第2話

「ここ、どこ……?」


 胸にボロボロの布袋を抱いたまま、呆然と立ちすくむ。

先ほどまで自分がいたのは、どこにでもある普通の山だった。ピクニックにふさわしい初夏の日差しと、夏用ではあるが重ね着をした巫女服に汗をかいてはいたものの、とても爽やかな風が吹いて気持ちいいねとみんなで笑い合っていたのだ。


 お祭りのリハーサルの前にお弁当を食べて、「じゃあやるよ!」と元気いっぱいのおばちゃんの声とともにみんな一斉に動き始めた。


 袴も白いおばちゃんたち4人がお社と若い少女二人を四方に囲むように立ち、赤い袴を着た私、その数歩後ろに綾香が控え、深々と社に向かって首を垂れる。


 私は首を垂れたまま、備え付けの酒器に神酒を注ぎ、榊を活け、お社の扉を開いた。

 この作業、腰が痛むなぁ、などとぼんやり思いながら、お社の中にあった細いボロボロの布袋をつかんだ瞬間。


 稲妻が鳴り響いた。


「きゃぁ!」


「な、なになに!?」


「みんな落ち着いて! あやちゃん、はるちゃん、そのまま動かないで!」


 おばちゃんたちの声が、遠くなる。稲妻そのものは見えなかったが、まるで私の体を貫いたかのように、完全に硬直していたのだ。


「春奈!?」


 その異変に気付いたのは綾香だけだったが、異変はそれだけでは収まらない。


 地面が、突如、黒く揺らめいた。


 それと同時に全員目が開けられなくなるほどの突風が吹きすさび、私の意識は完全に遠のいたのである。


 覚えているのは、真っ白い空間と、ひどく美しい碧色のなにか。


 再び意識を取り戻したときはもう、私はこの深い森の中にいた。


 「……」


 言葉を失う。スニーカー越しに感じる大地は先ほどまでの砂と砂利ではなく、ふわふわのカーペットのような苔むした地面。こんな場所、平野だった自分の街にあるわけがない。


 こういう時、どうすればいいってお父さんは言っていたっけ?


 春奈の父は登山家だった。

こういう山に行ったこともあっただろう。でも、私が小さいころに入った山で行方不明となってしまった。きっとこういうときの対処も、寝物語に教えてくれていただろうに、現実に忙しい私はそんなことさっぱりと忘れてしまった。


 「どうしよう……」


 思わずつぶやいた瞬間、ふと、春奈の感覚が何かをとらえた。斜め後ろで、呼吸音がする。


 熊? と思ったとたん、それが違うと思い知らされた。


 ねっとりとした呼気。そこに混じった、声帯を通したとは思えない声が、獣でないことを教えてきたのだ。



――――ニ、ニ、ニンゲ、ン



 「っ!」


 殺気ではない、だが、食欲を孕んだ声。私、食べられちゃうの? そんなの……。



 嫌だ!


 春奈は、脱兎のごとく走り出した。もつれる足を何とか整え、向かう方向もめちゃくちゃ。それでも、ここから逃げなければ、食べられてしまう!


 しかし、それで逃げ切ることはできなかった。


「あうっ!?」


 いつの間に追いついたのか、6本の指に、頭が鷲摑みされたのだ。


 首に強烈な痛みが走り、体からなぜか急激に力を失っていく。

まるで、六本指に吸い取られていくかのように……。


―――ゴ、ニガサナイ……


 ごってなんだ。ごちそうって言いたいのか。


 決して相手を見るまいと目をつむる。獣のような匂いが鼻を突く。


 私、本当に食べられちゃうの!? こんな訳の分からないところで!?


 獣のにおいが強くなり、本当に口の部分が近づいているのだと思うと、途端に心の底から猛烈な怒りがわいてきた。


 むっかつく……!


「勝手に人を、ごちそうにすんなぁ!!」


 がむしゃらに足を振り回す。キックボクシング、という綾香の言葉が脳裏に浮かび、適当にぶん回した足が何かに強烈なキックをかましたのが分かった。


 ぱっと、頭から六本指が離れる。たぶん見るとビビッて動けなくなってしまうのが分かっていたので、目をつむったまま走るという生まれて初めての危険走行で逃げることにした。


 だが、向こうも怒ったのだろう。六本指が、今度は足に絡まって、私は生まれて初めて顔面から転んだ。


 「へぶっ!?」


 地面がふかふかの苔だったのが幸いして、痛みは全くない。


 けれど、思わず目を開いてしまった。それが、いけなかった。

 

 六本指の姿を、完全に見てしまったのだ。


「あ……あ……」


 それは、奇怪きわまる獣だった。いや、獣ですらなかった。


 黒い泥だ。黒い泥が、クマのようなずんぐりとした体躯と、異様に大きな六本指の両手両足を持っている。そして、意志を感じない濁った一つ目が、ぎょろりと私を見つめている。



―――ニンゲン、ミタナ

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