Ⅵ・最終話(2)

 どこまでも広がる、透き通った暗闇。


 美しく編み上げられた、光の紋様。


 小さく揺れる髪。


 微かな声。


 ゆうらりゆうらりと過ぎる時間と、ひとつところにただよう私。


 無限に続く、不変の時間。


 そうして、私は、顔を上げた。


 膝を抱えていた手を離し、立ち上がる。


 光の紋様が薄くなった。さっきまでよりも遠くなったようだ。

 つまり、球体がさらに拡大している。


 私は、前を向いて、足を踏み出した。


 微かな声が、ほんの少し大きくなった気がした。


 数歩進むと、先に、あの森の中にあった人形が再び現れた。

 あの時と同じように、足を投げ出した状態で座っている。顔は、うつむいていて分からない。


 さらに数歩。

 近づくごとに、声がはっきりしてくる。

 どうやら、同じフレーズが繰り返されているようだ。


 それは、泣き声だった。


 いつの間にか、人形の姿勢が変わっている。

 見つめ続けているはずなのに、私の意識の一瞬の隙でも突いたのだろうか。


 それは、無防備な状態ではなく、膝を抱えてうつむいた姿になっていた。

 まるで、生きているもの、小さな子供のように感じられた。


 さらに数歩。

 繰り返されている言葉が、聞き取れるようになった。

 それは、あまりにも簡単な一言の繰り返しだった。

 ただ、ひたすらに、繰り返し繰り返し続けられる一言。


 繰り返し続けているのは、もう人形ではなく、人間になっていた。

 膝を抱えて、顔を埋めて、泣き続ける、私と同じ制服姿。

 その前で、私の歩みは止まった。


 見下ろす、私。


 見上げる、彼女。


 そこに居るのは【希美/栞あの子】で。


 そして、私自身だった。


 その口が、わななく。


 それは、延々と繰り返された、動き。


「ごめんなさい」


 涙が頬を伝う。唇が小刻みに震える。色を失った、肌。


 私は、緩やかに膝を折る。


 【希美/栞あの子】へと降りて。


 私自身へと、降りる。


 そして、赤ん坊に毛布を掛けるように、広げた両手で、抱きしめた。


「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」


 泣きじゃくりながら繰り返す。


 ただ柔らかく抱きしめる。


 光の境界線が散った。音もなく。


 それは、砂金がさらに細かく、霧散していくようだった。


 その最後の粒が消えると同時に、周囲の暗闇がもの凄い勢いで動き始める。

 初速と最高速度の差がほとんどない程の、唐突な動き。


 しかし、動いているのは周囲ではなく、私だった。

 まるで吹き飛ばされるかのように、あっと言う間に引き上げられていく。

 何もかも瞬時にして引きはがされて、彼方へとかき消されていった。


 あまりにも急激な変化だったが、私には動揺はさほど生まれなかった。


 こうなることは分かってたのだから。そう、ただ一つ残っていた迷いを捨てたときに。


 上昇はまるで瞬間移動のように瞬く間のことで、始まったときと同じように唐突に停止した。一切の衝撃無く。


 私は依然として暗闇の中にいた。

 しかしそれは、さっきまでの透明な暗闇とは異なる。今の暗闇は、単純に物理的な暗闇だ。


 単に目を閉じているだけの暗闇。


 そう、暗闇の世界にいるわけではない。その証拠に、漂うような感覚はなく、明確な重力が感じられる。

 どうやら、私は寝かされているようだった。布か何かが体にかけられているような感覚がある。


 それに、さっきまでと違って、細々と、多様な音があふれかえっている。

 シグナルのような電子音、かすれる空気の音、何かが、誰かが遠くを進む足音。

 それぞれ大した音量ではないのだが、完全な無音だった先ほどまでと比べれば別世界だ。


 しかし、不思議と、それほど不快ではない。

 鼻を突く何かしらの刺激臭にも、あまり違和感がなかった。保健室というか、病院にありがちな、薬品系の臭い。


 感覚器が受ける全ての信号は、暗闇による完全な世界から現実の世界へ戻ってきたこと、夢から覚めつつあることを、私に告げていた。


 その現実の世界に直面する一歩手前で、私は躊躇ちゅうちょしていた。


 このまま、後は目を開ければ、私は完全に現実の世界へと戻ることになる。それは、あの優しい暗闇の、完全な世界を失うことでもあった。

 まだ、視覚という強烈な情報を遮断しているが故に、あの世界のことを覚えているものの、目を開ければ記憶から綺麗さっぱり消えてしまうことだろう。


 


 私はためらった。


 でも、それも少しの間だった。

 だって、迷いを捨てたときに、既に心は決まっていたのだから。


 これから、私は、大きく息を吸って、瞼を開く。

 願わくばそこに――




 ――光あれ。


(了)

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