Ⅵ・最終話(1)
あくまでも、穏やかで心地よい、優しい暗闇だった。
透明な紺を幾重にも幾重にも重ねたような黒でありながらも、どこまでも柔らかく暖かい暗闇は、私を押し込めることもなく、縛り付けることもなく、優しく、ただただ優しく包み込んでくれていた。
そして、その暗闇と私を守るように走る光の境界線は、ぼんやりとしながらも、しっかりとした美しい輝きを放ち、縦横に広がっている。
そうして編み上げられた光の球体の中で、私は暗闇に抱かれながら、膝を抱えて漂っていた。
そう、再び、私はここに帰ってきた。
もう、立体感を誇る雲で見る者を圧迫する曇り空も、不気味な存在感を放つ異様にねじれた木々も、悪寒の走るリズムで動かずにうごめく悪意を持った暗闇の塊も、どこにもいない。
私を見捨てて、見殺しにして、見物する者は、もういなかった。
あの異形の暗闇たちが支配する世界で、記憶の底からあふれ出た数々の傷跡――いや、まだ開いたままなのだから傷口か――に翻弄されて、全てを拒絶した瞬間に、全てはかき消されたのだ。
そして、私はまたここに、この優しい暗闇に漂っていた。
まるで時間が巻き戻されたかのように、あるいは全てをなかったことにされたかのように。
でも、この心地よい暗黒の世界は、以前と寸分違わず同じというわけでもなかった。
一つには、私を囲む光の球体のサイズが大きくなっている。倍近くになっているのではないだろうか。
そして、もう一つは、決定的な違いだった。
光の境界線の外の暗闇が、以前とは異なるのだ。
密度の濃い、生き物のような暗闇が、無い。
以前は、光の球体の外には、圧迫感があって低速で脈動する、あの気持ちの悪い暗闇が広がっていた。
しかし、今は、光の線の向こうまでも、透明で、深く、そして柔らかく心地よい暗闇が続いている。
球体のサイズが大きくなって、その外までの距離が随分と開いたせいで、やや見えにくくなっていることは否めないが、それでも、私には確信があった。
あの、私を疎外し虐げる暗闇は、光の向こう、その果てまでも、もう存在してはいない。
完全な世界、だった。
私は安らかだった。
この、私にとっての完全な世界に帰ってきたとき、私は悪夢のような現実に切り刻まれたショックで、しばらくは全感覚を完全に閉じていた。
何も見ず、何も聞かず、何も感じず、ただひたすらに内側へ、内側へと意識を向けていた。
記憶の底に押し込めていた現実が吹き出し、もう彼方へ押しやることが出来なくなってしまい、その鋭い刃にまた切り裂かれ続けて、私は私の全てを閉じようとしていた。
そんな私を、この世界は優しく包み込んだ。
静かに、穏やかに、柔らかく、暖かく、優しく守り続けた。
そう、無慈悲な現実の刃と、私が私自身へと振るう刃で生み出され続ける傷を、暗闇は丁寧に埋め続けていった。
その破壊と再生は幾度となく繰り返され、際限のないもののようにも感じられたが、いつしか暗闇による再生がわずかに上回ったようで、気がつけば破壊も再生もない、陰と陽のない、なだらかな地平へと、私の心は降り立っていた。
だから、今はもう、私は安らかだった。
あの、細くて薄い、微かな声が私を呼び続けていても。
あの小さな声は、結局、最後まで消えなかった。
圧し潰されそうな曇り空も、異様な木々も、暗闇の塊も、残酷な現実の記憶も、自分を責める自分も、全て飲み込み、消化し、なだらかに穏やかにまとめあげたこの完全な世界でも、それだけは残っていた。
細い、あまりにもか細い、消えてしまいそうな声。
それがあの暗闇の塊たちの声ではないことははっきりしていた。
いや、暗闇の声ではない、ではなく、それが誰の声なのかは、もう分かっていた。
そして、それが私を呼んでいる訳ではないことも、もう分かっていた。
優しい暗黒によってなだらかに穏やかになって、私の心は、その微かな声に対しても、もう騒ぐことはなくなっていた。
あるのは、迷いが一つだけ、だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます