそのようなことも考えざるを得ない。それが問題の解決に直接的に繋がるかどうかは不明だが、何も考えないよりはマシだろう。

「な————」

 少しばかり一人だけで考え事をしている時間が長くなってしまったため、なぁ、とメリッサに声をかけようとしたディリオンだが、彼女の目線が壁から動いていないことに気づき、声が収束していく。別にそんなことを気にせずに話しかけてもいいのだが、その目があまりにも鋭く壁を睨んでいたものだから声が急速に萎んでしまった。彼女の鋭い視線に込められているであろう感情を一言で表現するならそれは「怨嗟」が最もふさわしい。

「…………ん? ああ、すまない。どうかしたか?」

 しかし、わずかな声量ではあったが至近距離のため耳には届いたのだろう。

 彼女は鋭い視線を振り向き様に和らげると、プレハブで話していた時と何ら遜色ない声音で尋ねてくる。が、それがなんとも無理をしているようにディリオンは感じた。

「え、あ、いや……」

 メリッサの鋭い視線の意味を捉えることができないディリオンは、メリッサの急激な変化も相まって口籠ってしまう。

「ん?」

「いや……」

 もう一度彼女の瞳を視界に入れるとやはり先ほどまでの鋭さなど微塵もなく、普通に会話していた時と何も変わらない彼女がそこにいて、さっきまでの鋭い目つきが彼だけが見ていた幻想のようだ。

「……ああ」

 しかし、メリッサは何かに納得したのか、そっぽを向いてから改めて短く口を開いた。

「?」

「目、だろ?」横顔をこちらに見せる彼女は何とも思っていないような声で、しかしどこか哀愁を含ませた声色で静かに話す。「なんで分かった? って顔をしているけど、そりゃわかる。なんせ目を真正面からジッと見られているわけだしな」

「すまない」

「なぜ謝る。別に目を見られるくらいなんてことないさ。ま、生足を見られたりしたら怒るかもしれないけど」少し冗談を交えた彼女は改めてこちらに向き直り、抱えていた『AKM』の銃口を地面に突き立ててマジシャンが持つ杖のようにした。

「ま、簡単な話さ。ボクはさ、ギャングを見ると自制心が効かなくなってしまう」

 依然として、壁を隔てたガソリンスタンドからは複数台の車のエンジン音が聞こえていて、アルバカーキの本来あるべき夜を喧伝(けんでん)している。

「ギャングを見ると、どうしても許せなくなってしまう。今回はその症状が酷かった」

 そういえば思い出してみるとメリッサは覚えていないかもしれないが、二ヶ月前に彼女に隣の通り(ストリート)で遭遇した時もその双眸はまるで猛獣のそれだった。

 そして昨夜にディリオンが連れ去られようとしていた時に訪れた彼女の目も、先ほどのようなものだったはずだ。しかし、それは仕方のないことだとディリオンは思う。なにせ、彼女は自分の双子の妹を殺されているという話だった。そしてメリッサ自身がそれを「ギャングを滅ぼしたい理由」として掲げているのだ。だからそれは何ら不思議なことではないと思うのだが、彼女の話の中に一つ不思議な言葉があるのをディリオンは聞き逃さなかった。

「……今日はその症状が酷かった?」

 メリッサがギャングを憎んでいる理由も滅ぼしたいと願う理由も分かる。

 だが、なぜ彼女は今日に限ってそれが臨界点越え(オーバーヒート)するくらいに熟してしまったのだろうか。

「嫌なことを聞くね」

 メリッサは地面に銃口を着けていた『AKM』を地面との接着点を軸にして二周ほど時計回りに回しながら、少しだけ顔を沈めた。

「すまない。嫌なことなら答えなくていい」

「いや、いいさ。別にボクだってアンタが意識してそれを尋ねたんじゃないことくらい分かる。まぁ、ディリオンからすれば聞いて何の得もない話だとは思うけど……」

 月明かりが僅かに彼女の輪郭を映し出し、それが妙に妖艶で、それでいながらその美しさの中には棘が混じっているように感じた。

「ま、なんというか本当に簡単な話なんだよ。でも大体理由なんてそんなものだろ? 特にそれが強い執念であるほど、元になる理由なんて単純なもの……」

「……」

「ボクが今日、その症状が酷かったのは妹の仇がこんなにも至近距離にいるからだ」

 メリッサはディリオンのことを見たまま、壁の方を親指を立てて刺す。

「それってつまり……」

「そうだ。ボクの妹を殺したのは『MH』のギャングメンバーだ。血眼になってたどり着くヒントを探したんだから間違いないはずだ」

 それを聞いた瞬間、ディリオンの心臓が大きく跳ねた。まるで年相応でないが、悪いことをした小学生が学校で一番怖い生活指導の先生にバレてしまった時のように。

(……っ‼︎)

