第18話 契り

 飛び込んできた殿下に、ユシアン様は訳も分からずに呆けている。でも、何を勘違いしたのか、猫なで声で殿下にとてとてと近付いていった。


「アイフェルト様、どうしてここに? ︎︎ちょうど良かったわ。今、わたくし達の邪魔をする雌猫めすねこ折檻せっかんしていたところですの。ご覧になって? ︎︎さっぱりして、可愛らしいでしょう? ︎︎これから首を切ってあげますの。殿下もご一緒にいかがかしら」


 ユシアン様が一方的に語りかけるその間、殿下の目は私を凝視していた。血の滲んだ耳や首、辺りに散らばる髪の束。それらを順に見やると、元から荒かった息が、更に速く、浅くなっていく。顔色が見る間に青ざめて、きゅっと形のいい唇を噛み締める。


 殿下はゆっくりとユシアン様に視線を移すと、拳を振り上げ、その横っ面に力の限り叩き込んだ。あの細い腕のどこにそんな力があるのか、ふくよかなユシアン様なのに、容易たやすく吹き飛んでしまった。床にぶつかる鈍い音と飛び散る血に、私は身を固くする。


 衝撃で思いっきり打ち付けられたユシアン様は、状況が飲めないのか呆然としていた。そっと口元に手をやると、だらだらと流れる鼻血で真っ赤に染まっていく。それを見ながら、数瞬遅れで襲う激痛につんざく叫びを上げた。


「い、いやぁぁぁっ! ︎︎痛いィィッ! ︎︎かお、わたくしの顔がぁぁッ!」


 じたばたと藻掻もがくユシアン様だけれど、メイド達は誰一人として助けようとしない。それどころか、愉悦ゆえつに浸ってさえいた。日常的に味わってきた恐怖の対象がもろく崩れ落ちたのだから、さぞ気分がいい事だろう。

 

 殿下は悲鳴を上げるユシアン様には目もくれず、私の元へ駆け寄ると抱き起して、外套を頭から被せてくれた。その後ろから騎士達が雪崩れ込んできたから、私を隠してくれたのだと思う。気遣うように短くなった髪を撫でてくれる。


「リージュ、ごめん。僕が遅かったばかりにこんな……明後日の婚約発表は中止しよう。君を好奇の目に晒したくない」


 苦しそうに声を絞り出す殿下に、私は微笑みかけた。


「いいえ、予定通りに行いましょう。私は大丈夫です。それよりも、実の娘がこれだけの事をしでかしたのですから、宰相を審議にかけられるのではないですか? ユシアン様は日頃から臣下を虐げていたようです。この好機を逃してはいけません。公爵邸を調べれば、遺体が見つかるはず。私がご案内できます。」


 あまりにきっぱりと言い切る私に、殿下は首を傾げる。その様子は、先ほどまでと違って可愛らしい。思わず笑うと、むっとして尋ねられた。


「どうして分かるの? 公爵邸には、今までどんな手を使っても入り込めなかったんだ。密告はあったけど、証拠が掴めなくて、踏み込めもしなかったのに……あ」


 そこで気付いたのか、殿下の頬が染まっていく。それに頷くと、きつく抱きしめてくれた。そして、周りには聞こえないように囁く。


「魔力が発現したんだね。やっぱり君は僕の番だよ。母上も、父上に出会った事で力に目覚めたと言っていた。どういう力か、教えてくれる? 僕が来た事にも気付いていたようだけど」


 部屋には既に多くの騎士が、あちらこちらと動き回っていた。殿下の配下である彼らは、泣き叫ぶユシアン様を捕え、メイドや実行犯であろう男達を連行していく。その騒がしさに紛らわせるようにして、殿下の耳元へ唇を寄せた。


 一通り説明すると、殿下の表情は更に明るくなっていく。


「すごい……すごいよリージュ! 僕の過去視とその力があれば、宰相の悪行も暴かれるはずだ。力を、貸してくれる?」


 眉を垂れる殿下に「今更ですわ」と答えれば、苦笑いが返ってきた。そして、そっと私の左手を掬い取ると、薬指の指輪に口づける。


 そこには二輪の花が咲いていた。

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