碧竜想記
千羽はる
第1話
「春奈、お願いっ!」
ぱんっ、といい音を立てて、お母さんが私に頼み込んでくる。
私、浅野春奈はといえば、「嫌」という思いも表情も隠すつもりはなかった。
せっかく作ったカレーが冷めちゃうじゃないか、と思いながら、無視を決め込んで匙を口に運ぶ。
今日のカレーは仕事が遅番だった母に変わって私が作った。ルーではなく、スパイスから作ったこだわりの品である。なので、早く食べろ。
そう思う私とは裏腹に、頭を下げたまま、お母さんは言葉をつづける。
「お願いよお! 自治会長の娘だからっていう結構理不尽な理由ではあるけど、この少子化の中で、なかなか、なってくれる子がいないのぉ!」
「なにさらりと時事問題出してるの。っていうかさ、お母さん。私、一応、今年受験生なんだよ? 大事なその夏休みにお祭りに出る余裕があると思う?」
高校三年生にとって夏休みとは大切な時期である。それは母も十分承知のはずである。
それでも、と頭を下げる母とは母子家庭ということもあり、友達のような仲の良さを保っていた。
私の言葉に、母は今にも泣きそうな顔で眉間にギュッとしわを寄せ、よよよとわざとらしい泣きまねを始めた。
「はるちゃんは頭良いしぃ、あほだった私と違ってパパに似て成績優秀だしぃ、夏休みがつぶれちゃうのは申し訳ないんだけどぉぉ!」
「……なるほど、もう決定事項ということね」
頼まれたら絶対に断れない性分の母であることは、娘である私が一番よく知っている。
おそらく最近あった自治会で酔っぱらいの近所のおじさんに話を向けられ、いろいろと考えた結果、私に矛先が向けられたのだろう。
私はスプーンを置くと同時にため息をついた。
「わかったよ……kurunaのケーキ三つで手を打とう」
「ぐっ……まさか、kurunaで来るとは……。いいでしょう、お母さんも今回ばかりは折れられない。それにシュークリーム追加でどう?」
「乗った!」
「契約成立!」
似た者同士の親子は、地元で一番おいしいという噂のケーキとシュークリームで妥協したのであった。増えてるって? そこは母の大好物だから許してやってちょうだい。
母の頼み事というのは、地元で行われる火祭りの主役として参加してほしいというものだった。
この地方都市では珍しい火祭りということで、地元メディアだけではなく遠方からも取材が来る。
四方に松明を燃やした壇上で、普段は山の小さなお社に祭られている神様の剣をもって舞うのが私の役割――つまり、主役だ。
普段もこうやって町内の女の子たちから選ばれるのだが、今回は選ぶ、というよりも頼みごとを断れない母の娘である私が指定されて押し切られてしまったらしい。まぁ、選ぶといっても実のところ挙手してやるもので、参加したい女の子は年々減っていっている。
火を扱うことから年齢制限もあって、中学生から高校生と決まっているのたが、その三分の一は私と同じ受験生だ。
誰だってそんな面倒なことはやりたくないだろう。
そして、そんな私と同じ憂き目にあった女子が一人。
「春奈ぁ。疲れたぁ」
体育館で舞の練習を終え、汗だくの体をタオルで拭きながら、私と同い年の少女がやってきた。
彼女は小井川綾香。私の幼馴染であり同級生。私と同じように、今回のお祭りの「犠牲」になった子である。
ショートカットより少し伸ばした黒髪の私と違い、彼女の髪は生まれつき薄茶色をしたポニーテール。綾香が動くたびにひょいひょいと揺れる髪色は、少しばかりうらやましい。
当の本人は、この髪色を嫌っているのだが。
彼女は主役である私の補佐役。お母さんと同じ自治会の副会長であった綾香の母は単純に押しに弱く、そのせいで引き受けざるを得なかったという。
私より運動量は少ないが、主役と違って小さな松明を持って舞うということもあり、その危険度と暑さたるや想像を絶する。
幼いころからやりたくない役ナンバーワンに数えられる補佐役を、同じく受験生である綾香が引き受けたのは、正直意外だった。私と違い、綾香は意志が強い方で、嫌と言ったら絶対嫌というタイプなのである。
「いやー、春奈が出るからいいかなーと思って」
という友達冥利に尽きる理由で出てくれたらしい。それを母に言ったところ、浅野家から綾香にシュークリームとケーキが進呈された。
「お疲れ、綾香。この年になってここまで運動するとはねー」
お祭りの舞なんて初めてだが、今まで使ったことのない筋肉を使っているらしい。
おかげさまで、初日の練習では前進筋肉痛というひどい目に遭った。夏休みを費やす理由が納得できたというものだ。
それは綾香も同様だったようで、舞の先生である八百屋のおばちゃんからもらったスポーツドリンクを飲みながら遠い目で頷く。
「ほーんと。私、今まで水泳とかキックボクシングとかいろいろやったけど、まさか日本舞踊じみた運動やることになるなんてねー」
綾香は運動好きなので、キックボクシングという春奈には全く縁のない運動までやっている。
そんな彼女が補佐役でなぜ自分が主役なのか、一瞬、本気で訳が分からなくなった。
「なんで綾香が主役じゃないのよ……」
「いや、運動音痴の春奈が炎持つよりは安全だと思われたんでしょ」
ド正論。春奈は徒競走では常に下位を維持しているレベルの運動音痴である。本当はそれもあって舞なんてやりたくなかったし、実際、習っている今でさえ動きがガタガタしていると叱られる始末だ。本当、嫌になっちゃう。
「ででででも、登山だったら何とか得意だよ?」
「あー確かに。林間学校とかでみんながへとへとになってるのに一人だけはきはきしてたもんねー」
実際、この祭りの肝は登山だったりする。慣れない巫女服を着て、神社がある山に登り、お社の中から祭りの本当の主役である剣を取り出すのだ。
その山登りに挫折する女子の多いこと多いこと。あまりにもブーイングがひどいので、何年か前からスニーカーに巫女服という奇怪な格好が許されることになった。
「はぁー。まさしく明日がリハかぁ」
「舞はなんとなかったけど、登山だと思うと気が重いよねぇ。しかもリハなのにお互い巫女服だし」
巫女となる少女二人と、今、舞を教えてくれているおばちゃん4人が小さな山を登る。
それはおばちゃんたちにとっても一大イベントのようで、「はるちゃん、あやちゃん、明日のお弁当は期待しといて」と胸を張って言われている。
要するに、お祭りのリハという名のピクニックなのだ。そう考えると、春奈も綾香も気が滅入るよりもわくわく感のほうが勝る。
「まぁ、気楽にいこうか!」
「そうだねぇ!」
二人は「休憩終わりだよー!」と呼ばれるまで楽しくしゃべった後、明日のピクニックに不安半分、わくわく半分で挑むことになったのだった。
―――それが、どうしてこうなった?
「綾香……? おばちゃんたち……?」
震える声で春奈が声を絞り出しても、返事はない。
それはそうだろう。なにせ、今、春奈がいる場所はボロボロのお社がある見慣れた山ではない。
樹海という方がふさわしい、巨木が立ち並ぶ日本とは思えない光景。
濃い緑色が空気にまで滲み出す森の中に、春奈はいた。
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