「ま、一般人のディリオンからすれば重い話だと思うけど、簡単に説明するとこういうことさ」

「……………………………………………………………………」

「ん? どうした。おい。大丈夫か?」

 彼女の『妹を殺したのは「MH」のギャングメンバーだ』という言葉に時間が停止してしまったかのような症状に陥っていたディリオンにメリッサは肩を揺すって意識を吹き返そうとする。

 が、それでもディリオンが意識を現実世界に戻すのに二〇秒は要した。それほどに彼女の口から放たれたその言葉はディリオンの記憶に深く突き刺さったのだ。

「……ああ。大丈夫だ……」

 彼は頭を左右に振ってから頭の中に渦巻いている記憶を振り払おうとする。

(……そんなわけ……ないよな……)

「それなら大丈夫だが……、ホントか?」

「本当だ。大丈夫だ」

 彼はかぶりを振っても纏わりつく記憶を無理やりに心の奥底に閉じ込めながら顔を上げる。すると、かなり心配している様子のメリッサの顔が正面にあり、少し驚いてしまう。

「なんだ? どうした……」

「……いや、男として普通の反応をしたまでだ」

 メリッサはその言葉に怪訝な顔をしていたが、あまり気にした様子は見せず、ディリオンが無事であることを確認すると顔を離した。

「……でもよかった」

 そして、メリッサはディリオンから顔を離した後にもう一度壁の方を見やった。しかしそこにある表情は険しいものではなく、柔らかいものだった。

「なにがだ?」

「アンタが————ディリオン(、、、、、)がいてくれてよかった」

 そこで初めて彼女は彼の名前を呼んだ。

「俺が?」

「ああ」メリッサはジッと壁を見つめたまま、それでいてその壁の裏側にある景色を見透かしているようで、その形のいい唇を開く。

「ディリオンが居てくれたおかげで無謀な暴挙に出ることはなかった」

 メリッサは杖のように地面に着けていた『AKM』を持ち上げると、ゆっくりと銃身を撫でた。

「さっきも言ったがボクはギャングを見ると自制心が働かなくなってしまうんだ。だから今までも通り(ストリート)で見かけたギャング達は片っ端から殺害(つぶ)してきた」

 その言葉が示すのは「殺人」ということだ。しかしその対象がギャングである場合、自然とその罪は緩和される。なぜならギャングという存在自体が数えきれない程の人々の生活を奪ってきたからだ。そしてディリオン自身もギャングに関しては思い出したくない記憶ばかりなので彼女のその行為を咎めるつもりはない。が、彼自身、いついかなる時でも自分が過去にソレだったことと、自分が犯してしまった罪は心に刻んでいる。

 だから彼女のその発言を聞けば今でも喉の奥が乾いていく。

「でも、今日はディリオンがいたからな」

 メリッサは銃を持っていない方の手でディリオンを指差す。

「俺が? ……俺がいることと、君の行動がどう繋がるっていうんだ?」

「なんだそんなことか……」

 それも分からないのか、とメリッサは呆れ気味に笑うと、綺麗な目を細めて言う。

「なに、ボクは一般人を巻き込むのは嫌いでね。ボクの妹もギャングとは関係がないのに殺された。だからだろうか、身内でもないのに、ギャングに襲われている一般人を見るとまずは自分の復讐よりも、そちらを優先してしまうんだよ」

 彼女はガソリンスタンドに『MH』のギャング達が来る前、プレハブないで「ボクはヒーローなんか柄じゃない」と言っていたが、今の発言を聞く限り、彼女は限りなくヒーローだ。

