2/6 ナラトロジー(物語論)におけるナラティブという概念

 また、いわゆるナラトロジー(物語論)の分野では、ストーリーやプロットと異なるナラティブという概念も使われます。


 訳語としては「物語」が当てられることが多いようですが、意味については専門家のあいだでも一致していないようです(なお、ナラティブという用語は医療など別分野にも転用されているようですが、私はよく知らないのでここでは省略します)。


 橋本陽介は『物語論 基礎と応用』で「理論家の間で必ずしも一致しているわけではないが」と前置きしつつ、「時間的な展開がある出来事を言葉で語ったもの」という定義をしています。


 ナラティブの場合、物語論によって分析対象となるもの、という認識で考えるとわかりやすいかもしれません。


 物語論ではナラティブ(つまり物語)を物語内容、物語言説、物語行為の三つに分けます。


 物語内容とは、読んで字のごとく語られる内容のことです。


 物語言説とは、その内容をどう語るかということで、形式と言い換えたほうがわかりやすいかもしれません。


 物語行為は単に「語り」と言われる場合もあるようですが、物語を語っている人物(語り手)を扱います。


『桃太郎』を例にすれば、「桃から生まれた桃太郎が犬、猿、雉を率いて鬼ヶ島に行って鬼退治をする」というのが物語内容に該当し、この内容をどう語るかが物語言説に該当します。


 青空文庫には楠山正雄による『桃太郎』の話が載っていますが、その書き出しは次のようなものです。

――――――――――――――――――――

 むかし、むかし、あるところに、おじいさんとおばあさんがありました。まいにち、おじいさんは山へしばりに、おばあさんは川へ洗濯せんたくに行きました。

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 しかしこれを「いつの時代であったか判然としない。場所もわからぬ。ただ、大昔にある村で、老夫婦がつつましく暮らしていたという。夫は山へ芝刈りに行き、妻は川へ洗濯に行くのが日課であった」と書くこともできます。


 あるいは書簡体小説や手記形式を用いて、「あれはある日のことでした。私はいつものように山へ芝刈りに行き、普段どおりに帰宅しました。ところが、川へ洗濯に行ったはずの妻は、平生とは違う出来事に見舞われていたのです」というふうに書くこともできます。


 むろん順番を入れ替えて、いきなり桃太郎が犬、猿、雉を率いて鬼ヶ島へ乗り込むところから始め、冒頭に当たる部分を回想形式で語ってもよいわけです。


 順番を入れ替えても、文体を変更しても、語っている内容(物語内容)は変化しません。物語言説とは、このようにどう語るかを問題にした部分です。


 そして、物語行為は誰が誰に向けて語ったか、という点を考えます。


 楠山正雄の文章はひらがなが多く、漢字にもルビが多く振ってあります。このことから語り手は子供に向けて語っていると推測できます。


 一方、私が書いた最初の例は、別段難読語などはないものの、少なくとも楠山正雄よりは対象年齢が高いことがうかがえます。


 また、私が二番目に書いたものは語り手が変わっています。


 楠山正雄と私が最初に書いたものは、一般に作者と同一視されることの多い(厳密には語り手と作者は別人ですが)語り手です。


 しかし二番目の例では、おじいさん自身が語り手となって物語を語っています。


 このように物語行為では語っている人物を扱います。


 つまり、ある内容(物語内容)を、ある形式(物語言説)で、語り手が語ること(物語行為)によってナラティブ(物語)が出来上がるわけです。

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