第8話 黄金のジパング
「
幸村が飛ばされたのは戦国時代の堺、大魚夜市で人々が賑わう大浜海岸だった。
小さな人垣の真ん中で、幸村が本当に何の仕掛けもない藍色の布を広げて見せている。
「これから皆さんと一緒に念じて、ここに神様の御使い『白い雀』を呼んでみせます」
まずはお賽銭を頂きます。大丈夫です、白い雀が現れなければ倍にしてお返しします、と言って藍色の布に賽銭を集めて廻り、最後に、途中でお賽銭が
「それでは、祈ります」と賽銭の入った藍色の布を両手で包み、ハンドパワー、カモン、コクモ、カモン、コクモと祈ると、布の中で何かが暴れ出す。更に、来てます、来てます、と祈る幸村。突然、空を見上げて叫ぶ。
「空を舞え!」
おおーという
雲一つない青空の下、小雲が現れたり、消えたりしながら、パタパタと気持ち良さそうに飛んでいる。そして、集まった人々の頭上を二、三回ほどゆっくりと廻る。
「それでは、手を合わせて祈って下さい。
小雲が天高く舞い上がり、青い空の中に消える。そして、幸村が、皆さんの願いは神様に届けられましたと、空になった布を広げて見せる。
***
小雲が霊化したまま、パタパタと飛びながら幸村に付いて来る。懐も温まったので、大浜海岸から
堺の名は
『小雲は何が食べたい?お蕎麦は好き?』
『おソバってダレ?美味しいヒト?』
小雲は実際に何かを食べる必要はない。幸村といるだけで、人々の祈りや念のエネルギーを吸収できる。神仏や霊にとって、あらゆる時空につながる特異点は、充電器の役割を果たす貴重な存在だ。
何だろ?跡をつけられてるみたいだ。一人の男が幸村たちの様子を窺っている。
「御主、ちょっと待て」
またか、と幸村が振り返る。殺気は感じない。
「見かけない服装だが、キリシタンか?」
「違います、ただの高校生です」
「高校生?まあ良い、茶でも飲まなぬか?」
『茶でも・飲まぬか、、』
ナンパか?と思ったが違ってた。良かった。下手に拒んで、お手打ちにでもされたら、洒落にもならない。
その男の名は
***
南宗寺は1557年に三好長慶が父の菩提を弔うために創建した臨済宗大徳寺派の禅宗寺院だ。
万十話に案内されて、幸村が禅宗様式の二層建ての三門をくぐると、世俗との結界を超えた仏の世界が広がる。土塀で囲まれた境内は外の喧騒が幻かと思うほどの静けさだった。
「
悟りとは「お釈迦様の悟りの体験を自己の中に自覚すること」、仏性とは「言葉による理解を超えたものを認知する能力」のこと。従って、言葉で理解するのではなく、坐禅を組み、感覚的、身体的体験で自己を見つめ、仏性を悟るのである。
つまり、自分の中にある本来の自分を、自分で取り戻すだけだ。特定の本尊や、経典へのこだわりもない。むしろ、何でもあり。悟ったもの勝ちとも言える。
特に臨済宗は鎌倉幕府の庇護を受け、裕福で暇な上級武士層に広まったため、その「禅」は水墨画や能、詩、建築などに大きな影響を与え、多くの趣味人を輩出した。そして、それらを統合して大成したのが「侘び寂び」の茶の湯だった。
戦国時代、日明貿易・南蛮貿易と鉄砲の大量生産で黄金時代を迎えた「堺」。「
元々、臨済宗は茶の湯との縁が深い。日本の茶の栽培や喫茶の習慣は、臨済宗の開祖栄西が宋から持ち帰った茶の種を寺で栽培したことから始まった。
南宗寺の境内にある茶室「
その茶杓で抹茶を掬い、赤楽茶碗「名月」に柄杓で湯を注ぎ、茶筅でかき混ぜて茶を点てる。溢れる光のように、流れ落ちる水のように、余すことも欠けることもない所作。
「幸村くん、どうぞ」と茶碗を差し出す十話
ありのままに飲めば良い、花が野に咲くように、今、生きていること、生かされていることに感謝して、ただ飲めば良い。
口に含むと緑の抹茶は淡雪のように溶け、幸村の中で精霊たちの記憶が甦る。夜明けの海、星降る夜、草原を駆けぬける風、青い空に輝く透明な太陽、精霊たちが旅した何万年もの時間が甦る、、信じられない、けれど、そのすべてを幸村は知っていた気がする。
『面白い奴を連れて来た』
誰かの声が聞こえて、現実に返る幸村。目の前に立っていたのは、大きな鎌を持ち、黒いローブを身に纏った美しい死神だった。
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