「だから昨晩は俺を助けてくれたのか?」

「それもあるけど、ま、なんかそうじゃなくてもディリオンは助けないとダメだなってそう思ったんだ。ただの勘と言うか、思考の偶然かもしれないんだけどね」メリッサはともかく、と柏手(かしわで)を打つと、「今日はディリオンがボクの自制心の歯止めになったということだよ。一人だったら敵うはずがないと分かっていても、『MH』のギャング達に仕掛けていたかもしれない。あの中に妹を殺した奴が居るかどうかも分からないのにな」

 彼女は自傷気味にカラカラと笑うと、左手をディリオンの肩に置いた。

「だから、ありがとう。お前がいてくれたおかげでボクは命を無駄にせずに済んだ」

「お礼の言い方が鼻につくが、まぁ、それでいいってことにしよう。……でも本当はわかってるんだぞ」

「……なにが?」

「本当に今言ったみたいな理由でお前は俺に感謝しているのかもしれないけどさ、でもやっぱり一番大きい要因は一般人である俺を『MH』との戦いに巻き込みたくなかったからなんだろ?」

「……チッ……」

「何でそれを恥ずかしがるんだよ。さっき自分で一般人を巻き込みたくないって言ってたじゃないか?」

「それとこれは違う。なんかこう、目の前で助けた奴本人に確信をついたように言われると腹が立つ……」

「どうしてだよ……」

 ディリオンはメリッサのよく分からないプライド? が少しおかしくて思わず笑ってしまう。彼女はそれに「笑うな」と反抗したが、それが余計におかしい。

「ま、助けてくれてありがとな」

「何を今更……」

 少しばかり笑いすぎたからか、そっぽを向いて拗ねてしまったメリッサはどこか退屈そうに言葉を発する。

「というか、笑っている時間なんてないぞ。アイツらがここにやって来るのも時間の問題だ。逃げる準備が出来ているなら足早に離れるぞ」

 メリッサと一緒にいた時間で初めて生まれた気まずい時間(メリッサのみが)に、彼女自身どうしたらいいのか分からなくなったのか、急に一歩前に踏み出すと、背中で「早く着いてこい」と語る。

「はいはい……」

 彼はそれに軽い足取りで追いつくと、メリッサに気づかれないように一度だけ壁の方の向こうのガソリンスタンドに視線をやった。

(なんで……また……今更、俺を……)

 彼の心に渦巻く感情は誰も知らない。誰にも知らせることはできない。

 目の前には少し先を行く、赤毛の少女、壁の向こうには彼があるべき居場所。

 でも、戻りたくないから。

「なぁ、メリッサ(、、、、)」

 街灯がチカチカと不鮮明に光る裏路地で、場違いな程に可憐な彼女が振り返る。

「なんだ?」

「俺も…………」

 その場で足を止めたディリオンを不思議に思ったのか、急いでいるはずの彼女もその場でゆっくりと足を止めた。

「どうした……? 改まって」

「いや、……」

 壁を隔てたガソリンスタンドからは未だに『MH』の誇示するかのような車の爆音が聞こえている。しかしそれを聞いたら言おうとしていた言葉はまるでシャボン玉が破裂するように空気中に霧散して気づけば口から出なくなっていた。

(巻き込むわけにはいかないよな……。例え目的が似通っていたとしても……)

「いや、なんでもない」

「?」

 その答えにメリッサは怪訝な表情を浮かべていたが、それでもその先の言葉を言うことはできなかった。言えるはずがなかった。それを伝えてしまうと彼女の本当の『地獄』に付き合わせてしまうことになるから。

「なんでもない。ほら、アイツらがこっちに回って来る前に早くいこうぜ」

「……そうか……、そうだな……」

 メリッサはディリオンの態度に納得していない様子ではあったが状況が状況だけに一度だけ彼を窺ってから前に向き直った。

「で、どこか行くアテはあるのか?」

 彼女の横に駆け足で追いついたディリオンはその横顔を流し目で見ながら走る。

「ああ。大丈夫だ。帰ればいいだけさ」

「?」

「帰るって言ったら一つしかないだろう。常識で考えろ」

「もしかして……?」

「そうだ。一般常識的に帰るという言葉が示すのは、ボクの家だ」

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