Ⅴ(1)

「あ、いいっすね進藤先生。まだ残ってます?」


 医局へ戻ってくるなり能天気な声を出す小暮に対して、進藤は投げやり気味にコーヒーメーカーを指さした。「お、ラッキー」と軽い調子で、新任医師は進藤が淹れたコーヒーの残りを使い捨てカップに注ぎ始める。

 そして、三人掛けのソファに向かおうとしたが、その上を占拠している毛布の固まりを見て、機敏に身を翻した。


 その軽快な、屈託のない振る舞いにあきれて、力が抜けた進藤の体がソファにさらに沈み込んだ。


「お前な、先に言うことはないのか?」


「あっ、お疲れさまっした、進藤先生」


 進藤にしては珍しい小言に、小暮が慌てて応える。その反応からして、本当に気が回らなかったことは間違いなく、進藤は思わずため息をついてしまった。

 ただでさえ疲労困憊して力が入らないところだったので、余計に手足が重たくなる。


 残業後の帰り際に急患を診ることになってから、進藤は結局そのまま夜通し執刀しつづけたのだ。しかも、全身多発骨折及び肝損傷、左腕半断裂と、相当にやっかいな手術の連続で予定外の徹夜である。

 場数を踏んでそれ以上の経験もある進藤とはいえ、さすがに疲れるものは疲れる。


 いや。年をとったかな。


 自嘲した笑みが、少しだけ口のはしに浮かんだ。

 不惑を通り越したあたりからあった体の違和感が、衰えであることを最近自覚したところだったのだ。

 だからといってそれは急激なものではなく、実際のところは、その傾向があるといった程度のものなのだが、全盛期にはもう届かないことは否定できない。

 昔のように、紛争地域での医療活動へ赴くような真似は、今の体力ではさすがに出来ないだろう。寂しいが、まあ自然なことだと進藤は思っていた。


 もっとも、衰えを感じ始めたのが、四十代に足を踏み入れた時期であるだけでなく、友紀子を失った時期であることは、進藤の意識に上らなかった。


 いや、正確には、意識に。人生の節々で必ず現れる妻の姿を、仕事に打ち込んでいる間にその姿を失った事実を、進藤は未だに処理できないでいた。

 処理できないまま、目をそむけながら、自分の奥底の隅へ、隅へと静かに押しやる。

 暴れださないようにそっと、しかし速やかに、滑らかに、そして大切に。


 もし取り戻せるなら進藤は犠牲を厭わないだろうが、もう友紀子がこの世にいない以上はどうしようもない。


 結果、進藤の中で、亡き妻はとして処理されていた。


「いや、でも凄いっすよね、進藤先生」


 進藤の雰囲気で決まりが悪くなった小暮が、気を取り直すように言った。


「何が」


「救急で運び込まれた飛び降りと腕切りの患者を続けざまに手術、ですもんね。完璧だったじゃないっすか。マジ凄いっす。二人とも、進藤先生がいなかったらダメだったっすよ」


 無愛想な進藤の声にもひるまず、歯切れよく軽快に続く小暮の声。会話の流れとしてはフォローを意図したもののはずだが、その調子には掛け値なしの賞賛がにじみ出ていた。

 小暮の場合、良きにしろ悪きにしろ筒抜けなのだ。


「まだ分からん」


 またも、進藤はあっさりと返した。

 実際、手術は成功したと言って良いが、患者が助かるか、元通りに回復するかとは別の話だ。特に、肝損傷の女子学生は脊椎の損傷も酷く、神経は確かにつないだもののかなりのリハビリが必要になるはずだった。

 そして、リハビリをがんばったところで必ず元通りになる保証は、ない。左腕の神経がボロボロになっていた子についても、同じことが言えた。

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